第12話 悪女が残した帳簿は、王国を殺す刃だった
財務局の奥には、王族であっても気軽には入れない部屋がある。
重い鉄扉。
二重の鍵。
窓のない石造りの壁。
そこに保管されているのは、王宮の正帳簿ではない。
予備帳簿。
表の決裁書には載らない一時支出、王家内の調整金、慈善基金への仮払い、外交儀礼費の補填、王妃宮の療養費、そして王太子府の特別支出。
王国の華やかさを支える、見せたくない数字の置き場だった。
その部屋で、財務卿バルツァーは眉間に皺を寄せていた。
机の上には、三冊の帳簿が開かれている。
一冊は財務局の正帳簿。
一冊は王太子府から提出された支出記録。
もう一冊は、セレスティア・レイノルドが残していた控え帳簿。
数字が合わない。
正確には、セレスティアの帳簿だけが合っていた。
「……どういうことだ」
バルツァーの声は低かった。
向かいに立つ若い財務官が、青ざめた顔で答える。
「王太子府の儀礼費と、南方大使関連の支出が二重計上されています」
「二重計上など見れば分かる。なぜ、正帳簿で調整済みになっている」
「それが……セレスティア様の控えでは、王妃宮予備費から一時補填された形になっておりまして」
「王妃宮予備費だと?」
バルツァーは声を荒げかけ、慌てて抑えた。
この部屋の外に漏らしてよい話ではない。
王妃宮予備費。
王妃の療養、王妃主催の慈善事業、救貧院への緊急支援などに使われる、比較的自由度の高い予算である。
だが、それを王太子府の穴埋めに使ったとなれば、大問題になる。
「誰の承認だ」
「記録上は、セレスティア様の確認印が」
「承認印ではない。確認印だ」
バルツァーは即座に言った。
若い財務官はびくりと肩を揺らす。
「はい」
「確認印を承認印として処理したのは誰だ」
「そこが、分かりません」
「分からないで済むか」
バルツァーは帳簿を睨んだ。
セレスティアの字は整っていた。
『王太子府儀礼費、南方大使関連費との重複あり。正式決裁前に確認が必要』
『王妃宮予備費からの一時補填は不可。救貧院春期支援金に影響』
『王太子殿下へ報告要。財務卿にも写し提出』
そこまで書いてある。
止めようとしていたのだ。
彼女は隠していたのではない。
穴を見つけ、塞がないよう注意し、上へ報告しようとしていた。
だがその帳簿は、なぜか財務局の奥にしまわれていた。
しかも、昨夜まで誰も見なかった。
いや、見なかったのではない。
セレスティアが見ているから大丈夫だと、誰もが思っていた。
「財務卿」
若い財務官が声を潜める。
「このままでは、王妃宮予備費の一部が本来の用途に使えなくなります」
「だから救貧院への支払いが止まったのか」
「おそらく」
バルツァーは頭を抱えそうになった。
救貧院の支払い遅延。
王妃の薬草納入遅れ。
隣国大使への返答遅延。
別々の問題に見えていたものが、一つの穴に繋がり始めている。
しかも、その穴はセレスティアが作ったものではない。
彼女が指で押さえていた穴だ。
その指を、王宮は昨夜、自分たちで払いのけた。
「殿下には?」
若い財務官が尋ねる。
バルツァーは返事に詰まった。
王太子アデルに報告すべきだ。
だが、どう報告する。
王太子府の支出に不整合があります。
セレスティア様がそれを指摘していました。
それを処理しないまま彼女を実務から外したため、現在王妃宮予備費と救貧院支援に影響が出ています。
そんなことを正面から言える者が、この王宮にどれほどいるだろう。
バルツァーは、重く息を吐いた。
「まず、書記局長を呼べ。王妃宮にも連絡を取る。記録の照合が先だ」
「殿下へは」
「……整えてからだ」
若い財務官は頷いた。
だが、その顔には不安が残っている。
整えてから。
その言葉は便利だ。
報告を遅らせるときにも、責任を曖昧にするときにも使える。
バルツァー自身、それを分かっていた。
けれど、今すぐ王太子へ報告すれば、何が起こるか分からない。
そして、その迷いこそが王宮の病だった。
誰もが、爆発する前に処理しようとする。
誰もが、上の機嫌を損ねない形に整えようとする。
誰もが、問題を問題として出すことを恐れる。
その恐れを、今まではセレスティアが引き受けていた。
嫌われる役。
細かいと言われる役。
冷たいと疎まれる役。
それでも、必要なことを言う役。
その役を追い出した王宮には、もう誰も火種を素手で掴む者がいなかった。
同じころ、リリアナは姉の執務室でその帳簿の写しを見つけていた。
正確には、見つけてしまった。
引き継ぎ書の中に挟まれていた薄い封筒。
表には、姉の筆跡でこう書かれていた。
『財務に関する説明。必要になるまで開けないこと』
リリアナは、その文字を前に長く迷った。
必要になるまで。
では今は、必要なのか。
救貧院の支払いは遅れている。
王妃の薬草も不足しかけた。
財務局からは問い合わせが来ている。
王太子殿下は会議で苛立っている。
必要ではないと言う方が、無理だった。
リリアナは封を切った。
中には、帳簿の写しと説明書きが入っていた。
最初の一文で、彼女は息を止めた。
『リリアナへ。もしこの書類を読んでいるなら、王宮の支出に何らかの問題が表面化しているはずです』
まるで、未来を知っていたような書き出しだった。
だが違う。
姉は未来を知っていたのではない。
王宮がいつかこうなると、数字から分かっていたのだ。
リリアナは続きを読んだ。
『まず、あなたが責められるべき問題ではありません。分からないまま署名をしてはいけません。必ず財務卿バルツァー、書記局長、マルタ侍女長の三者に同時確認を取ること』
責められるべき問題ではない。
姉は、ここでもリリアナを守ろうとしていた。
リリアナの喉が詰まる。
『王太子府の儀礼費に、未整理の支出があります。殿下が直接悪意をもって行ったものではない可能性がありますが、側近たちが殿下の名を使い、支出を膨らませている可能性があります』
リリアナは震える指で次の行を追った。
『この件を殿下お一人に報告すると、感情的に処理される恐れがあります。必ず複数部署を同席させること』
殿下が感情的に。
その言葉に、リリアナは一瞬反発した。
アデルは優しい。
自分を守ってくれた。
姉を断罪したのも、自分のためだと言ってくれた。
だが、すぐに会議での彼の様子を思い出す。
分からないことを細かいと切り捨てる。
セレスティアの名を出すなと命じる。
仕事は周囲に任せればいいと言う。
それは、優しさなのか。
それとも、見たくないものを見ないだけなのか。
リリアナは唇を噛んだ。
説明書きは、さらに続いていた。
『王妃宮予備費には絶対に手をつけてはいけません。陛下の療養だけでなく、救貧院支援、東区薬師ギルドとの緊急契約にも関わっています』
リリアナは、昨日の薬箱を思い出した。
空になりかけていた薬箱。
王妃の熱。
マルタの厳しい目。
すべて繋がっている。
王太子府の支出。
王妃宮予備費。
救貧院。
薬草。
リリアナは、椅子の肘置きを握った。
また、知らなかったでは済まないものが増えていく。
そのとき、扉が叩かれた。
「リリアナ様」
エルンの声だった。
「はい」
「財務局より、至急確認したい書類があるとのことで」
リリアナは、手元の帳簿の写しを見た。
隠すべきか。
父なら、まず隠せと言うだろう。
王太子殿下なら、セレスティアの名を出すなと言うかもしれない。
だが姉の説明書きには、こうある。
必ず三者に同時確認を取ること。
リリアナは立ち上がった。
「エルン」
「はい」
「財務卿と書記局長、それからマルタ侍女長を呼んでください」
「マルタ侍女長も、ですか」
「はい。王妃宮予備費に関わることです」
エルンの表情が変わった。
「承知しました」
「それから……」
リリアナは一度言葉を止めた。
勇気が要った。
「この書類は、セレスティアお姉様が残したものです。隠さず、記録に残してください」
エルンは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
彼が出ていったあと、リリアナは姉の字を見下ろした。
優しいだけではない。
姉の書類は、優しいだけではなかった。
正確で、冷静で、逃げ道を塞ぐ。
それは誰かを傷つける刃ではない。
王宮が自分で自分の腐った場所を見るための刃だ。
リリアナは初めて思った。
お姉様は、悪女ではなかった。
でも、もしこの帳簿が表に出れば。
悪女と呼ばれた姉こそが、王宮を裁くことになる。
そのころ、王太子アデルのもとにも財務局からの報告が届いていた。
ただし、整えられた報告だった。
『王太子府儀礼費と王妃宮予備費の一部処理に不整合あり。現在確認中』
その文面には、誰が穴を作ったのかも、誰が止めようとしていたのかも書かれていない。
アデルは報告書を見て、眉を寄せた。
「不整合?」
側近の一人が、すぐに言った。
「おそらく、セレスティア嬢が実務に関わっていた頃の処理でしょう」
アデルの目が細くなる。
「彼女の?」
「はい。あの方は各局に深く入り込んでおられましたから。王妃宮予備費にまで関わっていたとなれば、何らかの独断があった可能性も」
独断。
その言葉は、アデルの中に残っていた苛立ちとよく噛み合った。
セレスティアは王宮実務に入り込みすぎた。
各局が彼女に頼りすぎた。
だから混乱が起きている。
やはり、自分の判断は間違っていない。
「調べろ」
アデルは命じた。
「もし彼女が不正に関わっていたなら、公にする必要がある」
側近は頭を下げた。
「承知いたしました」
その場にいた侍従が、一瞬だけ顔を強張らせた。
だが、誰も止めなかった。
止めれば、王太子に逆らうことになる。
こうして、王宮の中で新たな噂が生まれ始めた。
セレスティアが財務に不正に関わっていたのではないか。
王妃宮予備費を動かしたのではないか。
救貧院支援金の遅れも、彼女の処理のせいではないか。
悪女という名札の次に貼られるのは、横領疑惑。
根拠は薄い。
だが、王宮では根拠より都合が勝つことがある。
悪女が去ったあとに問題が出たのなら、悪女のせいにすればいい。
そうすれば、残された者たちは傷つかずに済む。
少なくとも、その場では。
夜。
北方の屋敷に、一通の知らせが届いた。
王都に残るノアの情報係からだった。
ノアは執務室でそれを読み、表情を消した。
短い報告書。
『王宮財務に不整合。王太子府側近、一部でセレスティア嬢の関与を示唆。横領疑惑として処理する動きあり』
ノアは報告書を机に置いた。
部屋の空気が冷える。
従者は静かに控えていたが、主の怒りを察していた。
「閣下」
「彼女に伝える」
「今夜ですか」
「隠せば、王宮と同じになる」
ノアは立ち上がった。
「ただし、私が先に怒ってはならない。これは彼女の問題だ」
従者は頭を下げた。
「承知しました」
セレスティアは、そのころ部屋で王妃から預かった封書を見つめていた。
小箱の蓋を開けると、古い鍵と封書がある。
王妃の筆跡。
『まだ開けてはなりません』
何度見ても、その文字は静かだった。
王妃は何を知っていたのか。
自分に何を託したのか。
そして、いつになれば開けてよいのか。
セレスティアは鍵に触れた。
冷たい。
小さな鍵なのに、王宮そのものより重い気がした。
扉が叩かれる。
「セレスティア殿」
ノアの声だった。
セレスティアは封書を小箱へ戻し、蓋を閉める。
「どうぞ」
ノアが入ってくる。
その顔を見た瞬間、セレスティアは何かがあったのだと分かった。
彼は普段から表情が少ない。
だが今は、静かすぎた。
「王都から知らせが来ました」
ノアは前置きをしなかった。
セレスティアは椅子に座ったまま、背筋を伸ばす。
「王妃陛下に何か」
「王妃陛下の件ではありません」
その言葉に、少しだけ息が戻る。
だが、ノアの次の言葉で指先が冷えた。
「王宮財務に不整合が見つかりました。王太子府の一部が、それをあなたの関与によるものとして処理しようとしている」
セレスティアはしばらく瞬きもしなかった。
「……私の?」
「はい。横領疑惑として噂を作る動きがあります」
横領。
その言葉が、遅れて胸に刺さった。
悪女。
妹を虐げた女。
王宮実務に過度に介入した女。
それだけでは足りないのか。
今度は横領。
王宮は、自分をどこまで汚せば安心するのだろう。
「そう、ですか」
セレスティアの声は静かだった。
静かすぎた。
ノアはそれを見て、すぐには何も言わなかった。
セレスティアは机の端を見つめる。
財務の穴。
思い当たることはあった。
王太子府の儀礼費。
南方大使関連費の二重計上。
王妃宮予備費への不自然な処理。
救貧院支援金への影響。
彼女は何度も止めようとした。
帳簿に残した。
財務局へ写しを出した。
王太子へ報告するための資料も整えた。
だが、その資料を渡す前に断罪された。
そして今、その穴を作ったのはセレスティアだということにされようとしている。
うまくできている。
あまりにも、うまくできている。
「セレスティア殿」
ノアが静かに呼んだ。
「怒ってもいい」
その言葉に、セレスティアは少しだけ笑った。
「怒るべきなのでしょうね」
「べきではなく、怒っていい」
「……怒り方が、分からないのです」
本音だった。
悲しみ方も、泣き方も、怒り方も。
長い間、すべてを礼儀の奥へしまってきた。
今さら取り出そうとしても、手が届かない。
「私は、王宮の財務を守ろうとしました」
「はい」
「王妃宮予備費に手をつければ、陛下の薬草と救貧院支援に影響が出ます。だから止めました」
「はい」
「帳簿にも残しました。財務卿にも写しを送るつもりでした。リリアナにも、必要になったとき読むように書類を残しました」
「はい」
「それなのに」
そこで声が止まった。
喉の奥が震える。
涙は出ない。
怒鳴ることもできない。
ただ、呼吸だけが浅くなる。
「それなのに、私が盗んだことになるのですね」
ノアの手が、机の上でわずかに握られた。
だが彼は、自分の怒りを押し出さなかった。
「証拠はありますか」
「あります」
セレスティアは即答した。
鞄の中から、一冊の帳面を取り出す。
王宮を出るとき、持ち出した数冊のうちの一つ。
それは正帳簿ではない。
だが、セレスティア自身が記録した写しだった。
日付。
支出元。
処理者。
確認印。
不備の内容。
報告予定先。
びっしりと書かれている。
「これは、私が自分の身を守るために持ってきたものではありません」
「では、なぜ」
「王宮が処理を誤ったとき、後から正せるように」
セレスティアは帳面を開いた。
「私は、まだ王宮を信じようとしていたのかもしれません。誰かが気づくと。誰かが、きちんと確認すると。私がいなくても、記録さえ残せば正しく処理されると」
自分で言って、胸が痛くなった。
信じたかった。
捨てられても、悪女と呼ばれても、どこかでまだ信じていた。
王宮には理性が残っている。
父も、殿下も、財務卿も、誰かが止める。
そう思っていた。
だが王宮は、止まるどころか、彼女に罪を着せようとしている。
ノアは帳面を見た。
視線が鋭くなる。
「これは、武器になります」
「はい」
「出せば、王太子府の側近だけでなく、王宮財務全体が揺れる」
「分かっています」
「王妃宮にも影響が出る」
「はい」
「救貧院支援が一時止まる可能性もある」
「……はい」
だから出せない。
それをノアは理解したのだろう。
セレスティアは帳面を閉じた。
「私は、また黙るのでしょうか」
「それを決めるのは、あなたです」
ノアは言った。
「ただ、黙ることと、何もしないことは違います」
セレスティアは顔を上げる。
「どういう意味でしょう」
「今すぐ公表しなくても、記録を守ることはできる。信頼できる者へ写しを預けることもできる。王宮の中で、あなたを完全に悪者にしたくない者と連絡を取ることもできる」
「王宮の中に、そのような方が」
「いるでしょう」
ノアの声は静かだった。
「少なくとも、王妃陛下。侍女長。財務局にも、全員が愚かではないはずです」
セレスティアは黙った。
マルタ侍女長。
若い侍女ミーナ。
書記官エルン。
財務卿バルツァー。
顔が浮かぶ。
王宮は自分を捨てた。
けれど、王宮にいるすべての人が自分を捨てたわけではない。
そのことを、忘れかけていた。
「戻りますか」
ノアが尋ねた。
短い問いだった。
だが、セレスティアの胸を深く揺らした。
王宮へ戻る。
悪女と呼ばれた場所へ。
父がいる場所へ。
アデルがいる場所へ。
リリアナが自分の椅子に座っている場所へ。
戻れば、傷はまた開くだろう。
弁明すれば、王妃の秘密に触れるかもしれない。
帳簿を出せば、王宮が揺れる。
黙れば、自分は横領疑惑を被る。
どちらを選んでも、楽にはならない。
セレスティアは、小箱へ視線を向けた。
王妃から預かった封書。
まだ開けてはならない。
自分のために選ぶ日まで。
セレスティアは、ゆっくりと息を吸った。
「戻りません」
ノアは頷いた。
責めなかった。
だからこそ、続けることができた。
「私は、あの場所へ戻るためにここへ来たのではありません」
「はい」
「けれど」
声が少しだけ揺れた。
「見捨てることも、まだできないのです」
ノアはしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「なら、戻らずに戦う方法を探しましょう」
「戻らずに」
「ええ」
その言葉は、セレスティアの中で小さな灯りのように残った。
戻らない。
でも、黙って罪を被るわけでもない。
そんな道があるのだろうか。
分からない。
けれど、ノアはあると言っている。
少なくとも、探すと言っている。
「帳簿の写しを作ります」
セレスティアは言った。
「王妃陛下へ直接届く形で。マルタ侍女長なら、きっと受け取ってくださいます」
「手配します」
「ただし、公表はまだしません」
「理由は?」
「救貧院支援と王妃陛下の薬草が安定するまで、王妃宮予備費を止めるわけにはいきません。それに、今帳簿だけを出せば、殿下はまた感情的に処理されるかもしれません」
「では、何が必要ですか」
セレスティアは目を伏せた。
「証人と、時期です」
「証人」
「帳簿を見ていた財務官。薬草納入の遅れを知るマルタ侍女長。救貧院支援の処理を止められた者。それから……リリアナ」
妹の名を出すのに、少しだけ力が要った。
ノアは意外そうに眉を動かす。
「リリアナ嬢を?」
「私の引き継ぎ書を読んでいるはずです。あの子が本当に理解したなら、王宮の中で最初に気づくかもしれません」
「信じているのですか」
セレスティアはすぐには答えなかった。
信じている。
そう言い切るには、傷が深すぎる。
信じていない。
そう切り捨てるには、思い出が多すぎる。
「分かりません」
彼女は正直に答えた。
「でも、あの子が何も知らないまま私の名で守られるのは、もう違うと思います」
ノアは頷いた。
「では、その形で」
「閣下」
「はい」
「私は、また誰かを守ろうとしているのでしょうか」
問うと、ノアは少し考えた。
「そうかもしれません」
セレスティアは苦笑する。
「やはり」
「ですが、今回は自分を消して守ろうとしているわけではない」
その言葉に、セレスティアは息を止めた。
「あなたは、自分の名を汚されないためにも動こうとしている」
「……そう、でしょうか」
「少なくとも、私はそう見ています」
セレスティアは帳面に手を置いた。
自分の名を守る。
そんなことを、いつ以来考えただろう。
家の名ではなく。
王太子の顔ではなく。
リリアナの立場ではなく。
王宮の体面でもなく。
セレスティア・レイノルドという一人の名を。
「少し、怖いです」
「当然です」
「でも、何もしない方がもっと怖い」
「なら、動きましょう」
ノアはそう言った。
簡潔で、揺るがない言葉だった。
セレスティアは頷いた。
その夜、辺境の屋敷で帳簿の写しが作られた。
王宮の奥で眠っていたはずの数字。
悪女が残したとされる記録。
横領の証拠にされかけたもの。
だが、その中身はまったく逆だった。
王宮の穴を塞ぎ続けた者の記録。
誰が見落とし、誰が使い込み、誰が見て見ぬふりをし、誰が最後まで止めようとしたのか。
それらを、静かに示す刃。
セレスティアは、写し終えた帳簿を封筒に入れた。
宛名は書かない。
ただ、封蝋にはノアの家紋を使わず、無地の蝋を選んだ。
これは辺境伯の告発ではない。
セレスティア自身の、最初の一手だった。
封を押したあと、彼女は小箱の中の王妃の封書をもう一度見た。
まだ開けない。
まだ、その時ではない。
けれど、いつか開ける日が来る。
その予感だけは、もう避けられなかった。
王都では、悪女に横領疑惑を着せるための噂が静かに広がり始めている。
辺境では、その悪女が残した帳簿が、王宮へ戻ろうとしている。
剣も血もない。
叫び声もない。
ただ数字と記録だけが、王国の心臓へ向かって進み始めた。
その優しさこそが、王宮を最も残酷に裁く刃になることを、彼女はまだ知らなかった。




