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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第116話 蓋に指をかけて、戻した日

 その朝、セレスティアはいつもより早く目を覚ました。


 まだ部屋は薄暗い。


 窓の向こうの空は、夜と朝の境目で淡く沈んでいた。


 寝台の中で目を開けたまま、しばらく動かなかった。


 今日は何の日か。


 決めてはいない。


 開ける日ではない。


 読む日でもない。


 返答する日など、もちろん違う。


 それでも、身体の奥が知っていた。


 今日は、箱に近づく日だ。


 セレスティアは、ゆっくり起き上がった。


 朝の支度をし、軽い朝食をとり、温かい茶を飲む。


 パンは半分残した。


 無理に全部食べることもできたが、今日はそれをしなかった。


 残したことを、侍女は何も言わなかった。


 代わりに、小さく尋ねた。


「蜂蜜湯をご用意いたしましょうか」


 セレスティアは、少しだけ考えた。


 蜂蜜湯。


 母が熱の夜に飲ませてくれたもの。


 甘くて、少し苦い記憶。


「今日は、普通の白湯をお願いします」


「かしこまりました」


 侍女が下がる。


 セレスティアは、その背中を見ながら小さく息を吐いた。


 蜂蜜湯を断った。


 それも、今日の小さな選択だった。


 母の記憶を呼ぶ飲み物ではなく、自分の喉を通るだけの白湯。


 今はそれでいい。


 部屋の準備は、すでにできている。


 小卓。


 立ち上がれる椅子。


 水。


 白湯。


 呼び鈴。


 白い布。


 閉じるための濃い灰色の布。


 箱全体に掛けるための薄青の布。


 窓は、朝に短く開けた。


 紙が飛ばないよう、文鎮も置いた。


 扉までの道も空いている。


 ノアは、隣室で待機することになっている。


 扉は閉める。


 鍵はかけない。


 呼び鈴が鳴るまで入らない。


 泣き声だけでは入らない。


 危険音があれば別。


 呼吸の乱れが長く続けば、扉越しに声をかける。


 全部、決めてある。


 決めてあることが、今日のセレスティアを支えていた。


 ノアが部屋へ入ってきたのは、朝食後しばらくしてからだった。


 彼はいつものように、必要以上に箱を見ない。


 まずセレスティアを見る。


「体調は」


「悪くありません」


「眠れましたか」


「浅かったですが、眠りました」


「食事は」


「パンを半分。白湯をこれから」


「はい」


 彼は、机の上と小卓を確認した。


「準備は整っていますね」


「はい」


「今日は、どうしますか」


 セレスティアは、すぐには答えなかった。


 それを、ノアは待った。


 急がせない。


 先回りしない。


 言葉が出るまで待つ。


 セレスティアは、箱を見た。


 木箱は、机の上にある。


 閉じた蓋。


 丸く削られた角。


 昨日より近いわけでも、遠いわけでもない。


 だが、今日はそこへ手を伸ばす気がしている。


「蓋に」


 声が少しかすれた。


 セレスティアは白湯を一口飲んだ。


 もう一度言う。


「蓋に、指をかけてみます」


 ノアは、表情を変えなかった。


「はい」


「開けるとは決めていません」


「はい」


「指をかけるだけです」


「はい」


「手を離してもいい」


「もちろんです」


「蓋が少し動いても、戻していい」


「はい」


「開けかけて、やめてもいい」


「はい」


「今日は、蓋に指をかける日かもしれません」


「はい」


 その返事の一つ一つが、椅子の脚のようにセレスティアを支える。


 彼女は、小卓の上に新しい紙を置いた。


 まだ何も書かれていない白紙。


 その横にペンを置く。


 書くのはあとだ。


 今は、先に身体で確かめる。


「閣下」


「はい」


「隣室へ」


「承知しました」


「扉は閉めてください」


「はい」


「でも、少し声をかけたいときがあるかもしれません」


「扉越しに返事をします」


「ありがとうございます」


 ノアは呼び鈴の位置を確認した。


 水。


 白湯。


 閉じる布。


 薄青の布。


 扉。


 すべてを見る。


 最後にセレスティアへ視線を戻した。


「私は隣室にいます」


「はい」


「呼ばれるまで入りません」


「はい」


「開けても、開けなくても、どちらでも」


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「どちらでも」


「はい」


「本当に、どちらでも?」


「はい」


「では、今日は、どちらでもよい日です」


「はい」


 ノアは隣室へ移った。


 扉が閉じる。


 鍵はかかっていない。


 そのことを確かめるように、セレスティアは一度扉を見た。


 閉じている。


 でも、閉じ込められてはいない。


 彼女はゆっくり立ち上がった。


 小卓ではなく、机へ向かう。


 母の覚書の箱は机の上にある。


 周囲には、たくさんの紙。


『母は一枚ではない』


『読まなかった夜にも、意味はあった』


『支えることは、部屋の中に入ることだけではない』


『箱を開けても、閉じてよい』


『相手の後悔を、今は受け取らなくてよい』


『出口のない手続きに、自分を入れない』


 紙たちが、今日もそこにいる。


 それらを見ていると、少しだけ勇気が出た。


 セレスティアは、箱の前に立った。


 指先が冷たい。


 白湯を飲んだのに、指先だけが冷えている。


 手を伸ばす。


 途中で止まる。


 蓋に触れる前の空気が、妙に重い。


 あと少し。


 あと指一本分。


 それだけなのに、胸の奥で何かが固まる。


 十三歳の自分が、廊下の向こうに立っている気がした。


 寝室前の廊下。


 母の部屋の扉。


 来客の足音。


 侍女の困った顔。


 リリアナの泣き声。


 父の不在。


 王宮から届いた封書。


 あの子が、こちらを見ている。


 セレスティアは、手を止めたまま小さく息を吸った。


「大丈夫」


 誰に言ったのか分からない。


 自分か。


 十三歳の自分か。


 箱か。


 母か。


 それでも言った。


「蓋に指をかけるだけ」


 そして、指先が木に触れた。


 冷たい。


 昨日まで知っていたはずの冷たさとは違う。


 箱を抱いた夜にも触れた。


 机の上で移動させたときにも触れた。


 けれど、蓋に指をかけるための触れ方は、別だった。


 蓋の端。


 開くための位置。


 そこに触れている。


 セレスティアの喉がひゅっと狭くなった。


 呼吸が浅くなる。


 けれど、まだ大丈夫。


 水。


 呼び鈴。


 扉。


 隣室。


 閉じる布。


 薄青の布。


 出口がある。


 指に少し力を入れる。


 蓋が、ほんのわずかに動いた。


 かすかな木の音。


 その音を聞いた瞬間、胸の奥で何かが叫んだ。


 まだ。


 声ではない。


 でも、はっきりした感覚だった。


 まだ。


 十三歳の自分が言ったのかもしれない。


 今の自分が言ったのかもしれない。


 母の言葉を読む前に、もっと別の何かが必要だと、身体が言っているのかもしれない。


 セレスティアは、蓋から手を離した。


 すぐに離した。


 蓋は完全には開いていない。


 少し動いただけ。


 中は見えていない。


 紙も見えていない。


 母の文字も、まだ沈黙している。


 セレスティアは両手を胸元へ引き寄せた。


 指が震えていた。


 失敗。


 一瞬、その言葉が浮かんだ。


 ここまで整えたのに。


 椅子も。


 窓も。


 水も。


 呼び鈴も。


 閉じる手順も。


 支えの距離も。


 全部準備したのに、蓋に指をかけて、戻した。


 開けられなかった。


 読めなかった。


 失敗。


 その言葉が、ひどく馴染みのある声で囁いた。


 役目を果たせなかったときの声。


 期待に応えられなかったときの声。


 王妃教育で一つでも遅れたら聞こえた声。


 公爵令嬢として完璧でなければならなかった頃の声。


 セレスティアは、その声を聞きながら、机に手をついた。


 白湯を飲みたい。


 でも、少し遠い。


 呼び鈴を鳴らすほどではない。


 息を吸う。


 吐く。


 もう一度。


 扉の向こうから、ノアの声はしない。


 彼は入ってこない。


 約束通り。


 泣いてはいない。


 倒れてもいない。


 ただ、立っている。


 彼は待っている。


 入らないことで支えている。


 それが、今はとてもありがたかった。


 セレスティアは、ゆっくり小卓へ戻った。


 椅子に座る。


 白湯を飲む。


 手が少し震えたが、器は落とさなかった。


 喉を通る温かさで、少し現実が戻ってくる。


 彼女は白紙を引き寄せた。


 ペンを持つ。


 すぐには書けない。


 まず、表題。


『本日の状態』


 その下に、少しずつ書いた。


『蓋接触あり。

 蓋端に指をかけた。

 蓋がごくわずかに動いた。

 開封なし。

 内容視認なし。

 読了なし。

 返答なし。

 本人判断により中止。

 呼び鈴なし。

 待機者入室なし。

 白湯摂取。

 震えあり。

 失敗ではなく、境界確認』


 最後の一文を書くとき、手が止まった。


 失敗ではなく、境界確認。


 本当にそう思えるか。


 まだ分からない。


 でも、そう書く必要がある。


 書かなければ、失敗の声が勝つ。


 セレスティアは、もう一度、最後の一文をなぞるように見た。


『失敗ではなく、境界確認』


 胸の奥が少し痛んだ。


 でも、息ができた。


 扉の向こうから、静かな声がした。


「時間を確認します。二十分です」


 ノアだ。


 入ってこない。


 ただ、時間を知らせる。


 セレスティアは、少しだけ笑いそうになった。


 なんて彼らしい。


「はい」


 返事をする。


「入りますか」


 いつもの問い。


 入っていいですか、ではなく。


 入りますか。


 セレスティアは、紙を見た。


 今は、一人でいなくてもいい。


「入ってください」


 扉が開いた。


 ノアはゆっくり入ってきた。


 箱を見る前に、セレスティアを見る。


 それから、小卓の紙を見るかどうかを尋ねた。


「記録を見ても?」


「はい」


 ノアは紙を読み、静かに頷いた。


「蓋に指をかけたのですね」


「はい」


「開けなかった」


「はい」


「中止した」


「はい」


「失敗ではなく、境界確認」


「……そう書きました」


「よい記録です」


 セレスティアは、唇を引き結んだ。


 よい記録。


 その言葉で、涙が出そうになった。


 だが、今日は泣かなかった。


 泣きたいのではなく、確認したかった。


「本当に、失敗ではありませんか」


「失敗ではありません」


「開けられませんでした」


「蓋に指をかけられました」


「でも、戻しました」


「戻せました」


 セレスティアは、目を瞬いた。


「戻せました」


「はい」


「戻すことも、できたことですか」


「もちろんです」


「開けなかったのに?」


「中止手順を使えました。自分の“まだ”を聞けました。手を離せました。白湯を飲めました。記録できました。呼び鈴を鳴らさずに済んだことも、鳴らせなかったのではなく、鳴らす必要がなかったと判断できたなら、それも記録できます」


 セレスティアは、じっとノアを見た。


 彼の言葉は、慰めではなかった。


 事実を並べていた。


 その事実の並べ方が、セレスティアを救う。


「私は、開けられなかったことばかり見ていました」


「はい」


「でも、戻せた」


「はい」


「中止できた」


「はい」


「閉じる手順は使わなかったけれど、閉じる前の手順を使った」


「はい」


「蓋に指をかけて、戻した日」


「はい」


 セレスティアは、深く息を吐いた。


 さっきまで胸の奥で騒いでいた失敗の声が、少し小さくなった。


 完全には消えない。


 でも、別の言葉が横に並んだ。


 境界確認。


 戻せた。


 中止できた。


 今日は、蓋に指をかける日だった。


「王妃宮へ、報告しますか」


 ノアが尋ねた。


 セレスティアは少し迷った。


 蓋に指をかけたことを知らせる。


 それは大きい。


 知らせた瞬間、外側の人々が「いよいよ読まれる」と思うかもしれない。


 期待されるかもしれない。


 進展と呼ばれるかもしれない。


 でも、王妃宮に中止権を整理してもらうことは、他の誰かの助けになるかもしれない。


 それに、これは失敗ではないと外へも置きたい。


 セレスティアは、少し考えてから言った。


「内容は短く」


「はい」


「蓋接触あり、開封なし、中止は本人判断」


「はい」


「進展確認として扱わない」


「はい」


「次回予定未定」


「はい」


「回答不要」


「はい」


「そして……失敗ではなく、境界確認」


 ノアは頷いた。


「そのまま書きましょう」


 報告文は短かった。


『エレナ様覚書に関する本人状態。

 本日、本人の意思により箱蓋へ接触。

 蓋端に指をかけたが、本人判断により中止。

 開封なし。内容視認なし。読了なし。返答なし。

 本人所感:失敗ではなく、境界確認。

 次回予定未定。進展確認として扱わないこと。回答不要』


 王妃宮へ送られたその報告は、すぐに小会議室で読まれた。


 リリアナは、最初の一行で手を止めた。


「蓋へ……」


 声が震えた。


 マルタが横から静かに言う。


「最後まで読みなさい」


「はい」


 リリアナは、報告を読む。


 蓋端に指をかけた。


 本人判断により中止。


 開封なし。


 内容視認なし。


 読了なし。


 返答なし。


 失敗ではなく、境界確認。


 次回予定未定。


 進展確認として扱わないこと。


 読み終えると、リリアナは長く息を吐いた。


「お姉様は、蓋に指をかけたのですね」


「はい」


「でも、開けなかった」


「はい」


「中止した」


「はい」


「……よかった、と言いたくなりました」


 マルタは、何も責めなかった。


「はい」


「進んだ、と言いたくなりました」


「はい」


「次は開けられるかもしれない、と」


「はい」


「でも、それは進展確認ですね」


「はい」


 リリアナは、報告書を胸に抱きそうになり、やめた。


 抱くものではない。


 姉の境界確認だ。


 自分の感動の材料にしてはいけない。


「失敗ではなく、境界確認」


 エルンが小さく呟いた。


「これは、必要です」


「はい」


 マルタが頷く。


「すぐ作ります」


 リリアナは白紙を出した。


『蓋接触および開始前中止に関する整理――暫定版一』


 一、文書、箱、封筒、扉等に触れた後でも、本人は開封・入室・閲覧を中止できる。

 二、接触は開封決定ではない。

 三、蓋に指をかけること、封に触れること、扉前に立つことは、それぞれ独立した段階である。

 四、中止は失敗ではなく、本人の境界確認である。

 五、外部者は、接触済みを理由に次回開封予定を推測しない。

 六、本人の「まだ」を尊重する。


 六番を書いたとき、リリアナの手が少し震えた。


「本人の、まだ」


 彼女は言った。


「はい」


 マルタが頷く。


「私は昔、お姉様の“まだ”を待てなかったと思います」


「はい」


「泣いて、お願いして、今すぐ来てほしくて」


「はい」


「お姉様の“まだ”を聞かずに」


「はい」


 リリアナは、記録帳を開いた。


『姉、本日、箱蓋へ接触。開封なし。中止。

 私は、よかった、進んだ、次は、と思いかけた。

 それは姉の境界確認を、私の進展確認に変える危険がある。

 姉の“まだ”を尊重する。

 蓋に指をかけた姉を、次へ押さない。

 今日は、蓋に指をかけて戻した日。それ以上でも以下でもない』


 書きながら、リリアナは少し泣いた。


 けれど、その涙を姉へ送るつもりはなかった。


 エルンが吸い取り紙を置く。


「紙は守れます」


「ありがとうございます」


「境界も、少し守れるようになりたいです」


 リリアナは、涙の中で笑った。


「一緒に練習しましょう」


「はい」


 王太子府にも、王妃宮経由で基準だけが届いた。


 アデルは「蓋接触」という言葉を読み、しばらく黙った。


 具体的な個人情報は伏せられている。


 だが、何があったかは察せられた。


 彼は、その察しを口にしなかった。


「エド」


「はい」


「謝罪文にも適用する」


「接触は開封決定ではない、ですね」


「そうだ。封筒を手に取ったからといって、開けるとは限らない。封を切ったからといって、読むとは限らない。読み始めたからといって、最後まで読むとは限らない」


「はい」


「そして、途中で閉じても失敗ではない」


「はい」


 ラウルが静かに言った。


「殿下、こちらが送った報告書目次についても、ですね」


「もちろんだ」


「目次を読まれたから、本文も読まれるとは限らない」


「はい」


 アデルは、珍しくラウルの言葉をそのまま受けた。


「限らない。そこを勘違いしてはいけない」


 エドが記録する。


『王太子府確認:目次受領・視認・読了は、本文受領決定ではない。接触済みを進展圧に変えない』


 アデルは、報告書の写しを見た。


「彼女の“まだ”を、王太子府の予定表に組み込むな」


「はい」


「未定は未定のまま」


「はい」


 公爵邸でも、同じ補足は届いた。


 グレゴールは「本人の“まだ”を尊重する」という一文を読んで、深く目を閉じた。


「まだ、か」


 家令が静かに待つ。


「私は、セレスティアの“まだ”をあまり聞かなかった」


「はい」


「まだ休みたい。まだ分からない。まだできない。まだ読みたくない。まだ一人でいたい」


「はい」


「言わせなかったのか、言えないようにしたのか」


「どちらも、可能性があります」


「そうだな」


 グレゴールは、未送付綴じの表紙を撫でた。


「私は、娘が蓋に触れたと聞けば、次は開けると思ってしまう」


「はい」


「思ってしまった」


「はい」


「記録しろ」


 家令は書いた。


『グレゴール公爵、箱蓋接触を次回開封への進展と解釈しかける。本人の“まだ”を尊重する方針を再確認』


 グレゴールは、苦笑した。


「すぐ進ませようとするな、私は」


「長くそういう役割で生きてこられましたので」


「家を進める。婚姻を進める。交渉を進める。療養も、教育も、王宮対応も」


「はい」


「だが、人の心は、進めるものではない」


「はい」


「待つものか」


「時に」


「また難しい答えだ」


「簡単な答えの方が危ない場合がございます」


 グレゴールは、少しだけ笑った。


「王妃宮に染まったな」


「公爵家も必要に迫られております」


「そうだな」


 夜、各所の反応が北方辺境伯家へ届いた。


 セレスティアは、小卓の前でそれを読んだ。


 王妃宮が「本人のまだ」を基準にしたこと。


 リリアナが、蓋接触を進展確認にしないと記録したこと。


 アデルが、目次受領を本文受領決定にしないと確認したこと。


 父が、箱蓋接触を次回開封への進展と解釈しかけたことを記録したこと。


 セレスティアは、読み終えて少しだけ笑った。


「皆、進展だと思いかけたのですね」


 ノアが頷く。


「そのようです」


「私も、思いかけました。開けられなかったから失敗だと」


「はい」


「外は、次へ進むと思いかける。私は、失敗だと思いかける。どちらも、今日のことを今日のまま置いていませんね」


「その通りです」


「今日は、蓋に指をかけて戻した日」


「はい」


「それだけ」


「はい」


「それだけで、十分」


 言いながら、セレスティアの声が少し震えた。


 それだけで十分。


 その言葉を、自分へ信じさせるには、まだ時間がかかる。


 でも、今日はその言葉を置いておきたい。


 彼女は帳面を開いた。


『今日は、箱の蓋に指をかけた。

 蓋が少し動いた。

 でも、まだ、と感じた。

 手を離した。

 開けなかった。

 失敗ではなく、境界確認。

 王妃宮は、本人の“まだ”を尊重すると書いた。

 リリアナは、次へ押さないと書いた。

 アデル殿下は、目次を読んだから本文を読むとは限らないと書いた。

 父は、進展と解釈しかけたことを記録した。

 私は、今日を失敗にも進展にも変えすぎない。

 今日は、蓋に指をかけて戻した日』


 書き終えると、セレスティアは箱の横に新しい紙を置いた。


『蓋に指をかけても、開けなくてよい』


 もう一枚。


『本人の“まだ”を尊重する』


 そして、三枚目。


『今日は、蓋に指をかけて戻した日』


 その三枚を置くと、箱は少しだけ違って見えた。


 まだ閉じている。


 けれど、もう完全に触れられないものではない。


 蓋に指をかけた。


 戻した。


 その両方が、箱の前に残っている。


 夜、灯りを落とす前に、セレスティアは箱へ静かに言った。


「お母様」


 声は小さかったが、逃げてはいなかった。


「今日は、蓋に指をかけました。でも、開けませんでした」


 箱は答えない。


「まだ、でした」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥の十三歳の自分が、少しだけ頷いた気がした。


 セレスティアは、薄青の布を使わなかった。


 箱は閉じたままだったから。


 けれど、その布は椅子の横にあった。


 閉じる場所も、戻る場所も、まだそこにある。


 それを確かめてから、彼女は灯りを落とした。

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