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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第17話 悪女は、条件を突き返した

北方の屋敷にある小さな執務室で、セレスティアは三通の手紙を前にしていた。


 一通は王太子府からのもの。

 王妃の病状を理由に、速やかに王都へ戻れと記されている。


 一通は王妃宮からのもの。

 あなたが自分を差し出す必要はない、と書かれていた。


 そして最後の一通は、まだ白紙だった。


 これから、セレスティア自身が書く返書である。


 窓の外では、北方の風が低く鳴っている。

 王宮の部屋では聞いたことのない音だった。


 王宮の風は、絹のカーテンで柔らかくされる。

 人の声も、足音も、怒りも、悲しみも、厚い扉と礼儀作法の向こう側で整えられる。


 けれど北方の風は、整えられない。


 冷たく、まっすぐで、誤魔化しがない。


 今のセレスティアには、その方がありがたかった。


「文面は、柔らかくしますか」


 向かいに座るノアが尋ねた。


 机の上には、王太子府から届いた文書の写しと、王妃宮から届いた手紙が並べられている。


 ノアは余計な口出しをしない。

 だが、必要な確認は必ずする。


「柔らかくしすぎれば、また黙って従うと思われます」


 セレスティアはペンを取った。


「かといって、強くしすぎれば、王妃陛下や王妃宮が矢面に立たされます」


「では」


「礼は崩さず、条件は崩しません」


 ノアがわずかに頷く。


「あなたらしい」


「褒め言葉でしょうか」


「はい」


 即答され、セレスティアは少しだけ視線を落とした。


 以前なら、そういう短い肯定をどう受け取ればよいのか分からなかった。


 お世辞か。

 社交辞令か。

 何か別の意図があるのか。


 王宮では、言葉はいつも裏を読むものだった。


 けれどノアの言葉は、時々まっすぐすぎて困る。


 セレスティアは紙に向かった。


『王太子殿下

 ご命令、ならびに王妃陛下のご体調に関するご連絡、拝読いたしました』


 そこまで書いて、手が止まる。


 王妃の体調。


 その言葉だけで、胸が揺れる。


 戻らなければ。

 自分が確認しなければ。

 薬草は足りているのか。食事制限は守られているのか。香炉は止められているのか。


 考え始めると、すぐに立ち上がりたくなる。


 だが、胸元には王妃の手紙がある。


 私の病を理由に、あなたが自分を差し出す必要はありません。


 セレスティアは目を閉じ、一度だけ息を整えた。


 そして続きを書いた。


『しかしながら、本件は王妃宮予備費、救貧院支援、王太子府儀礼費、ならびに王宮財務記録の保全に関わる重大事項です。従いまして、王太子府単独での聴取には応じかねます』


 もう一度、同じ条件を書く。


 今度は、前より明確に。


『正式な説明の場を設ける場合、以下の同席を条件といたします。

 一、王妃宮代表者

 二、財務局代表者

 三、書記局代表者

 四、記録保全に関わる第三者立会人』


 最後の一文で、セレスティアはペン先を止めた。


 第三者立会人。


 王太子府は、きっとノアを拒む。


 外部の辺境伯を王宮財務の場に入れる理由はない。

 そう言うだろう。


 だが、王宮内部だけの場に戻れば、また同じことが起きる。


 誰かが言葉を整える。

 誰かが責任を曖昧にする。

 誰かがセレスティアの確認印を、都合よく別の意味に変える。


 もう、それは許せない。


「閣下」


「はい」


「お名前を使わせていただくことになります」


「そのためにいます」


「ご迷惑が」


 言いかけて、セレスティアは口を閉じた。


 ノアが静かにこちらを見ている。


 その目に、少しだけ呆れが混じっている気がした。


「……禁句でした」


「はい」


「申し訳ありません」


「それも、似たようなものです」


 セレスティアは困った。


 そして、ほんの少し笑った。


「では、ありがとうございます」


「受け取ります」


 短い会話のあと、セレスティアは文面を続けた。


『第三者立会人につきましては、北方辺境伯ノア・ヴァレンティア閣下に依頼いたします。これは私個人の保護のためではなく、王宮内記録と外部保全記録の照合を公平に行うためです』


 保護のためではない。


 そう書いたのは、自分に言い聞かせるためでもあった。


 ノアに守られている。


 それは事実だ。


 だが、ただ守られるためだけに彼を同席させるのではない。


 自分の記録が消されないように。

 王宮の中だけで事実を曲げられないように。


 そのための立会人。


 セレスティアは最後の文を書いた。


『私は王宮の混乱を望んでおりません。ですが、私の名を用いて不正処理がなされることも、私の沈黙を理由に事実が失われることも望みません。

 正式な場が整いましたら、私は記録とともに説明いたします』


 そこで筆を置いた。


 部屋に沈黙が落ちる。


 ノアが文面を読み、静かに頷いた。


「よいと思います」


「強すぎませんか」


「弱すぎません」


「……そういう言い方をされると、少し安心します」


「それはよかった」


 ノアは封筒を用意し、従者に視線を向けた。


「王都へ。王太子府、王妃宮、財務局、書記局へ同文の写しを届ける」


 セレスティアは目を上げた。


「同文を、すべてに?」


「はい。一か所だけに送れば、途中で消える可能性があります」


 消える。


 その言葉に、セレスティアは胸が冷えた。


 以前なら、そこまで疑いたくなかった。


 けれど今は、疑わなければならない。


 それが悲しい。


「そうですね。お願いします」


 従者が頭を下げ、文書を受け取った。


 部屋を出ていく背中を見送りながら、セレスティアはゆっくり息を吐く。


 手紙を出した。


 戻れという命令に、条件を返した。


 たったそれだけなのに、身体の奥がひどく疲れている。


 ノアが茶を注いだ。


「休みましょう」


「まだ、自分の記録が」


「一通書いた。今日は十分です」


「ですが」


「十分です」


 同じ言葉を、少し強く繰り返された。


 セレスティアは反論しかけて、やめた。


「……はい」


 素直に頷くと、ノアは少しだけ目を細めた。


「今のは進歩です」


「子どものようですね」


「休むことを覚え始めた人への評価です」


「やはり子どもでは」


「成長に年齢は関係ありません」


 真面目に返され、セレスティアは言葉に困った。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 その返書が王太子府へ届いたのは、翌日の昼前だった。


 アデルは、前回よりも早く封を切った。


 文面を読み進めるにつれ、顔が険しくなる。


「同文が王妃宮と財務局にも届いているだと?」


 報告に来た侍従が頭を下げる。


「はい。書記局にも届いております」


「誰が許した」


 誰も答えられない。


 許すも何も、手紙は届いてしまったのだ。


 王太子府だけで握り潰すことは、もうできない。


 アデルは便箋を机に叩きつけた。


「彼女は王宮を疑っている」


 ガレオン卿がすぐに言う。


「王宮というより、殿下のご判断を疑っているのでしょう」


 その言葉は、アデルの怒りに油を注いだ。


「セレスティアが、私を?」


「ええ。北方辺境伯に唆されているとはいえ、これは明確な反抗です」


「反抗」


 アデルは低く繰り返した。


 婚約者だったころ、セレスティアは反抗しなかった。


 意見は言った。

 訂正もした。

 時には、アデルにとって耳の痛い助言もした。


 だが、それはすべて王太子を支えるためのものだった。


 今の手紙は違う。


 彼女は、アデルを支えるためではなく、自分を守るために書いている。


 それが、アデルには耐え難かった。


「第三者立会人は認めない」


 アデルは言った。


「王宮財務に辺境伯を入れるなど論外だ」


「同感です」


 ガレオン卿が頷く。


 だが、侍従が恐る恐る口を開いた。


「しかし殿下。財務局と書記局にも同文が届いております。王妃宮も、条件を認めるべきとの立場を崩しておりません」


「母上は病で判断が鈍っている」


 言ってすぐ、アデルは自分の言葉にわずかな違和感を覚えた。


 だが、もう口にしてしまった。


 侍従は顔を伏せる。


 ガレオン卿は、その言葉をすぐ拾った。


「では、王妃陛下のご負担を理由に、正式な場そのものを延期されては」


「延期?」


「はい。セレスティア嬢が条件を出し続けるなら、こちらも場を設けない。彼女は王都へ戻れず、帳簿を抱えたまま北方に留まることになります」


 アデルは黙った。


「その間に、王宮内の記録をこちらで整えます」


 整える。


 その言葉が何を意味するのか、部屋にいる者たちは分かっていた。


 不都合な書類の順番を変える。

 確認印の解釈を整える。

 王太子府側近に責任が及ばないよう、処理経路を曖昧にする。


 それは改ざんではない。


 少なくとも、彼らはそう呼ばない。


 整理。


 修正。


 混乱の収拾。


 王宮には、便利な言葉がいくつもあった。


 だがアデルが答える前に、扉が開いた。


「その必要はございません」


 入ってきたのは、書記局長だった。


 後ろには財務卿バルツァーもいる。


 アデルの表情が変わる。


「誰が入室を許した」


 書記局長は深く礼をした。


「王妃陛下のご命令により、財務記録保全のため参りました」


「ここは王太子府だ」


「はい。ですので、王太子府に関わる記録も保全いたします」


 空気が固まった。


 ガレオン卿が声を低くする。


「書記局長。言葉に気をつけられよ」


「気をつけております」


 書記局長は落ち着いていた。


 その態度は、どこかセレスティアに似ている。


 アデルはまた苛立った。


「セレスティアの手紙を読んで、急に皆が正義の味方にでもなったつもりか」


 財務卿バルツァーが、ゆっくり口を開く。


「殿下。これは正義の話ではございません。帳簿の話です」


「同じことだ」


「違います」


 バルツァーの声は低かったが、はっきりしていた。


「帳簿は、感情では動きません。殿下がセレスティア様をどう思われていようと、数字は数字です」


 アデルは言葉を失った。


 財務卿が、自分にここまで言うのは初めてだった。


 いや、今までも言おうとしていたのかもしれない。


 セレスティアが間に入って、言葉を整えていただけで。


 そのことに思い至り、アデルはますます不快になった。


「では、君たちは辺境伯の同席も認めるというのか」


 書記局長と財務卿は顔を見合わせた。


 先に答えたのは、バルツァーだった。


「私は、条件付きで認めるべきと考えます」


「本気か」


「王宮内の記録に疑義が生じている以上、外部保全された写しとの照合は必要です。辺境伯閣下は、その写しが北方で保全された経緯の証人になります」


「これは王宮の問題だ」


「王宮だけで処理できなかったから、ここまで来たのです」


 静かな一言だった。


 だが、アデルの胸に突き刺さった。


 ガレオン卿が口を挟む。


「財務卿、それは王太子府の失態とおっしゃりたいのですか」


「王太子府を含む王宮全体の失態です」


 バルツァーは逃げなかった。


「そして、その失態を一人の令嬢へ押しつけようとすれば、さらに大きな失態になります」


 アデルは立ち上がった。


「下がれ」


 声が鋭く響く。


 書記局長も財務卿も頭を下げたが、動かなかった。


「王妃陛下のご命令により、記録保全を終えるまでは下がれません」


 アデルは王妃の名に、初めて明確な苛立ちを覚えた。


 母までもが、自分の判断に口を出す。


 リリアナも。

 財務卿も。

 書記局長も。


 皆、セレスティアの記録を盾に、自分へ疑いを向けてくる。


 なぜだ。


 自分は王太子なのに。


 自分は正しいことをしたはずなのに。


「……好きにしろ」


 アデルは吐き捨てるように言った。


「ただし、王太子府の私的書簡には触れるな」


「財務に関わるもののみ確認いたします」


 書記局長が淡々と答える。


 彼らが記録確認を始めると、ガレオン卿の顔色が目に見えて悪くなった。


 アデルはそれに気づいた。


 気づいたが、何を意味するのか考えたくなかった。


 一方、王妃宮では、リリアナが王妃の寝室に呼ばれていた。


 王妃は枕を背に身体を起こしている。


 顔色はまだ悪い。

 けれど瞳は冴えていた。


「セレスティアの返書は読みましたか」


「はい」


 リリアナは頷いた。


「お姉様らしい文でした」


「どういう意味で?」


「礼を崩さず、でも一歩も引いていませんでした」


 王妃は少しだけ微笑んだ。


「ええ。あの子らしい」


 リリアナは膝の上で手を握る。


「王太子府は、辺境伯閣下の同席を拒むと思います」


「でしょうね」


「もし拒まれたら、お姉様は戻らないでしょうか」


「戻らない方がよいでしょう」


 王妃の答えは静かだった。


 リリアナは少し驚いた。


「王妃陛下は、お姉様に戻ってほしくないのですか」


「会いたいですよ」


 王妃は、素直に言った。


「とても会いたい。叱りたいこともあります。礼を言いたいことも、謝りたいこともある」


 リリアナは目を伏せた。


「ですが」


「ですが、あの子がまた自分を犠牲にして戻るなら、会いたくありません」


 王妃の声は弱い。


 しかし、言葉は揺るがなかった。


「リリアナ。人は、誰かのために動くことがあります。それは尊いことです。けれど、自分を消してまで誰かに尽くし続ければ、いつか周囲はその犠牲を当然だと思うようになります」


 リリアナの胸が痛んだ。


 自分も、当然だと思っていた。


 姉が止めてくれる。

 姉が直してくれる。

 姉が分かってくれる。


 お姉様なら、分かってくださると思っていました。


 あの言葉が、今ではひどく残酷に聞こえる。


「私は、お姉様に何を返せるのでしょうか」


 リリアナは小さく尋ねた。


 王妃はすぐには答えなかった。


「返すことを考える前に、奪わないことです」


「奪わない……」


「セレスティアの功績を奪わない。痛みをなかったことにしない。怒る権利を奪わない。許さなければならない立場に追い込まない」


 リリアナの目に涙が浮かぶ。


「私は、許してほしいと思ってしまいます」


「当然です」


 王妃は言った。


「人は、自分が傷つけた相手に許されたいものです。でも、その願いを相手に押しつけてはいけません」


「はい」


「あなたがするべきことは、許されるために泣くことではなく、事実を見続けることです」


 リリアナは深く頷いた。


「はい」


 そのとき、マルタが入ってきた。


「陛下。王太子府で記録保全が始まりました。書記局長と財務卿が入っております」


「そう」


 王妃は目を閉じた。


「では、じきに出ますね」


「何が、でしょうか」


 リリアナが尋ねる。


 王妃は静かに答えた。


「セレスティアの確認印を、誰が承認印として扱ったのか」


 リリアナの背筋が冷えた。


 それはつまり、王宮の中で誰かが意図的にセレスティアの名を使ったということだ。


 姉を悪女にするだけでは足りず、帳簿の穴にも名前を使った。


 リリアナは唇を噛んだ。


「王妃陛下」


「何です」


「もし、その人が殿下の近くにいる方なら」


「そのときは、アデルも選ばなければなりません」


 王妃の声は静かだった。


「真実を見るか、側近を守るか」


 リリアナは何も言えなかった。


 アデルは、どちらを選ぶのだろう。


 自分を守ると言ってくれた人。

 姉を冷たい女だと言った人。

 帳簿を見ようとしない人。


 その人が、真実を見られるのか。


 リリアナには、まだ分からなかった。


 北方の屋敷へ新たな知らせが届いたのは、その日の夜だった。


 王宮内で記録保全が始まったこと。

 財務卿と書記局長が王太子府に入ったこと。

 王妃宮が正式にセレスティアの条件を支持したこと。


 セレスティアは報告を読み、静かに目を伏せた。


「動きましたね」


 ノアが言う。


「はい」


「怖いですか」


「怖いです」


 セレスティアは正直に答えた。


「私の記録で、誰かの罪が明らかになるかもしれません。王宮が揺れるかもしれません。リリアナも、殿下も、父も、傷つくかもしれません」


「あなたはすでに傷つけられています」


「分かっています」


 セレスティアは報告書を畳んだ。


「でも、誰かが傷つくことを望んでいたわけではありません」


「望まなくても、必要なことはあります」


「はい」


 そう答えながら、胸は重かった。


 真実は、優しくない。


 記録は人を救うこともあるが、同時に逃げ道を塞ぐ。


 自分が積み上げてきた数字が、今度は誰かを追い詰める。


 その現実に、セレスティアはまだ慣れていなかった。


 ノアは、少しだけ声を落とした。


「セレスティア殿」


「はい」


「あなたは誰かを傷つけるために記録したのではない」


「……はい」


「誰かがその記録で傷つくなら、それは記録のせいではなく、その人が何かをしたからです」


 その言葉は、厳しかった。


 だが、必要な厳しさだった。


 セレスティアは頷いた。


「覚えておきます」


 その夜、王太子府の記録室では、一枚の古い処理票が見つかった。


 王妃宮予備費から、王太子府儀礼費への一時補填。


 処理欄には、セレスティアの確認印。


 だが、その横にある承認者欄の筆跡が、不自然に薄い。


 書記局長が灯りに透かす。


 下に、別の文字が見えた。


 削られた名前。


 ガレオン・リード。


 王太子側近の名だった。


 財務卿バルツァーは、深く息を吐いた。


「……出ましたな」


 書記局長は黙って頷く。


 その場にいたアデルは、処理票を見つめたまま動けなかった。


 ガレオン卿は青ざめている。


「殿下、これは」


 言い訳が始まる前に、書記局長が静かに言った。


「この処理票は、保全いたします」


 アデルの指が震えた。


 セレスティアの確認印。


 その横に隠された、側近の名。


 初めて、逃げ道のない数字が、王太子の前に置かれた。


 それでもアデルは、まだ認められなかった。


 いや、認めたくなかった。


 なぜなら認めれば、昨夜の断罪からすべてが崩れる。


 セレスティアは悪女ではなく、止めようとしていた者になる。


 そして自分は。


 その女を、皆の前で切り捨てた男になる。

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