第13話 王妃宮へ届いた無名の封書
王宮には、朝よりも早く動き出す場所がある。
厨房。
厩舎。
そして、王妃宮。
王妃エレオノーラの寝室に朝の支度が入るころ、外の空はまだ薄青い。王都の貴族たちが眠りの中にいる時間でも、王妃宮の侍女たちは足音を殺して廊下を歩き、火を入れ、湯を沸かし、薬湯の温度を測る。
その朝、侍女長マルタはいつもより早く起きていた。
眠れなかった、と言った方が正しい。
王妃の薬草不足は、ひとまず東区薬師ギルドの予備在庫でしのいだ。
救貧院の支援金も、リリアナがセレスティアの案を用いたことで仮承認まで進んだ。
隣国大使館への返答も、外務局が慌ただしく文面を整えている。
だが、どれも「しのいだ」に過ぎない。
王宮の奥に空いた穴は、まだ塞がっていなかった。
「侍女長」
若い侍女ミーナが、扉の前で声を潜めた。
「裏門の詰所から、これを」
差し出されたのは、一通の封書だった。
宛名はない。
差出人もない。
ただ、封蝋は無地。貴族家の紋章も、王宮内部の印も使われていない。
マルタはそれを受け取った瞬間、眉をひそめた。
「誰が持ってきたのです」
「北方商人の荷に紛れていたそうです。ですが、届け先だけは王妃宮へと」
「北方……」
マルタの指が、封書の端を確かめる。
紙質は王都のものではない。
少し厚く、繊維が粗い。北方で使われる実用紙だ。
だが、封の折り方は王宮式だった。
それも、かなり古い礼法に従っている。
マルタは息を止めた。
この折り方を知っている者は、今の王宮では多くない。
王妃。
マルタ自身。
そして、セレスティア。
「誰にも見せていませんね」
「はい」
「よろしい。あなたはこのことを忘れなさい」
ミーナは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頷いた。
「……承知しました」
「ただし、王妃陛下がお目覚めになるまで、廊下に誰も近づけないように」
「はい」
ミーナが下がる。
マルタは執務机へ向かい、封を開けた。
中に入っていたのは、帳簿の写しだった。
数字。
日付。
支出元。
確認者。
備考。
整った字が並んでいる。
セレスティアの字だった。
マルタは、声を出さずに一枚目を読み始めた。
読み進めるほど、背筋が冷えていく。
王太子府の儀礼費。
南方大使関連費。
王妃宮予備費。
救貧院支援金。
バラバラに見えていた問題が、一つの線で繋がっている。
そして、その線の端には、セレスティアの注意書きがあった。
『王妃宮予備費からの一時補填は不可』
『救貧院春期支援に影響』
『正式決裁前に財務卿確認』
『王太子府側近による費目操作の可能性あり』
マルタは、便箋を握る手に力を込めた。
横領などではない。
セレスティアは止めていた。
何度も。
何重にも。
それでも王宮は止まらなかった。
いや、止める者を追い出した。
「……どこまで、あの子に」
呟きは、部屋の中に落ちただけだった。
マルタはすぐに顔を上げた。
感傷に沈んでいる場合ではない。
これは、爆薬だ。
扱いを間違えれば、セレスティアを救うどころか、王妃宮も救貧院も巻き込んで王宮全体が燃える。
だが、黙っていれば、今度こそセレスティアの名が汚される。
横領の濡れ衣を着せられたまま、王宮の外で沈黙させられる。
マルタは封書を丁寧に畳み直した。
そして王妃の寝室へ向かった。
王妃エレオノーラは、すでに目を覚ましていた。
枕元の小箱に手を置いたまま、窓の外を見ている。
「マルタ」
「はい、陛下」
「何か届きましたね」
マルタは一瞬、言葉を失った。
王妃は振り返らない。
「あなたの足音が違います」
「……セレスティア様からと思われる封書が」
王妃は静かに目を閉じた。
「そう」
「中身は帳簿の写しでございます」
「見せて」
マルタは封書を差し出した。
王妃は寝台の上で一枚ずつ目を通す。
病のために手は細くなっている。
だが、文字を追う目だけは少しも鈍っていなかった。
やがて王妃は、深く息を吐いた。
「やはり、あの子は最後まで止めていたのですね」
「はい」
「それでも、王太子府はセレスティアに罪を着せるつもりですか」
「その動きがあるようです」
王妃の指が、帳簿の端を撫でた。
「愚かなことを」
声は静かだった。
だが、マルタは長年仕えたから分かる。
王妃は怒っていた。
「陛下。この帳簿をどういたしましょう」
「今すぐ公にはしません」
「よろしいのですか」
「今出せば、アデルは防衛に走ります。側近たちは証拠を潰すでしょう。財務局は保身に動き、王妃宮予備費は調査名目で凍結される。そうなれば、救貧院と薬草契約が止まります」
マルタは唇を結んだ。
セレスティアと同じ判断だった。
王妃は、帳簿の最後のページに目を留める。
そこには短い一文が添えられていた。
『王妃陛下のご療養と救貧院支援が安定するまでは、公表をお控えください。ただし、私の名で不正処理がなされる場合は、記録保全を優先してください』
王妃の目元が、ほんのわずかに揺れた。
「まだ私の心配をするのですね、あの子は」
「セレスティア様ですから」
「ええ。だからこそ、いけない」
王妃は小箱へ視線を移した。
百合紋と星紋が刻まれた銀の箱。
「マルタ。財務卿バルツァーを、公式ではなく私的に呼びなさい。書記局長も同席させます。ただし王太子府にはまだ知らせない」
「リリアナ様は」
王妃は少し考えた。
「呼びます」
「よろしいのですか」
「逃げ道を与え続ければ、あの子は一生、自分が何をしたのか分からないままです」
厳しい言葉だった。
だが、冷たくはなかった。
「リリアナはセレスティアの妹です。ならば、真実から目を逸らす権利はありません」
「承知いたしました」
マルタは一礼する。
王妃は帳簿を胸元に置き、目を伏せた。
「それから、ミーナを」
「はい」
「セレスティアに、無事受け取ったと返事を。言葉は少なくて構いません」
「どのように」
王妃は少しだけ迷った。
そして、静かに言った。
「“あなたの記録は、まだ生きています”と」
マルタは深く頭を下げた。
「かしこまりました」
そのころ、リリアナは姉の執務室で一人、帳簿の写しを前にしていた。
眠れていない。
鏡を見なくても分かる。
目元は腫れ、指は冷え、頭の奥が重い。
それでも、逃げられなかった。
姉が残した引き継ぎ書。
その中にある数字を追えば追うほど、リリアナは自分が何も知らなかったことを思い知らされる。
知らなかった。
王太子府の儀礼費が、どれほど膨らんでいたのか。
父が公爵家の体面を守るため、どれほど王宮に貸しを作っていたのか。
王妃宮予備費が、王妃の薬だけでなく救貧院の命綱でもあったことを。
知らなかった。
けれど、知らなかったと言えば許されるのか。
昨日までのリリアナなら、泣いていた。
泣けば誰かが慰めてくれる。
殿下が優しい言葉をくれる。
父が「お前は悪くない」と言ってくれる。
でも今、泣けば誰が代わりに帳簿を読むのだろう。
セレスティアはもういない。
その事実が、リリアナを机に縛りつけていた。
「リリアナ様」
扉が開き、マルタが入ってきた。
リリアナは立ち上がる。
「王妃陛下が、お呼びです」
「王妃陛下が……私を?」
「はい。財務卿と書記局長も同席します」
リリアナの喉が鳴った。
逃げたい。
一瞬、そう思った。
しかし机の上には、姉の字がある。
『困ったときは、一人で抱え込まないこと。必ず誰かに確認すること』
リリアナは目を閉じ、ゆっくり頷いた。
「参ります」
マルタは少しだけ目を細めた。
評価ではない。
同情でもない。
ただ、見届ける目だった。
「帳簿をお持ちください」
「はい」
リリアナは姉の帳簿を胸に抱いた。
その重さは、昨日よりも増している気がした。
王妃の私室には、すでに財務卿バルツァーと書記局長が来ていた。
二人とも硬い顔をしている。
王妃は寝椅子に身を預けていたが、ただの病人には見えなかった。
部屋に入った瞬間、リリアナは理解した。
ここは裁きの場ではない。
だが、逃げれば裁きになる。
「リリアナ」
王妃が呼ぶ。
「はい、王妃陛下」
「あなたが持っているものを、机へ」
リリアナは震える手で帳簿を置いた。
マルタが、今朝届いた無名の封書の写しを並べる。
二つの帳簿。
一つは、セレスティアがリリアナへ残したもの。
もう一つは、北方から届いたもの。
字は同じだった。
リリアナの胸が詰まる。
姉は、王宮の外にいても、まだ王宮のために動いている。
いや、違う。
今度は、自分の名を守るためにも動いているのだ。
そうでなければならない。
そう思うと、なぜか少しだけ安心した。
姉がまた自分を消して誰かを守ろうとしているだけなら、リリアナは耐えられなかった。
「財務卿」
王妃が言う。
「この数字を、どう見ますか」
バルツァーは額の汗を拭った。
「王太子府の一部支出に、不適切な費目操作がございます。王妃宮予備費を用いた補填処理がなされかけていた形跡があり……セレスティア様は、それを止めようとしておられました」
リリアナは目を伏せた。
止めようとしていた。
その一言が、部屋の空気を変えた。
書記局長も頷く。
「記録を見る限り、セレスティア様の確認印は承認ではありません。むしろ不備を指摘するための確認です」
「では」
王妃は静かに続けた。
「セレスティアが横領に関わったという話は?」
バルツァーは顔を強張らせた。
「根拠はございません」
「根拠がない話が、王宮内で流れ始めているのですね」
誰も答えられなかった。
それが答えだった。
リリアナは、胸の前で手を握りしめた。
言わなければならない。
ここで黙れば、また姉に守られるだけになる。
「あの」
声が震えた。
全員の視線が集まる。
逃げたくなる。
けれど、リリアナは帳簿を見た。
「私は、セレスティアお姉様の仕事を知りませんでした」
王妃は黙って聞いている。
「お姉様が冷たいのだと思っていました。私を見下しているのだと思っていました。殿下に選ばれれば、お姉様と同じ場所に立てると思っていました」
言葉にするたび、恥ずかしさで顔が熱くなる。
それでも止めなかった。
「でも、この帳簿を読んで……お姉様が何をしていたのか、少しだけ分かりました。まだ全部ではありません。でも、少なくとも」
リリアナは顔を上げた。
「お姉様を横領犯にするのは、間違っています」
誰もすぐには話さなかった。
王妃はリリアナを見つめている。
その視線に、リリアナは泣きたくなった。
でも、泣かなかった。
「私は、昨日までお姉様の名前で守られていました。今日からは、それを知らなかったふりはしません」
震えながらも言い切った。
王妃は、ほんの少しだけ目を細めた。
「よく言いました」
その一言で、リリアナの目に涙が浮かんだ。
だが王妃は、すぐに続けた。
「ただし、それで終わりではありません」
「はい」
「あなたは、これから何度も選ばなければなりません。アデルの甘い言葉に隠れるのか。父の命令に従うのか。それとも、自分で見たものを信じるのか」
リリアナは頷いた。
「はい」
王妃は財務卿へ視線を向ける。
「バルツァー。記録を保全しなさい。原本の所在を確認し、王太子府側近の関与を洗いなさい。ただし、救貧院支援と薬草契約は止めてはなりません」
「承知いたしました」
「書記局長。セレスティアの確認印を承認印として扱った書類をすべて洗い出しなさい」
「はい」
「マルタ。王妃宮内で、セレスティア横領の噂を口にした者がいれば、私の名で止めなさい」
「かしこまりました」
指示が次々に飛ぶ。
王妃は病床にあっても、王妃だった。
リリアナは、その姿を見て初めて理解した。
姉は、この人のそばで学んでいたのだ。
美しい微笑み方だけではない。
誰を守るために、いつ沈黙し、いつ刃を抜くか。
それを、きっと学んでいた。
「リリアナ」
「はい」
「あなたには、別の役目があります」
「何でしょうか」
「アデルがこの話を聞いたとき、必ずセレスティアを責めようとします」
リリアナの肩が震えた。
「あなたが止めなさい」
「私が……殿下を?」
「ええ」
「でも、殿下は」
「あなたを愛しているのでしょう?」
静かな問いだった。
リリアナは言葉に詰まった。
アデルは自分を選んだ。
守ると言ってくれた。
優しいと言ってくれた。
でも、愛しているなら。
自分の言葉を聞いてくれるはずだ。
聞いてくれないなら。
その優しさは、何だったのか。
「できますか」
王妃が問う。
リリアナは怖かった。
王太子殿下に逆らうことが。
嫌われることが。
また「君は優しいから」と慰められ、その言葉に逃げ込みたくなる自分が。
それでも、姉の帳簿が机の上にある。
リリアナは小さく、しかし確かに頷いた。
「やります」
王妃は深く頷いた。
「では、今日はそこまで。皆、動きなさい」
人々が退出していく。
最後にリリアナが残った。
王妃は彼女を見た。
「泣きたいなら、泣いても構いません」
その言葉に、リリアナの涙が一粒落ちた。
でも、彼女は袖で拭った。
「後にします」
「なぜ」
「今泣いたら、また誰かに慰めてもらいたくなります」
王妃は少しだけ笑った。
「それが分かったなら、少し進みましたね」
リリアナは深く頭を下げた。
部屋を出るとき、彼女は帳簿をもう一度抱きしめた。
姉は重かった。
姉の椅子も、姉の仕事も、姉の沈黙も。
けれど、その重さから逃げてはいけない。
そう思った。
一方、王太子府では、アデルが側近から別の報告を受けていた。
「セレスティア嬢の帳簿が王妃宮に届いた可能性があります」
「何?」
アデルは顔を上げた。
「誰が届けた」
「不明です。ただ、北方経由ではないかと」
「ノア辺境伯か」
アデルの声に苛立ちが混じる。
また、あの男。
昨夜、セレスティアを連れて王都を出た野蛮な辺境伯。
彼が彼女を利用しているのか。
あるいは彼女が、彼を利用しているのか。
どちらにせよ、不愉快だった。
「帳簿の中身は」
「まだ。ただ、王妃宮が財務卿と書記局長を私的に呼んだとの情報が」
アデルは椅子の肘置きを指で叩いた。
「王妃宮が、私に断りなく?」
「はい」
側近は声を潜める。
「殿下。これは早めに手を打たねば、セレスティア嬢の側が被害者として振る舞い始めます」
「被害者?」
アデルの目が険しくなる。
「昨夜、彼女は謝罪を拒んだ。王宮実務を混乱させた。財務にも不整合がある。被害者面など許されない」
「その通りでございます」
側近は深く頭を下げた。
「まずは、セレスティア嬢が王宮外へ不正な帳簿を持ち出した件を問題視するべきかと」
「不正な帳簿」
「はい。たとえ中身が何であれ、王宮財務に関わる記録を外部へ持ち出したこと自体が」
アデルは黙った。
それは理屈として使える。
中身を問う前に、持ち出しを問題にする。
そうすれば、帳簿の内容に踏み込まずにセレスティアを責められる。
アデルはそれが正しいことかどうかを考えなかった。
ただ、自分の正しさを守るための道に見えた。
「声明の準備をしろ」
「承知いたしました」
「セレスティア・レイノルドが王宮機密を不当に持ち出した疑いがある、と」
側近は頭を下げる。
その瞬間、扉が開いた。
「お待ちください」
入ってきたのは、リリアナだった。
顔色は悪い。
目元には疲れがある。
だが、その足取りは昨日よりも確かだった。
「リリアナ?」
アデルは驚いた顔で立ち上がる。
「どうしたんだ。君は休んで」
「殿下。その声明は出さないでください」
部屋の空気が止まった。
側近が不快そうに眉をひそめる。
アデルは戸惑ったように笑った。
「君は何か誤解している。これは君を守るためでもあるんだ。セレスティアがまた君を」
「お姉様は、私を守っていました」
リリアナの声は震えていた。
だが、逃げなかった。
「今も、王妃陛下と救貧院を守ろうとしています」
「リリアナ」
アデルの声が少し低くなる。
「また彼女に惑わされたのか」
その言葉に、リリアナは胸が痛んだ。
昨日までなら、泣いていただろう。
でも今は、帳簿の重さを知っている。
「惑わされたのではありません。読みました」
「何を」
「お姉様の帳簿です」
アデルの顔色が変わった。
「君がそんなものを読む必要はない」
「あります」
リリアナは初めて、アデルの言葉を遮った。
「私は、王太子妃になると言われました。なら、知らないままではいられません」
「君は優しい子だ。そんな汚い数字に関わる必要は」
「殿下」
リリアナの目から、涙が一粒落ちた。
けれど声は崩れなかった。
「優しいだけでは、誰も救えません」
アデルは言葉を失った。
その言葉は、セレスティアが言いそうな言葉だった。
だから、腹が立った。
「……セレスティアの真似をするな」
リリアナの肩が震えた。
だが、退かなかった。
「真似ではありません」
彼女はまっすぐアデルを見た。
「お姉様がしていたことを、今度は私が見なければならないのです」
沈黙が落ちた。
王太子府の部屋で、初めてリリアナがアデルに逆らった。
その瞬間、誰もが気づいた。
セレスティアの帳簿は、王宮を裁く前に。
まず、妹の目を覚まさせたのだと。




