第119話 開封候補日を三つ書いて、ひとつも決めなかった
母の名前を書いた翌日、セレスティアは箱を開けなかった。
それどころか、箱に触れもしなかった。
けれど、前日までとは少し違った。
箱から逃げている感覚ではない。
名前を書いたことで、箱の中にいる母と、自分の中にいる母が少し分かれた。
そのおかげか、箱を見ても、以前のように部屋の空気が急に重くなることはなかった。
もちろん、軽くはない。
母の覚書は、今も机の上にある。
けれど、箱の中に母のすべてが閉じ込められているわけではない。
そう思えるだけで、少し息ができた。
朝の支度を終え、窓を短く開ける。
紙が飛ばないように文鎮を確かめる。
水を置く。
白湯を置く。
薄青の布を畳む。
濃い灰色の閉じる布も、小卓の端に置く。
呼び鈴の位置を確認する。
それから、セレスティアは白紙を一枚出した。
今日の白紙は、最初から用途が決まっていた。
開封候補日。
その言葉を、昨夜眠る前に思いついた。
開封日ではない。
決定日でもない。
候補日。
その違いを、まず紙の一番上に書かなければならない。
そうしないと、日付を書いた瞬間に、その日が鎖になる。
セレスティアはペンを持ち、丁寧に表題を書いた。
『覚書開封候補日案』
その下に、さらに大きく書く。
『候補であり、決定ではない』
書いた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
こういう注釈がなければ、自分はすぐ予定に縛られる。
予定を書けば、実行しなければならない。
日付を置けば、その日に間に合わせなければならない。
誰かと約束したわけでもないのに、自分で書いた文字に追われる。
それが、長いあいだ身についた癖だった。
扉が軽く叩かれる。
「入ってください」
ノアが入ってきた。
今日は、いつもの朝の確認より少し遅い。
セレスティアが先に一人で書き始める時間を残してくれたのだろう。
彼は小卓の紙を見たが、近づきすぎなかった。
「候補日ですか」
「はい」
「決定日ではなく」
「はい。そこを最初に書きました」
ノアが静かに頷く。
「よいですね」
「よいですか」
「候補日を書くことは、開封日を決めることではありません」
セレスティアは、少し笑った。
「先に言われました」
「必要かと」
「最近の私は、すべてに注釈が必要ですね」
「注釈で守れるなら、書いた方がよいです」
「注釈だらけの人生です」
「本文だけで押し切られるより、安全です」
その言い方が少しおかしくて、セレスティアは小さく笑った。
「本文だけで押し切られる人生は嫌ですね」
「はい」
「では、注釈を増やします」
彼女は表題の横にさらに書き添えた。
『候補日を書いても、当日開封義務なし。
候補日前日・当日朝の条件により取消可。
取消は失敗ではなく条件運用。
次回予定は自動発生しない』
書いてから、セレスティアはノアを見た。
「多いでしょうか」
「いいえ」
「候補日の紙なのに、候補日より注釈の方が多くなりそうです」
「重要なのは日付より条件でしょう」
「はい。そうですね」
日付より条件。
それを聞いて、セレスティアは候補日を書く前に、条件欄を作ることにした。
一、睡眠。
二、体調。
三、食事。
四、王都からの文書量。
五、前日の感情負荷。
六、ノアの待機可否。
七、天候。
八、本人の「まだ」。
最後の項目を書いて、少し手が止まる。
本人の「まだ」。
どれだけ条件が整っていても、当日の自分が「まだ」と感じたら中止する。
その項目は、他のすべてより大切かもしれない。
「天候も入れるのですね」
ノアが言った。
「はい」
「雨だと難しい?」
「雨そのものは嫌いではありません。でも、雨音が強いと、母の寝室を思い出す日があります」
「はい」
「曇りの日も、部屋が暗くなると苦しいかもしれません」
「晴れすぎる日は?」
「それはそれで、覚書を読む日なのに外が明るすぎると腹が立つかもしれません」
ノアは真顔で頷いた。
「天候は重要ですね」
「今、少し笑いそうでしたか」
「いいえ」
「本当に?」
「少しだけ」
セレスティアは、ほんの少しだけ目を細めた。
「笑ってもいいです」
「では、少しだけ」
ノアがかすかに笑った。
それだけで、部屋の緊張が少し薄まった。
「天気に腹を立てるのは、変でしょうか」
「いいえ。天気はよく理不尽です」
「北方らしい言い方ですね」
「雪も理不尽です」
「大体、雪で説明しますね」
「便利ですので」
セレスティアは笑いながら、天候欄に書き足した。
『雨音強すぎる日、不可。
暗すぎる日、要検討。
晴れすぎて腹が立つ日、延期可』
書いてから、自分で少し笑った。
「これは王妃宮に見せられません」
「見せてもよいのでは」
「晴れすぎて腹が立つ日、延期可、ですよ」
「非常に実用的です」
「閣下は真面目に冗談を言うから困ります」
「半分は真面目です」
セレスティアは、少し温まった気持ちのまま日付欄へ移った。
三つ。
三つ候補を書く。
一つでは圧が強すぎる。
二つでも、どちらかを選ばなければならない感じがする。
三つなら、少し余白がある。
最初の日付を書く。
『第一候補日――五日後』
五日後。
近い。
書いた瞬間、胸が少し跳ねた。
近すぎるだろうか。
けれど、遠すぎても、ずっとその日付に追われる。
五日後は、試すには現実的だ。
その横に条件を書く。
『前夜の睡眠が一定以上。
当日朝、食事摂取可。
王都から新規文書なし、または未開封保管。
ノア隣室待機可。
本人の“まだ”が強くない場合のみ』
本人の“まだ”が強くない場合のみ。
強くない、という表現に迷った。
“まだ”があること自体は、きっと当日もある。
完全に消える日は来ないかもしれない。
だから、強くない場合。
それくらいでいい。
次に、第二候補。
『第二候補日――八日後』
少し余裕がある。
その日は、王妃宮からの定期報告が来る予定の翌日だ。
報告が重ければ避ける。
軽ければ候補にする。
『前日文書量少。
王妃宮報告が境界関連のみであること。
体調安定。
外出予定なし。
本人希望ありの場合のみ』
本人希望あり。
書いてから、セレスティアは小さく呟いた。
「希望、ですか」
ノアが尋ねる。
「違和感がありますか」
「はい。覚書を開けることに、希望という言葉を使ってよいのか分かりません」
「開けたい気持ち、でもよいかと」
「開けたい……」
言ってみると、少し苦い。
開けたいわけではない。
でも、ずっと閉じたままでいたいわけでもない。
知りたい気持ちもある。
怖い気持ちもある。
怒りたい気持ちもある。
母に会いたいような気持ちもある。
会いたくない気持ちもある。
「希望ではなく、本人意思あり、にします」
「よいと思います」
セレスティアは訂正した。
『本人意思ありの場合のみ』
第三候補。
少し遠めの日。
『第三候補日――十二日後』
遠い。
だが、予備として必要だった。
第一、第二が消えたとき、次がすぐ詰まっていないと、また失敗感が出るかもしれない。
ただし、第三候補も決定ではない。
『第一・第二候補取消時の再検討用。
自動移行なし。
第三候補も、当日条件確認必須。
延期可。取消可。次回未定可』
書き終えると、紙の上には三つの日付が並んだ。
どれも候補。
どれも決定ではない。
セレスティアは、三つの日付を見つめた。
胸が少しざわつく。
日付がある。
ついに、箱を開けるかもしれない日が紙に置かれた。
それは恐ろしい。
けれど、日付の横には、たくさんの条件と取消権がある。
それがなければ、きっと書けなかった。
「どうですか」
ノアが静かに尋ねる。
セレスティアは、少し考えてから答えた。
「怖いです」
「はい」
「でも、日付が敵ではないように見えます」
「はい」
「条件がついているからでしょうか」
「そう思います」
「以前の日付は、命令でした」
「はい」
「王妃教育の日。面会の日。返答期限。提出期限。婚約関連の式次第。どれも、私が合わせるものでした」
「はい」
「でも、この日付は、私に合わせる」
「はい」
その違いに気づいた瞬間、セレスティアの胸が少し熱くなった。
日付が自分に合わせる。
自分が日付に合わせるのではなく。
それは、とても奇妙で、新しい感覚だった。
「日付にも、主従があるのですね」
セレスティアが言うと、ノアは少しだけ眉を上げた。
「主従ですか」
「はい。以前は、日付が主で、私が従でした」
「今回は?」
「私が主、というのは少し強すぎますが……少なくとも、日付の奴隷ではありません」
「よい整理です」
「王妃宮に送ると、また基準になります」
「なるでしょうね」
「では、送ります」
セレスティアは、少しだけ笑った。
以前なら、自分の内側を基準にされることが怖かった。
今も、怖くないわけではない。
だが、個別内容を守りながら概念だけを共有する方法を、王妃宮は覚えつつある。
そして、その概念が誰かを守ることもある。
だから、送る。
ただし、三つの日付そのものは送らない。
それは自分のものだ。
報告文は短くした。
『エレナ様覚書に関する本人状態。
開封なし。読了なし。返答なし。
本日、本人の意思により、開封候補日を複数作成。
候補日であり、決定日ではない。
候補日には睡眠、体調、文書量、待機者可否、天候、本人の“まだ”等の条件を付す。
候補取消可。取消は失敗ではなく条件運用。
個別日付非共有。回答不要』
王妃宮にその報告が届いたのは、午後だった。
リリアナは最初の一行を読んだだけで、心臓が跳ねた。
開封候補日。
姉が、候補日を書いた。
ついに。
そう思いかけて、彼女はすぐ紙から目を離した。
危ない。
今、自分は「ついに」と思った。
候補日を、開封日のように受け取りかけた。
「マルタ様」
「はい」
「私は今、危険な顔をしていましたか」
「していました」
「やはり」
「かなり」
「かなり」
リリアナは額に手を当てた。
「お姉様が候補日を書いたと知って、待ち始めそうになりました」
「はい」
「いつかしら、と」
「はい」
「第一候補はいつかしら、第二候補はあるのかしら、と」
「はい」
「それ自体が圧ですね」
「その通りです」
リリアナは、報告文をもう一度読んだ。
候補日であり、決定日ではない。
個別日付非共有。
その二つがなければ、自分はきっと心の中で日付を数え始めた。
姉の知らないところで。
そして、候補日が過ぎたら、落胆したかもしれない。
それは、姉の失敗ではなく、自分の期待なのに。
「候補を待つことも、圧になる」
リリアナは呟いた。
マルタが頷く。
「よい言葉です。書きましょう」
エルンがすでに筆を持っている。
「表題は?」
リリアナは少し考えた。
「候補日と決定日の区別」
マルタが頷く。
「分かりやすいです」
王妃宮補足は、すぐに書かれた。
『候補日と決定日の区別――暫定版一』
一、候補日は、実施を検討する日であり、実施決定日ではない。
二、候補日には、睡眠、体調、文書量、支援者配置、天候、本人意思等の条件を付してよい。
三、候補日取消は、失敗ではなく条件運用である。
四、候補日が複数ある場合、先の候補が消えても次へ自動移行しない。
五、外部者は候補日を聞き出さない。
六、候補日を知った外部者は、その日を待つことで本人へ圧をかけない。
七、候補を待つことも、圧になる場合がある。
エルンが七番を書きながら、顔を上げた。
「候補を待つことも、圧」
「はい」
リリアナは、自分の記録帳を開いた。
『姉、開封候補日を複数作成。個別日付非共有。
私は、ついに、と思った。
第一候補日はいつか、待ちたいと思った。
危険。
候補日を待つことも、姉への圧になる。
姉が候補を消しても、私は落胆しない。
落胆するなら、それは私の期待であり、姉の失敗ではない』
書き終えて、リリアナは少し唇を噛んだ。
「難しいです」
マルタが言う。
「何が」
「待たないで待つことです」
「はい。難しいです」
「お姉様がいつか読むかもしれないと知りながら、その“いつか”を数えない」
「はい」
「心が勝手に数えます」
「数えたら、記録へ」
「また記録」
「数えるな、と命じても心は止まりません。数えたことを、姉君へ向けないようにするのです」
リリアナは、深く息を吐いた。
「私は今日、候補日を聞かない支えをします」
「よいです」
「そして、勝手に日付を想像したら記録します」
「さらによいです」
エルンが小さく言った。
「私も、少し想像しました」
リリアナは目を丸くした。
「エルンも?」
「はい。第一候補は近いのか遠いのか、少し気になりました」
「では、一緒に記録しましょう」
「はい」
王太子府にも、王妃宮補足は届いた。
アデルは「候補日と決定日の区別」という表題を読み、苦い顔をした。
「これは、王太子府に必要すぎるな」
エドが頷く。
「はい」
「会議候補日、面談候補日、返答候補日。全部、決定扱いしてきた」
「はい」
ラウルが少しだけ肩を落とした。
「王太子府では、候補日を押さえるとほぼ決定として扱われます」
「そこを変える」
「調整が難しくなります」
「人を日付に従わせすぎていた結果だ」
「はい」
アデルは、補足を読み進めた。
候補日取消は、失敗ではなく条件運用。
先の候補が消えても、次へ自動移行しない。
外部者は候補日を聞き出さない。
「報告書本文の送付候補日も、こちらで勝手に決めるな」
アデルが言った。
エドが筆を取る。
「はい」
「セレスティアが本文を受け取る候補日を作ったとしても、王太子府は知らない。知ろうとしない」
「はい」
「こちらの再発防止策は、彼女の候補日とは無関係に進める」
「はい」
「候補日を待たない」
「はい」
ラウルが言う。
「殿下、それは難しいです」
「知っている」
「気になります」
「私もだ」
アデルは正直に答えた。
「だが、気になることと、知る権利があることは別だ」
「はい」
「私が知りたいのは、安心したいからだ」
「はい」
「それは、彼女の候補日を聞く理由にならない」
「はい」
エドが記録する。
『王太子府確認:相手の候補日を知りたい欲求は、安心したい欲求である場合がある。知る権利とは別』
アデルは、しばらくその記録を見た。
「王太子とは、知らされることに慣れすぎるな」
エドの筆が止まる。
「記録しますか」
「……しろ」
ラウルが少しだけ笑いそうになったが、すぐ顔を引き締めた。
公爵邸では、グレゴールが王妃宮補足を読んでいた。
「候補日か」
家令が頷く。
「はい」
「セレスティアは、候補日を書いたのだな」
「個別日付は非共有です」
「分かっている」
「聞き出さない方針です」
「分かっている」
「想像もしすぎない方がよろしいかと」
グレゴールは、家令を見た。
「お前は私の頭の中まで管理するのか」
「管理はできません。記録はできます」
「するな」
「想像されましたか」
グレゴールは、少し黙った。
それから、負けたように言った。
「した」
「記録します」
「するのか」
「必要です」
家令は淡々と書いた。
『グレゴール公爵、セレスティア様の開封候補日を想像しかける。聞き出し不可。想像による期待を本人へ向けない方針』
グレゴールは額を押さえた。
「情けない」
「人間です」
「マルタ女官長のようなことを言う」
「実用的ですので」
「そうか」
グレゴールは補足をもう一度見た。
「候補日取消は、失敗ではなく条件運用」
「はい」
「もし、あの子が候補日を消したら」
「はい」
「私は落胆するかもしれない」
「はい」
「それは、私の期待だ」
「はい」
「娘の失敗ではない」
「はい」
「……それも記録しろ」
「承知しました」
家令は書いた。
『候補日取消時の落胆は、公爵側の期待であり、セレスティア様の失敗ではない』
グレゴールは、深く息を吐いた。
「私は、待つのが下手だ」
「はい」
「少しは否定しろ」
「待つ練習中でいらっしゃいます」
「ましな言い方だな」
「練習しました」
その夜、北方辺境伯家に各所の反応が届いた。
セレスティアは小卓でそれを読んだ。
王妃宮が「候補日と決定日の区別」を作ったこと。
リリアナが、候補日を待つことも圧になると記録したこと。
エルンも日付を想像して記録したこと。
アデルが、相手の候補日を知りたい欲求は安心したい欲求である場合がある、と記録したこと。
グレゴールが、開封候補日を想像しかけたことを記録したこと。
セレスティアは、読みながら少し笑ってしまった。
「皆、想像しています」
ノアが頷く。
「はい」
「隠してよかったです」
「心からそう思います」
「もし日付を共有していたら、大変でしたね」
「かなり」
「王都中が天気を気にし始めたかもしれません」
「晴れすぎて腹が立つ日は延期可、という条件も共有しなければなりません」
セレスティアは、思わず笑った。
「それは嫌です」
「では、非共有で」
「はい」
笑ったあと、少しだけ胸が軽くなった。
候補日を書いたのに、部屋が息苦しくなりすぎていない。
それは、日付が外へ出ていないからだ。
自分の紙の中だけにある。
ノアは知っているが、日付そのものを数えていない。
王妃宮も、公爵家も、王太子府も知らない。
知らないからこそ、セレスティアはその日付を自分のものにできる。
「閣下」
「はい」
「三つとも、未定と書きます」
「候補日の横に?」
「はい」
「よいと思います」
「変ですか」
「いいえ。候補であり、未定」
「はい」
セレスティアは、朝書いた紙を出した。
第一候補日。
第二候補日。
第三候補日。
その横に、それぞれ書く。
『未定』
『未定』
『未定』
三つの日付の横に、同じ言葉が並んだ。
未定。
それは、以前よりもずっと強い言葉に見えた。
曖昧さではない。
逃げでもない。
保留でもない。
自分の条件が生きている状態。
「未定は、何度書いてもよいですね」
セレスティアは言った。
「はい」
「第一候補日、未定。第二候補日、未定。第三候補日、未定」
「はい」
「候補なのに未定」
「候補だから未定」
ノアが返す。
セレスティアは、少し目を細めて笑った。
「閣下も王妃宮のようになってきました」
「それは光栄なのでしょうか」
「たぶん」
「では、受け取ります」
セレスティアは帳面を開いた。
『開封候補日を三つ書いた。
ひとつも決めなかった。
第一候補日、未定。
第二候補日、未定。
第三候補日、未定。
候補日を書くことは、開封日を決めることではない。
日付が私を動かすのではなく、私の条件に日付が合わせる。
候補を消しても、失敗ではない。
候補を待たれることも圧になる。
だから、個別日付は共有しない。
今日は、日付を置いた。
でも、日付に従うとは決めていない』
書き終えて、セレスティアは箱の横に新しい紙を置いた。
『候補日と決定日は別』
もう一枚。
『日付に従うのではなく、条件で選ぶ』
そして、最後に。
『三つとも、未定』
その紙を置いたとき、箱の周りの空気がまた少し変わった。
開封は、遠い夢ではなくなった。
だが、決定でもない。
近づいている。
でも、追われてはいない。
その距離が、今のセレスティアにはちょうどよかった。
灯りを落とす前に、彼女は箱へ静かに言った。
「エレナ」
まだ、その名を呼ぶと胸が震える。
けれど、昨日ほどではない。
「候補日を書きました」
箱は答えない。
「でも、ひとつも決めていません」
それでよかった。
未定のまま置かれた三つの日付が、今夜は小さな灯りのように見えた。




