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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第14話 優しいだけでは誰も救えません

王太子府の空気が、ぴんと張りつめた。


 リリアナは、初めてその空気の冷たさを知った。


 これまで、アデルのそばにいるとき、彼女はいつも守られていた。

 彼が一言「大丈夫だ」と言えば、周囲はリリアナに優しくなった。

 彼が「君は悪くない」と言えば、リリアナは悪くない娘として扱われた。


 だから、王太子府は温かい場所なのだと思っていた。


 けれど違った。


 温かかったのは、アデルがリリアナを庇っているあいだだけだった。


 彼の言葉に逆らった瞬間、その場所は冷たい宮廷の一室に戻る。


 側近たちの視線が突き刺さる。

 侍従たちは息を潜める。

 部屋の奥に置かれた銀時計の針の音まで、やけに大きく聞こえた。


「リリアナ」


 アデルの声は、まだ優しかった。


 だが、その優しさの奥に、硬いものが混じっている。


「君は疲れているんだ。昨日から慣れないことばかりだった。セレスティアの書類を読まされて、混乱している」


 読まされて。


 リリアナはその言葉に、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


 違う。


 自分で読んだのだ。


 姉の椅子に座ったのも、帳簿を開いたのも、王妃陛下の部屋へ行ったのも、すべて自分の足で選んだことだ。


 まだ胸を張れるほど立派な選択ではない。


 逃げたくなった。

 泣きたくなった。

 誰かに助けてほしかった。


 それでも、自分で読んだ。


「混乱はしています」


 リリアナは正直に言った。


「でも、何も分からなかった昨日よりは、今の方がましです」


 アデルの表情がわずかに強張る。


 側近の一人が、口を挟んだ。


「リリアナ様。恐れながら、財務帳簿は専門の者が扱うべきものです。あなた様がご覧になれば、余計な不安を抱かれるだけかと」


 柔らかな声だった。


 けれど、言っていることは明白だった。


 黙っていろ。


 リリアナは、その男を見た。


 名前は知っている。

 王太子府の儀礼費を扱っている側近の一人、ガレオン卿。


 いつもアデルのそばにいて、リリアナには菓子や花を用意してくれた。

 優しい人だと思っていた。


 だが姉の帳簿には、この男の名が何度も出ていた。


 南方大使関連費。

 儀礼品追加購入。

 使途不明の装飾費。

 王太子府名義の臨時支出。


 そのすべてが不正だと決まったわけではない。


 けれど、少なくとも説明が必要な数字だった。


「専門の方が扱うべきものなら」


 リリアナは、震えそうになる声を押さえた。


「なぜ、セレスティアお姉様が何度も確認していたのですか」


 ガレオン卿の表情が、一瞬だけ止まった。


「それは、セレスティア様が必要以上に関与されていたからでしょう」


「必要以上かどうかを、誰が決めるのですか」


「それはもちろん、殿下が」


 ガレオン卿はアデルへ視線を向けた。


 リリアナもアデルを見た。


 アデルは眉を寄せている。


 面倒なことになった。

 そう思っている顔だった。


 リリアナは、それが少し悲しかった。


 自分は今、姉を庇いたいだけではない。

 王妃の薬草と、救貧院の支援と、王宮の帳簿の話をしている。


 それなのにアデルは、まるで妹同士の感情のもつれでも見ているような顔をしていた。


「リリアナ」


 アデルはゆっくり言った。


「君は優しい。だから、セレスティアが責められるのを見ていられないんだろう」


「違います」


「違わない。君は昔からそうだ。人を疑うことが苦手で、少し強く言われると自分が悪いのではないかと思ってしまう」


 その言葉は、半分は当たっていた。


 だから痛かった。


 リリアナは人を疑うことが苦手だ。


 姉の冷静さを冷たさだと思い込み、父の沈黙を正しさだと思い込み、アデルの優しさを愛だと思い込んだ。


 見たいものだけを見ていた。


 けれど今、その目を開こうとしている。


 それをまた「優しいから」で片づけられたら、何も変わらない。


「殿下」


 リリアナは息を吸った。


「私は優しくありません」


 アデルが目を見開いた。


「何を」


「私は、お姉様に嫉妬していました。お姉様が正しくて、何でもできて、皆から頼られていることが嫌でした。殿下に選ばれれば、お姉様より愛されると思っていました」


 言葉にすると、みっともなかった。


 自分の小ささが、部屋中に広がっていくようだった。


 それでも止めない。


「だから、昨夜の私は優しかったのではありません。ただ、自分が選ばれたと思いたかっただけです」


「リリアナ、やめなさい」


 アデルの声が強くなる。


 だが、リリアナは首を横に振った。


「やめません」


 その一言で、部屋の空気がさらに冷たくなった。


 リリアナ自身も驚いた。


 自分が王太子に向かって、やめませんと言う日が来るなど、思ってもいなかった。


「お姉様は、帳簿に不備を残していました。隠すためではなく、止めるために」


「それは、君に分かることではない」


「分かりません。だから、王妃陛下と財務卿と書記局長に確認しました」


 アデルの表情が変わった。


「王妃陛下に?」


「はい」


「私を通さずに?」


「王妃宮予備費に関わることです。王妃陛下に確認するのは当然です」


「当然……」


 アデルは低く繰り返した。


 彼の中で何かが軋んでいるのが、リリアナにも分かった。


 王太子である自分を通さずに、話が進んだ。

 それが気に入らないのだ。


 けれど、気に入るかどうかの話ではない。


 今まで自分は、こういう空気から逃げてきた。


 相手が不機嫌になる前に黙る。

 泣きそうな顔をして、誰かに庇ってもらう。

 それでやり過ごしてきた。


 でも、それを続ければ。


 今度こそ姉の名が汚される。


「殿下」


 リリアナは、帳簿の写しを机に置いた。


「この件を、セレスティアお姉様の横領疑惑として扱わないでください」


「君が決めることではない」


「はい。私が決めることではありません」


 リリアナは頷いた。


「だからこそ、調べてください」


「調べる?」


「はい。お姉様を疑うなら、同じように王太子府の支出も調べてください。財務局も、側近の方々も、王妃宮予備費の処理も、全部」


 ガレオン卿が顔色を変えた。


「リリアナ様、それはあまりに」


「何があまりになのですか」


 リリアナは彼を見る。


 自分でも分かるほど、声が震えていた。


 だが、震えていても言えた。


「お姉様を横領犯にする噂は流せるのに、王太子府の支出を調べるのはあまりなのですか」


 ガレオン卿は黙った。


 リリアナはアデルへ向き直る。


「殿下。お願いです。お姉様を信じてくださいとは言いません。私もまだ、全部は分かりません。でも、疑うなら正しく疑ってください」


「リリアナ」


 アデルの声が、今度は冷えた。


「君は、私よりセレスティアを信じるのか」


 その問いに、リリアナは胸を刺された。


 以前なら、即座に首を振っただろう。


 違います。

 殿下を信じています。

 お姉様が怖いだけです。


 そう言えば、アデルはまた優しくしてくれる。


 けれど、今は違う。


 リリアナは泣きそうになりながら、答えた。


「私は、帳簿を信じます」


 アデルは、何も言わなかった。


「人ではなく、記録を見ます。お姉様がそうしていたように」


「またセレスティアか」


 アデルの声に、怒りが混じった。


「君まで彼女のようなことを言うのか」


「お姉様のようにはなれません」


 リリアナは首を振る。


「でも、何も知らないまま殿下に守られているだけでは、王太子妃にはなれません」


 その言葉は、姉の引き継ぎ書を読まなければ出てこなかった。


 王太子妃とは、隣に立つだけではない。


 殿下が見落とされたものを拾い、殿下が言えないことを言い、殿下が守れないものを守る必要があります。


 昨夜、姉はそう言った。


 その意味を、リリアナは今になってようやく知り始めていた。


 アデルはしばらく黙っていた。


 そして、視線を逸らした。


「少し休め」


「殿下」


「疲れているんだ。話は後で聞く」


 まただ。


 リリアナの胸が冷えた。


 彼は聞いていない。


 自分が言った言葉を、疲労や混乱として片づけようとしている。


 優しく。

 穏やかに。

 だが確実に、なかったことにしようとしている。


「いいえ」


 リリアナは、もう一度言った。


「今、聞いてください」


 アデルが彼女を見る。


 その目に、初めて苛立ちがはっきり浮かんだ。


 リリアナは怖かった。


 それでも、机の上の帳簿から手を離さなかった。


「声明を出せば、お姉様は王宮機密を不当に持ち出した女になります。横領の噂を否定する前に、別の罪を着せられます」


「不当に持ち出したのは事実だろう」


「お姉様が持ち出さなければ、記録は残りましたか」


「何?」


「王宮の中で、お姉様の確認印を承認印に変えた人がいます。王妃宮予備費を、別の支出に回そうとした人がいます。救貧院の支払いが止まりかけました。王妃陛下の薬草も足りなくなりました。記録が王宮の中だけにあったら、誰が守ったのですか」


 アデルは言い返そうとして、止まった。


 リリアナは続けた。


「お姉様は、たぶん王宮を信じたかったのだと思います。でも王宮は、お姉様を信じませんでした」


 その言葉は、リリアナ自身にも刺さった。


 王宮は信じなかった。


 父も。

 王太子も。

 自分も。


 誰も、姉の沈黙を正しく見ようとしなかった。


「だから私は、せめて今からは記録を見ます」


 部屋の中は静まり返っていた。


 側近たちは口を挟めない。


 アデルはリリアナを見つめている。


 彼の顔に浮かぶ感情を、リリアナは読み切れなかった。


 怒り。

 戸惑い。

 傷ついたような表情。


 そして、わずかな不安。


 アデルは初めて、リリアナが自分の言葉だけで動く少女ではなくなりつつあることを知ったのかもしれない。


「……分かった」


 やがて、アデルは低く言った。


 リリアナの肩から力が抜けかける。


 だが、次の言葉で止まった。


「声明は一度保留する」


 一度。


 保留。


 撤回ではない。


「ただし、帳簿の持ち出しについては調査する」


「殿下」


「これは王太子としての判断だ」


 アデルはそう言い切った。


「セレスティアが正しいかどうかは別として、王宮記録が外部に出たことは問題だ。君も王太子妃になるなら、それくらい分かるはずだ」


 リリアナは唇を噛んだ。


 理屈としては間違っていない。


 だからこそ厄介だった。


 声明は止まった。

 だが、姉への疑いは消えていない。


 しかも今度は、横領ではなく機密持ち出し。


 別の縄が用意されただけだ。


「分かりました」


 リリアナは小さく答えた。


「ですが、調査するなら全員を調べてください」


「分かっている」


「本当に、ですか」


 アデルの眉が動く。


 リリアナは怯みかけた。


 でも、言った。


「お姉様だけを調べるなら、それは調査ではありません。処罰する理由探しです」


 ガレオン卿が息を呑んだ。


 アデルは、長い沈黙のあと、目を逸らした。


「下がれ」


 それは、会話の終わりを告げる声だった。


 リリアナは頭を下げた。


「失礼いたします」


 帳簿を持って部屋を出る。


 廊下に出た瞬間、足が震えた。


 壁に手をつく。


 怖かった。


 怖かった。


 今になって、膝が崩れそうになる。


 それでも泣かなかった。


 泣くのは後にする。


 王妃陛下に言われた通りに。


 廊下の向こうから、マルタが歩いてきた。


 彼女はリリアナの顔を見て、すぐに事情を察したらしい。


「止められましたか」


「声明は、保留になりました」


「そうですか」


「でも、機密持ち出しの調査は続けると」


 マルタは厳しい顔になる。


「想定の範囲内です」


「……私は、止めきれませんでした」


「止めきれなかったのではありません」


 マルタは静かに言った。


「最初の火を、踏み消したのです。次の火が残っているだけです」


 リリアナは目を上げた。


「次は、どうすれば」


「記録を増やします」


「記録を?」


「ええ。セレスティア様がそうしてきたように」


 マルタは歩き出す。


 リリアナも、その横に並んだ。


「王太子府が機密持ち出しを問題にするなら、王宮内で記録が改ざんされかけた事実を記録します。なぜセレスティア様が写しを持たざるを得なかったのか、その理由を積み上げるのです」


 リリアナは帳簿を抱きしめた。


 姉の戦い方。


 叫ばない。

 泣きつかない。

 感情で押し切らない。


 記録を残す。

 証人を集める。

 事実を積む。


 それは、リリアナが一番苦手としてきたものだった。


 でも今は、逃げられない。


「マルタ様」


「はい」


「私に、できますか」


「できるかではありません」


 マルタは前を見たまま答えた。


「やるのです」


 厳しい。


 だが、その厳しさは姉の引き継ぎ書に似ていた。


 突き放すのではなく、立たせるための厳しさ。


 リリアナは頷いた。


「はい」


 そのころ、北方の屋敷にも王妃宮からの返書が届いていた。


 無地の封蝋。

 短い文面。


 ノアの執務室で、セレスティアはそれを受け取った。


 指が少し震える。


 封を開く。


 中には、たった一文だけが書かれていた。


『あなたの記録は、まだ生きています』


 セレスティアは、その文字をしばらく見つめていた。


 王妃の筆跡ではない。

 マルタ侍女長の字だ。


 けれど、王妃宮から届いた言葉だった。


 記録は生きている。


 つまり、届いた。


 読まれた。


 捨てられていない。


 セレスティアは、紙を胸に当てた。


 涙は出なかった。


 けれど、喉の奥が熱くなった。


「よかった」


 声は、ほとんど息だった。


 ノアは向かいで黙っていた。


 その沈黙は、彼女の言葉を邪魔しないためのものだった。


「よかった……」


 もう一度、セレスティアは呟いた。


 王宮は彼女を信じなかった。


 父も、王太子も、社交界も。


 けれど、彼女が残した記録は、まだ王宮の中で生きている。


 それは救いだった。


 同時に、新しい苦しみでもあった。


 記録が生きているなら、戦いは始まる。


 彼女の名を守る戦い。

 王妃宮を守る戦い。

 救貧院を止めない戦い。

 そして、王宮が自分の罪を誰か一人に押しつけようとする流れを止める戦い。


「セレスティア殿」


 ノアが口を開く。


「王都から、もう一つ情報が来ています」


「何でしょう」


「王太子は、横領疑惑の声明を一度保留したようです」


 セレスティアは息を止めた。


「一度、ですか」


「ええ。代わりに、帳簿の持ち出しを問題にする可能性がある」


 セレスティアは目を伏せた。


「そう来ますか」


「予想していましたか」


「少し」


 彼女は返書を机に置いた。


「横領を証明できなければ、帳簿を持っていること自体を罪にする。王宮らしい判断です」


「腹が立ちますか」


 ノアの問いに、セレスティアは少しだけ考えた。


 そして、ゆっくり答えた。


「はい」


 短い言葉だった。


 だが、それを言えた自分に少し驚いた。


「腹が立ちます」


 もう一度言う。


 今度は、はっきりと。


「私は王宮を守るために記録しました。自分を守るためでもありました。でも、それを罪だと言われるなら……腹が立ちます」


 ノアの表情が、ほんの少し和らいだ。


「それでいい」


「いいのですか」


「ええ」


 セレスティアは机の上の紙を見た。


 あなたの記録は、まだ生きています。


 その一文が、胸の奥に灯ったままだった。


「では、私も記録します」


「何を」


「なぜ帳簿を持ち出したのか。何を守ろうとしたのか。誰に写しを出す予定だったのか。すべて、私自身の言葉で」


 ノアは頷いた。


「必要なら、証人になります」


「閣下が?」


「あなたが北方へ来た経緯については、私が見ています。あなたが横領のために逃げたわけではないことも」


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「またご迷惑を」


「その言葉は禁句にしましょう」


「禁句ですか」


「少なくとも、私の前では」


 セレスティアは一瞬きょとんとして、それから小さく息を漏らした。


「努力します」


「実行してください」


 朝の女中と同じような言い方だった。


 それに気づいて、セレスティアは今度こそ自然に笑った。


 だが、笑みは長くは続かなかった。


 戦いは始まったばかりだ。


 王宮では、リリアナが初めてアデルに逆らった。

 王妃宮は記録を保全し始めた。

 王太子府は別の罪を探している。


 そしてセレスティアは、北方の小さな執務机で、自分自身のための記録を書き始める。


 彼女はもう、ただ沈黙する悪役令嬢ではなかった。


 だが王宮の者たちは、まだそれを知らない。


 悪女と呼んだ令嬢が、黙ったまま消えるのではなく。


 静かに、自分の名を取り戻しに来ようとしていることを。

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