第118話 読む前夜、母の名前を紙に書いた
箱には触れなかった。
昨日も、今日も。
蓋に指をかけたあの日から、セレスティアは箱を急に遠ざけたわけではない。
机の上には置いたままだ。
布をかけて隠したわけでもない。
隣室へ運ばせたわけでもない。
ただ、触れなかった。
触れない日にも意味がある。
そう書いたばかりだった。
だから、その日も、まずは触れないまま朝を始めた。
窓を短く開ける。
冷たい空気を入れる。
文鎮を確かめる。
薄青の布を椅子の横に畳む。
小卓に白湯を置く。
水も置く。
呼び鈴もある。
ノアは、まだ部屋にはいない。
最近のセレスティアは、一日の始まりを少し自分で決められるようになっていた。
侍女が入る前に、机へ近づく。
箱を見る。
触れるか、触れないか。
その日ごとに決める。
今日は触れない。
そう決めて、彼女は小卓の前に座った。
白紙が一枚ある。
昨日の夜、何となく置いたままにしていた紙だ。
何を書くための紙か、まだ決めていなかった。
箱の横には、もうたくさんの言葉がある。
『母は一枚ではない』
『読まなかった夜にも、意味はあった』
『本人の“まだ”を尊重する』
『私は、誰かのために次を急がない』
『箱を開けても、閉じてよい』
それらの紙の中で、一つだけ、ずっと避けてきたものがあった。
母の名前。
セレスティアは、母のことを「お母様」と書いてきた。
あるいは「母」。
王妃宮への報告では「エレナ様」と書かれることもある。
公爵家の文書でも、正式には「エレナ・レイノルド」と記される。
けれど、セレスティア自身の手で、ただ「エレナ」と書いたことは、ほとんどなかった。
母は母だった。
お母様だった。
病の人だった。
優しかった人だった。
助けてくれなかった人だった。
覚書を残した人だった。
でも、一人の人間としての名前を、セレスティアは自分の紙に置いてこなかった。
置けば、母が少し変わる気がした。
遠くなるのか。
近くなるのか。
分からなかった。
母を母の役割から降ろすようで怖かった。
同時に、母という役割の中へ閉じ込めたままにするのも、息苦しかった。
扉が叩かれた。
「入ってください」
ノアが入ってきた。
手には書類を持っていない。
今日は、何かを報告しに来たのではなく、セレスティアの様子を見に来たのだろう。
彼は机の上の箱へ一瞬だけ視線を向け、それから小卓の白紙に気づいた。
「今日は、書く日ですか」
「まだ分かりません」
「はい」
「箱には触れません」
「はい」
「覚書も読みません」
「はい」
「でも、書くかもしれません」
「何を?」
セレスティアは白紙を見つめた。
答えは、喉の少し手前まで来ていた。
けれど、口にするのが怖い。
「母の、名前を」
ノアは黙って頷いた。
驚かなかった。
少しも、急かさなかった。
それがありがたかった。
「お母様、ではなく」
「はい」
「母、でもなく」
「はい」
「エレナ、と」
言っただけで、胸の奥がひりついた。
名前。
たった三文字なのに。
セレスティアは、まるで箱を開ける前のように緊張していた。
「変でしょうか」
「いいえ」
「名前を書くだけです」
「はい」
「でも、怖いです」
「はい」
「お母様と呼んでいる間は、母でいてくれます」
「はい」
「エレナと書いたら、母ではなくなってしまう気がします」
「母であることと、一人の人であることは両立します」
ノアの声は静かだった。
セレスティアは、小さく息を吐く。
「また、両立」
「はい」
「別、と、両立、ばかりですね」
「どちらも必要なので」
「母は、母であり、エレナでもある」
「はい」
「でも、私は母をエレナとして見たことがあまりありません」
「そうでしょうね」
「娘ですから」
「はい」
「娘にとって、母は最初から母です」
「はい」
「でも、母には娘でない時間があった」
「はい」
「妻である時間も、令嬢である時間も、病人である時間も、友人である時間も、きっとあった」
「はい」
「それを考えるのが怖いです」
「なぜ?」
セレスティアは少し考えた。
白紙の上に置いた指先が、かすかに動く。
「母が私だけの母ではなかったと分かるからです」
「はい」
「それは当たり前なのに」
「はい」
「当たり前なのに、少し寂しい」
「はい」
「そして、少し腹立たしい」
「はい」
ノアの返事は、どれも否定しない。
セレスティアは、それに支えられながら続けた。
「お母様は、私の母なのに。私を助けてほしかったのに。エレナという一人の人として事情がありました、と言われたら、私はまた我慢しなければならない気がするのです」
「エレナという一人の人に事情があったことと、あなたが我慢しなければならないことは別です」
「はい」
「一人の人として見ることは、免罪ではありません」
「はい」
「母という役割だけで裁かないことと、娘の痛みを消すことも別です」
セレスティアは目を伏せた。
「難しいです」
「はい」
「でも、たぶん必要です」
「そう思います」
セレスティアはペンを取った。
しかし、すぐには書けない。
紙の上でペン先が止まる。
エ。
最初の音。
その一文字を思い浮かべただけで、母の声が聞こえる気がした。
セレスティア。
そう呼ぶ声。
優しい日もあった。
髪を梳いてくれた日。
熱の夜に布を替えてくれた日。
曲がった白い花の刺繍を「咲いている」と言ってくれた日。
でも、助けてくれなかった日もあった。
廊下に立っていた日。
母の部屋の扉の前で、来客の質問に答えた日。
リリアナの泣き声を聞きながら、自分の疲れを飲み込んだ日。
母は一枚ではない。
何度も書いた。
それでも、名前を書くのは違う。
名前は、紙の上に人を立たせる。
役割ではなく。
言い訳でもなく。
記憶の中の一場面でもなく。
一人の人として。
「閣下」
「はい」
「見ていないでください」
ノアはすぐに視線を外した。
「窓の方を見ています」
「ありがとうございます」
「必要なら、部屋を出ます」
「いえ。そこにはいてください」
「はい」
「でも、見ないでください」
「見ません」
セレスティアは、小さく笑った。
「難しい注文ですね」
「最近、慣れてきました」
「本当に?」
「はい」
「では、お願いします」
ノアは窓の方を向いた。
セレスティアは、白紙へ向き直る。
手が少し震えている。
箱の蓋に指をかけたときほどではない。
でも、震えている。
彼女はゆっくり息を吸った。
吐く。
そして、書いた。
『エレナ』
ただ、それだけ。
三文字。
母の名前。
書いた瞬間、胸の中で何かが大きく動いた。
悲しいのか。
怖いのか。
怒っているのか。
懐かしいのか。
分からない。
ただ、動いた。
セレスティアは、ペンを置いた。
紙の上の名前を見る。
エレナ。
お母様ではない。
母でもない。
エレナ。
その文字は、思ったより小さく見えた。
あれほど怖かったのに、紙の上では静かだった。
セレスティアは、しばらくその名前を見つめた。
すると、不思議なことに、母が母でなくなったわけではなかった。
紙の上のエレナは、母を消さない。
母という役割の奥に、もう一人の人が立っただけだ。
重なっている。
完全には重ならない。
でも、離れきってもいない。
「書けました」
セレスティアが言うと、ノアはまだ窓を向いたまま答えた。
「見ても?」
「……はい」
ノアがこちらを向く。
小卓の上の紙を見る。
そこには、ただ一つの名前。
『エレナ』
ノアは、静かに頷いた。
「書けましたね」
「はい」
「どうですか」
「母が、消えませんでした」
「はい」
「エレナと書いても、お母様ではなくなりませんでした」
「はい」
「でも、お母様だけでもなくなりました」
「はい」
「少し、怖いです」
「はい」
「少し、楽です」
「はい」
セレスティアは、もう一枚紙を取った。
今度は、少し長く書く。
『エレナ。
母。
ひとりの人。
私を愛していたかもしれない人。
私を守れなかった人。
優しい記憶をくれた人。
助けてほしい夜に、助けてくれなかった人。
覚書を残した人。
まだ読めない人。
でも、名前は書けた』
書きながら、涙が滲んだ。
だが、落ちなかった。
涙が出そうで、出ない。
それもまた、今日の状態だった。
「まだ読めない人」
ノアが静かに繰り返した。
「はい」
「でも、名前は書けた」
「はい」
「大きな日ですね」
「開けていません」
「はい」
「読んでいません」
「はい」
「でも、名前を書きました」
「はい」
「これも、距離の段階でしょうか」
「そう思います」
「存在確認でも、接触でも、開封でもない」
「はい」
「呼称変更、でしょうか」
ノアは少し考えた。
「呼称整理、かもしれません」
「王妃宮が好きそうです」
「かなり」
セレスティアは少し笑った。
緊張が少しほどける。
「報告しますか」
ノアが尋ねた。
セレスティアは、紙の上の名前を見つめた。
報告するか。
母の名前を書いたことを、王妃宮へ知らせるか。
これは、とても私的なことだ。
しかし、呼称の整理は、他の誰かにも必要かもしれない。
母。
父。
姉。
妹。
婚約者。
王太子。
公爵。
役割でしか見られない人たち。
役割から降りること。
役割の奥に人を見ること。
ただし、それを免罪にしないこと。
そこには、きっと基準が必要だ。
「短くなら」
セレスティアは言った。
「はい」
「内容は詳しく書きません」
「はい」
「母の個人名を書いた。呼称整理あり。開封なし。読了なし。返答なし」
「はい」
「“母を一人の人として扱うことは、母の責任を消すことではない”も入れてください」
「大事ですね」
「はい」
報告は、短くまとめられた。
『エレナ様覚書に関する本人状態。
開封なし。読了なし。返答なし。
本日、本人の意思により、母を役割名ではなく個人名として記述。呼称整理あり。
本人所感:母を一人の人として扱うことは、母の責任を消すことではない。
個別内容非共有。回答不要』
王妃宮でその報告を受け取ったリリアナは、最初、意味が分からなかった。
「個人名として記述……」
エルンが小さく言った。
「エレナ様、と書かれたのでしょうか」
マルタは、報告の文面を見ながら静かに頷いた。
「おそらく」
リリアナは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
お母様。
リリアナにとっても、エレナはお母様だった。
優しい記憶がある。
体調の悪い記憶もある。
寝室の薄い匂い。
白い手。
静かな声。
だが、リリアナはこれまで、母を「エレナ」と書いたことがあっただろうか。
公文書ではある。
でも、自分の記録の中ではない。
お母様。
その言葉の中に、甘えと痛みと後悔を全部入れてきた。
「私も、書いてみてもよいでしょうか」
リリアナは言った。
マルタはすぐには答えなかった。
「何を書くのですか」
「母の名前を」
「姉君の報告を受けて、同じことをしたくなったのですね」
「はい」
「それは、姉君の進展確認ではありませんか」
リリアナは、言葉に詰まった。
確かに、その危険はある。
姉が書いたから、自分も。
姉の段階に追いつきたい。
姉と同じ場所へ立ちたい。
それは、姉の内側の行動を、自分の行動の合図にしてしまうことかもしれない。
「……危険です」
「はい」
「でも、私にも必要な気がします」
「それも、あり得ます」
「どうすればいいでしょう」
「姉君の真似としてではなく、あなた自身の整理として、後で書きなさい」
「今ではなく?」
「今すぐは、姉君の報告に反応している状態です。少し置きましょう」
リリアナは深く息を吐いた。
「待つのですね」
「はい」
「自分のことでも」
「はい」
「すぐ書くと、姉の影を追うことになる」
「その可能性があります」
リリアナは、報告書を丁寧に置いた。
「では、今は基準を書きます」
「よろしい」
エルンが筆を構える。
リリアナは、少し考えながら言葉にした。
『役割名と個人名の整理――暫定版一』
一、母、父、姉、妹、婚約者、主君等の役割名は、関係を示すが、その人の全体を示すものではない。
二、個人名で記述することは、役割を否定することではない。
三、個人名で記述することは、責任を薄めることでも免罪することでもない。
四、役割名から個人名へ移るかどうかは、本人が決める。
五、外部者は、個人名で呼べたことを和解、許し、理解の進展と解釈しない。
六、役割の奥に人を見ることと、その人の行為の結果を消すことは別である。
エルンが六番を書きながら、少し頷いた。
「これは、王宮全体に必要です」
「最近、そればかりですね」
リリアナが言うと、エルンは真顔で答える。
「王宮全体に必要なものが多すぎます」
「本当にそうです」
マルタは、補足を見て頷いた。
「よいでしょう」
リリアナは、報告書の方をもう一度見た。
姉が母の名を書いた。
それを「前進」と呼びたい気持ちがある。
だが、それをしてはいけない。
姉は、姉のために書いた。
自分たちは、それを制度化するなら、姉の中身を奪わない形で扱う。
「私は、あとで書きます」
リリアナは小さく言った。
「はい」
「今は、姉の名前ではなく、自分の記録として」
「それがよいでしょう」
その日の夜、リリアナは一人で記録帳を開いた。
マルタもエルンもいない。
机の上には、一本の蝋燭。
白紙。
彼女は、かなり長く迷った。
そして、書いた。
『エレナ』
書いた瞬間、涙が落ちた。
リリアナは、母の名の横に小さく書き足した。
『お母様。
私を甘やかした人。
私を置いていった人。
姉に頼る私を止めなかった人。
病だった人。
優しい声の人。
まだ、よく分からない人』
それを姉へ送るつもりはない。
マルタにも、まだ見せない。
自分の記録として閉じる。
リリアナは、紙を乾かしてから、未共有綴じへ入れた。
そのとき、少しだけ大人になった気がした。
一方、王太子府でも、王妃宮補足は読まれていた。
アデルは「役割名と個人名の整理」という表題を見て、長く黙った。
「婚約者」
彼は呟いた。
エドが筆を構える。
「はい」
「私は、彼女を婚約者として見ていた」
「はい」
「王太子妃候補として」
「はい」
「未来の妃として」
「はい」
「だが、セレスティアという個人として、どれほど見ていたか」
エドは、すぐには答えなかった。
代わりにラウルが静かに言った。
「殿下がご自分で記録されるべきかと」
「そうだな」
アデルは白紙を取った。
そして、書いた。
『セレスティア』
久しぶりに、肩書きなしでその名を書いた。
王太子妃候補でもなく。
元婚約者でもなく。
レイノルド公爵令嬢でもなく。
ただ、セレスティア。
その名前は、思ったより遠かった。
「遠いな」
アデルは言った。
エドは記録しなかった。
その沈黙が、珍しく優しかった。
アデルは、続けて書いた。
『セレスティア。
かつて婚約者だった人。
王太子府が過度な実務を負わせた人。
私が役割として見すぎた人。
今は、私の謝罪を受け取る義務のない人。
名前を書いても、近づいたことにはならない』
書き終えたあと、アデルは紙を折った。
「未送付綴じへ」
「宛先は」
エドが尋ねる。
「宛先なし。自己整理用」
「はい」
グレゴールも、同じ補足を読んでいた。
彼は、自分の記録室で白紙を前にしている。
家令は少し離れて立っていた。
「私は、エレナを妻として見ていた」
グレゴールは言った。
「はい」
「セレスティアを娘として見ていた」
「はい」
「リリアナを守るべき幼い娘として見ていた」
「はい」
「どれも間違いではないが、足りなかった」
「はい」
グレゴールはペンを取った。
『エレナ』
書く。
手が少し止まる。
妻。
亡き妻。
病の妻。
美しかった人。
弱っていった人。
娘たちの母。
自分が守りきれなかった人。
そして、時に娘を守れなかった人。
グレゴールは、紙に書いた。
『エレナ。
妻。
セレスティアとリリアナの母。
病だった人。
私が守りたかった人。
守ることを理由に、娘の負担を見えにくくした人でもある。
愛していたことと、守れたことは別』
家令が静かに言った。
「その紙は、どちらへ」
「私の未共有綴じへ」
「セレスティア様へは」
「送らない」
「はい」
「エレナへも、もう送れない」
「はい」
「だから、ここに置く」
グレゴールは紙を閉じた。
「名前を書くのは、痛いな」
「はい」
「だが、役割だけで呼ぶより、逃げにくい」
「はい」
その夜、北方辺境伯家には、王妃宮から補足だけが届いた。
リリアナが母の名を書いたことも。
アデルがセレスティアの名を書いたことも。
グレゴールがエレナの名を書いたことも。
個別内容は伏せられていた。
ただ、基準だけ。
『役割名と個人名の整理――暫定版一』
セレスティアはそれを読み、少しだけ笑った。
「王妃宮は、本当に何でも基準にしますね」
ノアが頷く。
「はい」
「でも、助かります」
「はい」
「個別内容非共有」
「はい」
「誰が何を書いたか、知らなくていい」
「はい」
「私も、母の名前を書いたことだけを共有した。中身は共有していない」
「はい」
「それでいい」
セレスティアは、小卓の上の紙を見た。
『エレナ。
母。
ひとりの人。
私を愛していたかもしれない人。
私を守れなかった人。
優しい記憶をくれた人。
助けてほしい夜に、助けてくれなかった人。
覚書を残した人。
まだ読めない人。
でも、名前は書けた』
その紙は、箱の横へ置くかどうか迷った。
かなり個人的だ。
でも、今日は置きたい。
箱の近くに。
母の覚書の近くに。
ただし、箱へ重ねない。
セレスティアは、その紙を箱の少し手前に置いた。
重ねず、隣でもなく、少し手前。
自分側に。
「距離が細かいですね」
ノアが言った。
「はい。これは、私側の紙です」
「はい」
「箱の中の母ではなく、私が書いたエレナです」
「よい区分です」
「お母様は、私の中にもいるのですね」
「はい」
「箱の中にだけいるわけではない」
「はい」
「だから、箱を読まなくても、私は母について少し書ける」
「はい」
「逆に、箱を読んでも、私の中の母が全部置き換わるわけではない」
「その通りです」
セレスティアは、その言葉に深く息を吐いた。
それは大事だった。
母の覚書を読むのが怖い理由の一つは、母が全部変わってしまう気がするからだ。
良くも、悪くも。
覚書の中の言葉で、母の全てが決まってしまう気がする。
でも、違う。
箱の中の母と、自分の中の母は別だ。
重なる部分もある。
ずれる部分もある。
どちらか一方が、全部を支配するわけではない。
「書きます」
セレスティアは帳面を開いた。
『母の名前を書いた。
エレナ。
書いても、母は消えなかった。
でも、母だけでもなくなった。
母を一人の人として扱うことは、母の責任を消すことではない。
箱の中の母と、私の中の母は同じではない。
箱を読まなくても、私は母について少し書ける。
箱を読んでも、私の中の母が全部置き換わるわけではない。
今日は、覚書を読まなかった。
でも、母の名前を書けた』
書き終えて、セレスティアはペンを置いた。
少し疲れていた。
だが、嫌な疲れではなかった。
泣かなかった。
叫ばなかった。
箱にも触れなかった。
けれど、母の名前を書いた。
その夜、灯りを落とす前に、セレスティアは箱へ向かって静かに言った。
「お母様」
少し間を置く。
それから、もう一度。
「エレナ」
その名を声に出すのは、紙に書くよりもっと怖かった。
けれど、言えた。
母は消えなかった。
娘の痛みも消えなかった。
両方が、同じ部屋にあった。
「明日読むとは、決めていません」
セレスティアは、静かに続けた。
「でも、名前は書けました」
ノアは何も言わなかった。
部屋の外の廊下も静かだった。
箱は閉じたまま。
薄青の布も、閉じる布も、呼び鈴も、水も、そのままある。
そして、小卓の上には、母の名前を書いた紙がある。
読む前夜かどうかは、まだ分からない。
けれど、何かの前夜であることだけは、セレスティアにも分かっていた。




