第110話 同席者を選ぶ前に、ひとりで座ってみる
同席者を選ぶ。
その言葉は、思ったより重かった。
母の覚書を読むかもしれない。
そのとき、誰がそばにいるのか。
ノアか。
誰もいないのか。
隣室に誰かが待つのか。
扉の外に人を置くのか。
呼び鈴だけで足りるのか。
考え始めると、部屋の空気がまた少し重くなった。
セレスティアは、昨日整えた小卓を見た。
椅子は替えた。
水もある。
呼び鈴もある。
羽織るものもある。
扉までの道も空いている。
窓も開けられる。
読む場所は、少しずつ整ってきた。
けれど、そこに誰がいるのかは、まだ決めていない。
母の覚書を読むとき、誰かの視線があることを想像すると、胸が詰まる。
たとえそれがノアでも。
ノアを信頼していないわけではない。
むしろ、誰よりも信頼している。
だが、信頼と、見られたいかどうかは別だった。
セレスティアは小卓の前に立ち、椅子に手を置いた。
「閣下」
部屋の隅で書類を確認していたノアが顔を上げる。
「はい」
「今日は、ひとりで座ってみたいです」
ノアは、驚かなかった。
ただ、書類を静かに閉じた。
「この部屋に、ですか」
「はい」
「箱の前に」
「はい」
「開ける予定は?」
「ありません」
「読む予定は?」
「ありません」
「では、ひとりで座る練習ですね」
練習。
その言葉に、セレスティアは少しだけ笑った。
「最近、練習ばかりです」
「必要なことほど、いきなり本番にしない方がよいかと」
「それもそうですね」
彼女は椅子を見た。
昨日選んだ、立ち上がれる椅子。
座れる椅子。
逃げられる椅子。
そこへ、自分ひとりで座る。
ただそれだけ。
それなのに、妙に怖い。
「ひとりで座るだけです」
セレスティアは、自分へ言い聞かせるように言った。
「はい」
「箱は開けません」
「はい」
「蓋にも触れません」
「はい」
「水を飲んでもいい」
「もちろんです」
「怖くなったら呼び鈴を鳴らす」
「はい」
「立って部屋を出てもいい」
「はい」
「泣いてもいい」
「はい」
「泣かなくてもいい」
「はい」
ノアは一つずつ頷く。
そのたび、条件が部屋に置かれていく。
セレスティアは、少し落ち着いた。
「閣下は、隣室にいてください」
「扉は?」
「今日は、閉めてみます」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
昨日までは、少し開けておいてほしかった。
今日は閉めてみる。
完全に一人になる。
でも、置き去りにされるわけではない。
自分で選ぶ。
「閉めるのですね」
ノアは確認した。
「はい。ただし、鍵はかけません」
「もちろんです」
「呼んだら来てください」
「すぐに」
「呼ばなければ」
「入りません」
「物音がしても?」
「危険な音でなければ入りません」
「危険な音とは」
「倒れる音、硝子が割れる音、明らかな苦痛の声などです」
「それ以外は?」
「待ちます」
セレスティアは、少しだけ笑った。
「細かいですね」
「取り決めは細かい方が安心できます」
「はい。本当に」
ノアは呼び鈴の位置を確認した。
水差し。
布。
羽織るもの。
扉までの道。
窓。
すべてを見てから、セレスティアに向き直った。
「では、私は隣室にいます」
「はい」
「時間は決めますか」
セレスティアは少し考えた。
「最初は、十分」
「分かりました」
「十分経ったら、扉の向こうから声をかけてください」
「はい」
「ただし、入らないでください」
「声だけですね」
「はい」
「返事がなければ?」
「もう一度呼んでください。それでも返事がなければ、入ってください」
「承知しました」
決めた。
細かく決めた。
それだけで、心臓の音が少し落ち着く。
ノアは静かに隣室へ移った。
扉が閉まる。
完全に閉まる音。
かちゃり、という小さな音ではなく、木が枠へ収まる低い音だった。
鍵はかかっていない。
でも、扉は閉じた。
セレスティアは、一人になった。
部屋が急に広くなる。
いや、広くなったのではない。
誰かの気配がなくなっただけだ。
ノアの視線は穏やかで、圧迫ではない。
それでも、誰かがいることと、いないことは違う。
静けさの質が変わる。
セレスティアは、ゆっくり椅子に座った。
背中を預ける。
足を床につける。
小卓の上には、白い布。
水。
呼び鈴。
覚書は置かれていない。
箱は机の上にある。
遠くも近くもない距離。
セレスティアは、箱を見た。
母の覚書。
開けない箱。
抱いて眠った箱。
まだ読んでいない箱。
部屋には自分だけ。
その事実が、じわじわと胸に沈んできた。
ひとり。
自分で選んだ、ひとり。
セレスティアは膝の上で手を組んだ。
すぐに、十三歳の自分が顔を出した。
ひとりだった。
あの頃も。
廊下で。
母の部屋の前で。
夜の書類の前で。
リリアナが泣き疲れて眠ったあとで。
父が不在の屋敷で。
王宮からの伝令を待つ応接室で。
たしかに、ひとりだった。
でも、今日のひとりとは違う。
あの頃のひとりは、選んだものではなかった。
周囲が自然にいなくなって、気づけばそこに置かれていた。
助けを呼ぶ発想もなかった。
呼んでも来ないと思っていた。
泣いても仕事は減らないと思っていた。
だから、ひとりで処理した。
ひとりで立った。
ひとりで書いた。
ひとりで黙った。
セレスティアは、呼び鈴を見た。
今は、呼べる。
鳴らせば、隣室からノアが来る。
扉に鍵はない。
出ようと思えば、立ち上がって出られる。
このひとりは、置き去りではない。
自分で選んで、戻れるひとり。
その違いに気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「違う」
セレスティアは、小さく言った。
誰も聞いていない。
それが、逆によかった。
「これは、違う」
あの頃の孤独と、今日の一人は違う。
一人でいることと、一人にされることは違う。
セレスティアは、水を一口飲んだ。
手は少し震えていた。
でも、器は落とさなかった。
箱を見ても、叫びたくはならない。
泣きそうではある。
けれど、泣くための時間も場所も、今はある。
それも違う。
泣いてはいけないひとりと、泣いてもいいひとり。
同じ「ひとり」でも、全然違う。
セレスティアは、小卓に置いてあった白紙を引き寄せた。
ペンを取る。
少し迷ってから書いた。
『一人でいることと、一人にされることは別』
書いた瞬間、息が止まりかけた。
また、別。
だが、これは今までのどの「別」よりも、身体に近い言葉だった。
『自分で選んだ一人には、出口がある。
置き去りにされた一人には、出口がなかった。
今日は、ひとりで座っている。
でも、隣室に人がいる。呼び鈴がある。扉に鍵はない。
だから、これは昔の一人ではない』
書き終えて、セレスティアはペンを置いた。
静かだった。
しかし、先ほどまでの静けさとは少し違う。
部屋に、自分の文字が増えたからかもしれない。
自分の声が、紙の上に置かれたからかもしれない。
ふと、扉の向こうからノアの声がした。
「十分です」
ちょうどだった。
セレスティアは、少し驚いた。
体感では、もっと長かった。
「はい」
返事をする。
「入りますか」
扉の向こうから問いかけられる。
入っていいですか、ではない。
入りますか。
セレスティアの意思を先に聞く言い方だった。
彼女は少し考えた。
「まだ、入らないでください」
「分かりました」
「あと、五分」
「はい」
延長した。
自分で。
ひとりの時間を、怖くて切り上げるのではなく、もう少し続けたいと思った。
それも驚きだった。
セレスティアは椅子の背にもたれ、窓を見た。
窓は閉じている。
けれど、昨日開けた記憶がある。
空気は重すぎない。
箱は机の上。
開かないまま。
自分は椅子の上。
立てるまま。
もう五分、座る。
それだけのことが、今はとても大きい。
追加の五分が終わるころ、セレスティアは自分で立ち上がった。
呼び鈴は鳴らさない。
扉へ歩く。
扉を開ける。
隣室にいたノアが顔を上げた。
「終わりました」
セレスティアは言った。
ノアは立ち上がらず、座ったまま頷いた。
「はい」
「大丈夫でした」
「はい」
「怖かったです」
「はい」
「でも、大丈夫でした」
「はい」
「昔のひとりとは違いました」
ノアは、そこで少しだけ目を細めた。
「そうでしたか」
「はい」
「書けましたか」
「書けました」
セレスティアは、白紙を差し出すか迷った。
だが、まだ見せないことにした。
「今日は、まだ私の紙にします」
「はい」
「でも、あとで少しだけ共有するかもしれません」
「承知しました」
「閣下」
「はい」
「私は、一人でいるのが苦手なのではなく、一人にされるのが怖かったのかもしれません」
ノアは、静かに頷いた。
「はい」
「ずっと、同じだと思っていました」
「違います」
「はい。違いました」
その言葉を口にしたとき、セレスティアの目に涙が滲んだ。
今度は、落ちる前に拭った。
泣いてもよかった。
でも、今は拭いたかった。
それも自分で決めた。
午後、北方辺境伯家から王妃宮へ状態報告が送られた。
『エレナ様覚書に関する本人状態。
開封なし。読了なし。返答なし。
本日、本人の意思により、箱のある部屋で単独着席を実施。
隣室待機者あり。扉閉鎖、施錠なし。呼び鈴あり。時間設定あり。本人による延長あり。
本人所感:一人でいることと、一人にされることは別。
個別詳細非共有。回答不要』
王妃宮でそれを読んだリリアナは、しばらく動かなかった。
一人でいることと、一人にされることは別。
その一文を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
姉は、一人にされていた。
何度も。
そして、その一人を「しっかりしている」「落ち着いている」「任せられる」と周囲が呼んでいた。
リリアナも、その中にいた。
姉が一人でいることに、安心していた。
姉は大丈夫。
姉は強い。
姉なら分かってくれる。
姉なら一人でも平気。
その言葉で、姉を一人にしていた。
「……私は」
リリアナの声が震えた。
マルタは黙っている。
エルンも、筆を止めて待っている。
「私は、お姉様を一人にしたことと、お姉様が一人を選ぶことを混同していました」
リリアナはゆっくり言った。
「はい」
マルタが静かに答える。
「お姉様が一人でいられることを、私は都合よく使っていました」
「はい」
「でも、今のお姉様は、ご自分で一人を選んでいる」
「はい」
「それを、寂しいとか、かわいそうとか、支えが必要とか、勝手に言ってはいけない」
「はい」
「一人を選んだ姉を、また一人にされている姉として扱ってはいけない」
「よい整理です」
リリアナは、涙をこらえた。
こらえる必要はないのかもしれない。
だが、今は書きたかった。
彼女は記録帳を開いた。
『姉、本日、単独着席。隣室待機者あり。
姉は一人を選んだ。
私は、姉を一人にした過去がある。
一人でいることと、一人にされることは別。
姉が一人を選ぶことを、私が寂しがって止めてはいけない。
私の不安で、姉の選んだ一人を奪わない』
書いている途中で、涙が落ちた。
今回は紙の端に落ちた。
リリアナは少し慌てたが、マルタが布を差し出すだけで何も言わない。
リリアナは、滲んだ部分を避けて続きを書いた。
『姉が一人でいると、私は置いていかれた気がする。
でも、それは私の問題。
姉の一人は、姉のもの』
書き終えて、リリアナは深く息を吐いた。
「マルタ様」
「はい」
「私は、お姉様が一人を選ぶと、少し寂しいです」
「はい」
「でも、その寂しさを理由に、お姉様の部屋へ入ってはいけない」
「はい」
「寂しさは、どこへ置けばいいのでしょう」
「まず、記録へ」
「また記録」
「それから、あなた自身の支えへ」
「私の支え」
「はい。姉君ではなく」
リリアナは少し驚いた顔をした。
自分の支え。
姉ではなく。
その発想が、まだ自然に出てこない。
「私は、誰に支えてもらえばいいのでしょう」
「私でも、エルンでも、王妃宮の規則でも、未送付綴じでも」
エルンが少し小さな声で言った。
「私も含まれますか」
「含まれます」
「重いものは少し苦手ですが、紙なら持てます」
リリアナは、泣きながら少し笑った。
「では、紙をお願いします」
「承知しました」
王妃宮では、その日のうちに補足が作られた。
『単独時間と置き去りの区分――暫定版一』
一、本人が自ら選び、退出手段・呼出手段・待機者の有無を確認した単独時間は、置き去りとは異なる。
二、外部者は、本人の単独時間を孤独、拒絶、悪化と断定しない。
三、支援者は、扉の内側に入ることだけが支援ではないと理解する。
四、本人が一人を選んだ場合、周囲の寂しさや不安を理由に中断させない。
五、一人でいる権利と、一人にされない権利は、両方守られる。
五番を書いたとき、エルンが手を止めた。
「これは、かなり大切ですね」
リリアナは頷いた。
「はい」
「一人でいる権利と、一人にされない権利」
マルタが言う。
「どちらか片方だけでは、人は守れません」
リリアナは、その言葉を心に刻んだ。
王太子府でも、この補足は重く受け止められた。
アデルは、文面を読み終えたあと、長く黙った。
「私は、彼女を一人にした」
エドが筆を構える。
「はい」
「王太子府の実務の中で、彼女一人に判断を預けた。確認もせず、責任も置かず、ただ“任せられる”と」
「はい」
「それを、信頼と呼んでいた」
「はい」
「だが、本人が選んだ一人ではなかった」
「はい」
アデルは、苦い顔で続けた。
「今後、王太子府で誰かに単独作業を任せる場合、本人の選択か、置き去りかを確認する」
ラウルがすぐに顔を上げた。
「全業務ですか」
「少なくとも、長時間作業、重要判断、非公式処理には必要だ」
「また基準が増えます」
「増やせ」
アデルは即答した。
「“一人でできる”と“一人にしてよい”は別だ」
エドが記録する。
ラウルは、ため息をつきながらも反論しなかった。
「殿下」
「何だ」
「その一文も、壁に貼られそうです」
「だから貼るな」
「王妃宮へ送ったら貼られます」
「送るな」
「共有基準には入れます」
「……それは必要だ」
レイノルド公爵邸では、グレゴールが報告を読んで静かに目を閉じた。
一人でいることと、一人にされることは別。
それは、父である彼にとって逃げ場のない言葉だった。
「私は、セレスティアを一人にした」
家令は黙っていた。
「妻の病。王宮との調整。公爵家の体面。リリアナの不安。全部、セレスティアが一人で抱えた」
「はい」
「私は、それを“しっかりしている”と見た」
「はい」
「一人にしているとは見なかった」
「はい」
「書け」
家令は、静かに書いた。
『グレゴール公爵発言:セレスティア様を一人にしていた。しっかりしていると見て、置き去りの可能性を見なかった』
グレゴールは、しばらく黙った。
それから、ぽつりと言った。
「今、あの子が一人を選んでいることは、喜ぶべきなのか」
家令は少し考えた。
「喜ぶ、というより、尊重すべきかと」
「尊重」
「はい。旦那様の過去の置き去りを埋めるために、今のセレスティア様の単独時間へ踏み込むべきではありません」
「私は、また埋め合わせをしたくなる」
「はい」
「そばにいなかった分、今そばにいたいと」
「はい」
「だが、それは私の都合だ」
「その可能性が高いです」
グレゴールは苦笑した。
「可能性どころではないな」
「では、断定しますか」
「するな。痛い」
「承知しました」
それでも家令は、記録に小さく追記した。
『過去の不在を埋めるために、現在の本人選択へ介入しない』
グレゴールはそれを見て、何も言わなかった。
夜、各所の反応がセレスティアへ届いた。
彼女は新しい椅子に座り、小卓で報告を読んだ。
王妃宮の補足。
リリアナの記録。
アデルの「一人でできると、一人にしてよいは別」。
父の「しっかりしていると見て、置き去りの可能性を見なかった」。
どの一文も重かった。
だが、今日は押し潰されなかった。
なぜなら、この椅子からは立てるから。
読みながら苦しくなったら、水を飲める。
呼び鈴もある。
窓もある。
扉もある。
ひとりで座ることも、誰かを呼ぶことも、自分で選べる。
「閣下」
ノアは少し離れた場所にいる。
今日は同じ部屋にいるが、机ではなく窓際の椅子に座っていた。
「はい」
「一人でできると、一人にしてよいは別、だそうです」
「王太子殿下ですか」
「はい」
「よい言葉ですね」
「少し悔しいですが、よい言葉です」
ノアが少しだけ笑った。
「使いますか」
「使います」
セレスティアは帳面を開いた。
『今日は、箱のある部屋で一人で座った。
扉は閉じた。鍵はかけなかった。
呼び鈴あり。隣室待機あり。時間設定あり。途中で延長した。
一人でいることと、一人にされることは別。
昔の私は、一人にされていた。
今日の私は、一人でいることを選んだ。
リリアナは、姉の選んだ一人を奪わないと書いた。
アデル殿下は、一人でできると、一人にしてよいは別と書いた。
父は、しっかりしていると見て、置き去りの可能性を見なかったと書いた。
私は一人でいたい日もある。
でも、一人にされたくはない。
両方守られていい』
書き終えると、セレスティアは静かに息を吐いた。
箱は開いていない。
でも、今日は一人でその前に座れた。
それは大きかった。
読まなかった。
触れなかった。
蓋にも指をかけなかった。
けれど、昔の孤独と今日の一人を分けられた。
それだけで、十分な日だった。
彼女は、箱の横に新しい紙を置いた。
『一人でいることと、一人にされることは別』
もう一枚。
『一人でできることと、一人にしてよいことは別』
さらに、少し考えてから、もう一枚。
『一人でいる権利と、一人にされない権利を、両方守る』
紙を置き終えたあと、セレスティアは扉を見た。
閉めることも、開けることもできる扉。
その存在が、今日はとても大切に思えた。
「明日は、どうしますか」
ノアが尋ねる。
セレスティアは、少し考えた。
「まだ同席者は決めません」
「はい」
「でも、閣下に中へ入ってもらうか、外で待ってもらうか、その間を考えたいです」
「承知しました」
「支えは、部屋の中だけではないのですよね」
ノアは静かに頷いた。
「はい」
セレスティアは、箱を見た。
まだ読めない。
けれど、読めないまま、近づく道が増えている。
同席者を選ぶ前に、ひとりで座ってみた。
その一日は、何も起きなかった日ではない。
自分で選んだ一人が、昔の置き去りとは違うと知った日だった。




