第16話 彼女はもう、命令だけでは動かなかった
王太子府へ届いた返書は、薄い封筒一つだった。
紙も封蝋も簡素で、華やかさはない。
レイノルド公爵家の紋章も、北方辺境伯家の紋章も押されていない。
ただ、封の折り方だけは美しかった。
正確で、乱れがなく、どこか見覚えがある。
アデルはそれを見ただけで、差出人が誰なのか分かった。
セレスティア。
あの女は、こんなところまで崩れない。
昨夜の断罪でも、王宮を去るときも、指輪を外すときも、あの女は最後まで礼を崩さなかった。
それが今、ひどく腹立たしい。
「開けますか、殿下」
側近ガレオン卿が尋ねる。
アデルは封筒を机の上に置いたまま、しばらく見ていた。
自分が送ったのは召喚状だ。
王宮財務記録の持ち出しについて説明せよ。
速やかに王都へ戻れ。
王太子府に出頭せよ。
命令である。
返書など、本来は必要ない。
戻る日程を書いてくればよいだけだ。
それなのに、封筒の重みが妙に気に障った。
アデルはようやく封を切った。
中には一枚の便箋。
文字はセレスティアのものだった。
整っている。
冷静で、読みやすい。
そして、感情の逃げ場がない。
『ご命令、拝読いたしました』
最初の一文は礼を尽くしている。
だが、次の行でアデルの眉が動いた。
『ただし、本件は王妃宮予備費および救貧院支援にも関わる重大な財務事項であるため、王太子府単独での聴取には応じかねます』
応じかねます。
その言葉が、アデルの胸を刺した。
命令に、条件を返してきた。
セレスティアが。
あの、いつも自分のために資料を整えていた女が。
会議の前に反論予測を用意し、失言しないよう文面を整え、王太子の威厳が傷つかないよう先回りしていた女が。
今、自分に向かって、応じかねますと書いている。
「……何と」
ガレオン卿がそっと覗き込む。
アデルは無言で便箋を渡した。
ガレオン卿は読み進めるうちに、顔を曇らせた。
『王妃宮、財務局、書記局、ならびに第三者立会人の同席を条件として、正式な説明の場に応じます』
ガレオン卿が低く言う。
「これは、殿下を信用していないという意味です」
アデルの指が、机を叩いた。
「分かっている」
「第三者立会人とは、おそらく北方辺境伯のことでしょう」
「ノアか」
「はい。彼女は辺境伯を盾にするつもりです」
アデルは便箋を奪うように受け取り、最後の一文に目を落とした。
『私は逃げているのではありません。記録を守っております』
記録を守っている。
まるで、王宮が記録を守れない場所だと言っているようだった。
実際、その通りかもしれないという考えが一瞬だけよぎり、アデルはすぐに打ち消した。
違う。
これはセレスティアの言い訳だ。
自分が不利にならないよう、王妃宮や財務局を巻き込もうとしているだけだ。
「ずいぶんと強気だな」
アデルは低く言った。
ガレオン卿は慎重に頷く。
「王妃宮が後ろにいると見てよろしいかと」
「王妃陛下が?」
「少なくとも、侍女長マルタは彼女の記録を受け取っています」
「母上は病床だ。余計なことで煩わせるべきではない」
その言葉は、アデル自身には正論に聞こえた。
だが、部屋の隅に控えていた侍従は、静かに目を伏せた。
王妃宮予備費。
王妃の薬草。
救貧院支援。
それらはすべて、王妃に関わることだ。
王妃を煩わせるべきではないという言葉で、王妃から遠ざけてよい話ではない。
けれど誰も言わなかった。
言えば、またセレスティアの名を出すことになる。
「公爵は?」
アデルが尋ねると、侍従が答えた。
「控室にお待ちです」
「呼べ」
すぐにグレゴール・レイノルド公爵が入ってきた。
厳格な表情は相変わらずだったが、目元にはわずかな疲れが見える。
昨日、リリアナに父として問い詰められたことが、少しは響いているのか。
あるいは、ただ不愉快な事態が続くことに苛立っているだけか。
アデルには分からなかった。
「セレスティアから返書が来た」
アデルは便箋を差し出した。
グレゴールは受け取り、読み始める。
最初は表情を変えなかった。
だが「応じかねます」の一文で、わずかに眉が動いた。
「……あれが、このような返答を」
グレゴールの声は低い。
アデルは椅子に身を預けた。
「公爵。彼女は昔からこうだったのか」
「いいえ」
グレゴールは即答した。
「あれは、命じられたことは完璧にこなす娘でした」
「では、なぜ今は従わない」
グレゴールは便箋を見下ろしたまま、すぐには答えなかった。
答えは、二人とも薄々分かっている。
セレスティアは王宮から離れた。
父の手元から離れた。
王太子の婚約者という立場からも離れた。
そして、ノア辺境伯のもとにいる。
命令だけで縛れる紐が、一本ずつ切れている。
「北方辺境伯が、余計な知恵をつけたのでしょう」
グレゴールはようやく言った。
アデルも頷いた。
「やはりそうか」
「セレスティア一人なら、このような条件を出すことはありません」
その言葉に、アデルは少し安心した。
そうだ。
これはセレスティア自身の変化ではない。
ノアが裏で唆しているだけだ。
ならば、まだ戻せる。
彼女を王都へ呼び戻し、辺境伯から引き離し、公爵家の管理下に置けばよい。
「再度命令を出す」
アデルは言った。
「条件は認めない。王太子府への出頭を」
「お待ちください」
口を挟んだのは、グレゴールだった。
アデルは眉をひそめる。
「何だ」
「強く命じれば、辺境伯が拒む口実を与えます。あの男は、王都のやり方に従わない」
「ではどうする」
「王妃宮を先に抑えるべきです」
グレゴールの言葉に、ガレオン卿が目を細めた。
「公爵閣下。王妃宮を、ですか」
「セレスティアの条件は、王妃宮の同席を前提にしています。ならば王妃宮が同席を拒めばよい」
「母上が拒むとは思えない」
アデルが言うと、グレゴールは静かに答えた。
「王妃陛下ではなく、王妃宮の実務を止めるのです。病状悪化を理由に、公式な同席は難しいと」
アデルは一瞬黙った。
王妃の病状を理由にする。
それは便利だった。
だが、どこかで嫌な感覚があった。
セレスティアも、王妃の病を盾に王宮へ入り込んだと断罪したばかりではなかったか。
今、自分たちは王妃の病を盾に王妃宮を黙らせようとしているのではないか。
その考えが頭をかすめる。
アデルはすぐに振り払った。
これは王宮を混乱から守るためだ。
「マルタ侍女長が従うか」
「従わせるのではありません。余計な負担を王妃陛下にかけるなと伝えればよい」
グレゴールの声は冷静だった。
あまりに冷静で、そこに娘の名誉を守ろうという熱は一切ない。
ただ、家と王宮の波風を抑えるための方策。
アデルは、その冷静さを頼もしいと思うべきなのか、不快に思うべきなのか分からなかった。
そのとき、扉が叩かれた。
「殿下。王妃宮より使者です」
アデルは顔を上げた。
「入れ」
入ってきたのは、侍女長マルタではなかった。
若い侍女ミーナだった。
まだ緊張の残る顔で、だが背筋を伸ばしている。
彼女は深く礼をした。
「王妃陛下より、王太子殿下へお言葉をお預かりしております」
「母上から?」
「はい」
ミーナは小さな封書を差し出した。
王妃宮の正式な封蝋が押されている。
アデルはそれを受け取り、開いた。
中の文は短かった。
『セレスティア・レイノルドの条件を認めなさい。本件は王太子府単独で処理してはなりません』
アデルの顔が強張った。
その下には、王妃エレオノーラの署名。
病床の王妃が、はっきりと意思を示していた。
「……母上は、状況を理解しておられない」
アデルは低く言った。
ミーナは顔を伏せたまま、静かに答えた。
「王妃陛下は、すべてお読みになりました」
「すべて?」
「帳簿の写し、療養記録、救貧院支援の遅延、王妃宮予備費への影響でございます」
アデルは言葉を失った。
グレゴールも、わずかに目を細める。
ミーナは震えていた。
だが、言葉を止めなかった。
「また、王妃陛下より、レイノルド公爵閣下にもお言葉がございます」
「私に?」
グレゴールの声が冷える。
ミーナはもう一通の封書を差し出した。
公爵は受け取り、封を開ける。
読み進めるうちに、その顔から表情が消えた。
アデルは尋ねる。
「何と」
グレゴールは答えなかった。
代わりに、便箋を机へ置いた。
アデルが視線を落とす。
そこには、王妃の筆跡でこう書かれていた。
『娘の沈黙に甘えるのは、もうおやめなさい』
部屋の空気が止まった。
グレゴールの手が、わずかに震えている。
怒りか。
屈辱か。
それとも、図星を刺された痛みか。
ミーナは深く頭を下げた。
「お言葉は以上でございます」
「待て」
アデルが呼び止める。
ミーナは足を止めた。
「母上は、なぜここまでセレスティアを庇う」
ミーナはしばらく黙っていた。
侍女として、答えるべきではない問いだった。
だが、王妃の使者として来ている以上、逃げることもできない。
「王妃陛下は、セレスティア様を庇っておられるのではありません」
「では何だ」
「事実を庇っておられます」
ミーナはそう言った。
声は小さかった。
だが、部屋の隅まで届いた。
「失礼いたします」
彼女は礼をして退室した。
扉が閉まる。
しばらく、誰も話さなかった。
王妃が動いた。
それは、王太子府にとって予想以上の出来事だった。
病床の王妃は、口を出せない。
そう誰もが思っていた。
だが、王妃は帳簿を読み、救貧院支援を守り、セレスティアの条件を認めろと命じた。
アデルは便箋を握った。
「……母上まで、彼女の側に立つのか」
ガレオン卿がすぐに言う。
「殿下。王妃陛下は、セレスティア嬢に長く実務を頼っておられました。情が移っているのでしょう」
「情か」
「はい。病床であれば、なおさら」
その言葉に、アデルは頷きかけた。
そう考えれば楽だった。
王妃は情で動いている。
リリアナは優しさで惑わされている。
財務局はセレスティアの残した書類に振り回されている。
つまり、冷静なのは自分だけだ。
そう思いたかった。
だが、机の上には王妃の言葉がある。
『事実を庇っておられます』
ミーナの声が耳に残っていた。
アデルは苛立ちを押し殺すように立ち上がった。
「……分かった」
周囲が顔を上げる。
「セレスティアの条件を一部認める」
「殿下」
ガレオン卿が声を上げかける。
アデルは手で制した。
「ただし、第三者立会人は認めない。王妃宮、財務局、書記局の同席まではよい。北方辺境伯を入れる必要はない」
グレゴールが頷いた。
「妥当かと」
「王宮内の問題だ。外部の辺境伯を同席させる理由はない」
アデルは便箋を畳む。
「これで返せ」
ガレオン卿は一礼する。
「承知いたしました」
だがそのとき、グレゴールが低く言った。
「殿下。もう一つ」
「何だ」
「セレスティアは、第三者立会人を要求しております。こちらが拒めば、あれは王都へ戻らない可能性がある」
「ならば戻らせればよい」
「手段が必要です」
アデルは公爵を見た。
グレゴールの目は冷たかった。
「セレスティアの弱いところを突きます」
「弱いところ?」
「王妃陛下です」
部屋の空気がさらに重くなる。
「王妃陛下の病状が悪化したと伝えれば、あれは必ず動きます」
アデルは一瞬、息を止めた。
それは、嘘を使うということか。
王妃の病を。
だがグレゴールの顔は変わらない。
「実際、王妃陛下はご病身です。嘘にはなりません」
アデルは答えられなかった。
セレスティアを呼び戻したい。
帳簿を握られたままにはしたくない。
しかし、王妃の病を餌にする。
それは、どこか越えてはならない線のような気がした。
ガレオン卿は静かに言う。
「殿下。これは王宮の安定のためです」
王宮の安定。
また便利な言葉だった。
アデルは、しばらく沈黙した。
そして、低く言った。
「……文面は慎重にしろ」
それが、許可だった。
グレゴールは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
同じころ、王妃宮へ戻ったミーナは、廊下の角で足を止めていた。
胸が苦しい。
怖かった。
王太子殿下の前で、事実を庇っていると言うのは怖かった。
だが言えた。
なぜなら、あの夜の控室でセレスティアが言ったからだ。
王妃陛下に罪はありません。
自分を追い出した王宮にいながら、あの人はまだ王妃を気にしていた。
なら、自分も一度くらい、あの人の記録を守りたかった。
「ミーナ」
声をかけたのはマルタだった。
「戻りましたか」
「はい」
「震えています」
「申し訳ございません」
「謝ることではありません」
その言い方が、少しだけセレスティアに似ていた。
ミーナは思わず目を伏せた。
「お言葉は、伝えました」
「王太子殿下は?」
「動揺しておられました。レイノルド公爵閣下も」
「そうですか」
マルタは短く頷いた。
そして、少し声を落とす。
「では、次に来るものに備えます」
「次、ですか」
「ええ。追い詰められた者は、真っ直ぐ謝るか、さらに誰かを追い詰めるかのどちらかです」
ミーナは息を呑んだ。
「王太子殿下が」
「殿下だけではありません。レイノルド公爵もです」
マルタの目は冷静だった。
「セレスティア様を呼び戻すために、王妃陛下の病を使う可能性があります」
「そんな」
「やりかねません」
ミーナは拳を握った。
怒りが湧いた。
怖さより先に。
「それを、セレスティア様が知ったら」
「戻ろうとなさるでしょうね」
マルタは言った。
「だから、こちらも先に手を打ちます」
「何を」
「王妃陛下ご本人の言葉を送ります」
ミーナは目を見開いた。
「セレスティア様へ?」
「ええ」
マルタは王妃の寝室の扉を見た。
「王妃陛下は、あの子がまた自分を後回しにすることを、よくご存じですから」
一方、北方の屋敷では、セレスティアが王太子府への返答の控えを整理していた。
その横でノアが、王都から届く情報を読み解いている。
「王妃宮が動きました」
ノアが言った。
セレスティアは顔を上げる。
「王妃陛下が?」
「あなたの条件を認めるよう、王太子府へ正式に伝えたようです」
セレスティアの手が止まる。
「陛下が……」
「はい」
安堵より先に、心配が来た。
「ご負担になったのでは」
「そう思ってほしくないから、王妃陛下は動かれたのでしょう」
ノアの言葉に、セレスティアは黙った。
分かっている。
王妃は弱い人ではない。
病床にあっても、自分の意思で動く人だ。
それでも、心配してしまう。
自分のために負担をかけたのではないかと。
「セレスティア殿」
「はい」
「王妃陛下を信じることも、あなたの仕事です」
セレスティアは目を伏せた。
「信じる」
「ええ。守るだけではなく」
守るだけではなく、信じる。
それは難しいことだった。
王妃を弱い人として守るのではなく、王妃自身の選択を信じる。
ノアはいつも、簡単そうに難しいことを言う。
「努力します」
「実行してください」
「はい」
そう答えたところで、扉が叩かれた。
従者が入ってくる。
「閣下。王都より、さらに急使です」
ノアの表情がわずかに険しくなる。
「誰からだ」
「王太子府から一通。それと、王妃宮からも一通」
セレスティアの胸が鳴った。
二通。
王太子府と王妃宮。
同時に。
ノアはまず王妃宮の封書を見た。
「こちらを先に」
セレスティアは頷き、受け取った。
封蝋は王妃宮のもの。
中には、王妃の筆跡があった。
病のせいか、少し線が細い。
それでも、しっかりした文字だった。
『セレスティア。私の病を理由に、あなたが自分を差し出す必要はありません』
最初の一文で、セレスティアの呼吸が止まった。
まるで、これから起きることを見透かしているようだった。
続きには、こうあった。
『私はまだ、あなたに戻れとは命じません。あなたが戻るなら、それはあなた自身の判断でなければなりません。誰かの罪を背負うためではなく、誰かに許されるためでもなく、あなたの名を守るために選びなさい』
セレスティアの視界が滲みかけた。
涙はまだ落ちない。
けれど、胸が熱くなる。
王妃は知っている。
セレスティアが何を言われれば動くのか。
何を盾にされれば、自分を後回しにしてしまうのか。
だから先に手紙をくれた。
自分を差し出す必要はないと。
「……陛下」
声が震えた。
ノアは何も言わない。
セレスティアは便箋を胸に当てた。
その後で、王太子府からの封書を開く。
文面は予想通りだった。
『王妃陛下のご体調は予断を許さない。王妃宮関連記録の確認のためにも、速やかに王都へ戻ることを求める』
セレスティアは、しばらくその文面を見つめた。
以前の自分なら、これで戻った。
王妃陛下のために。
そう言われれば、他のすべてを置いて馬車に乗った。
けれど今は、王妃自身の手紙がある。
戻るなとは書かれていない。
ただ、自分のために選べと書かれている。
セレスティアは深く息を吸った。
「閣下」
「はい」
「私は、まだ戻りません」
ノアは静かに頷いた。
「はい」
「王妃陛下を理由に呼ばれても、戻りません」
「はい」
「ですが、正式な説明の場は求めます。王妃宮、財務局、書記局、第三者立会人。すべての条件が揃った場なら、私は出ます」
「分かりました」
ノアは席を立つ。
「では、そのための文書を作りましょう」
セレスティアも立ち上がった。
王太子府の封書は机に置いた。
王妃の手紙は、胸元に大切にしまった。
かつての彼女なら、王太子府の命令を胸にしまい、王妃の優しさを机に置いていたかもしれない。
今は違う。
従うべき命令と、支えになる言葉を、自分で選ぶ。
それが、今のセレスティアの小さな反抗だった。
王都はまだ、彼女が命令だけで動くと思っている。
父は、娘の恐怖を使えば戻せると思っている。
王太子は、王妃の病を告げれば従うと思っている。
けれど彼女はもう、命令だけでは動かなかった。
そしてそのことを、王宮はまだ本当の意味で理解していなかった。




