第109話 読む場所を整えることは、読む決定ではない
窓を開けた翌日、セレスティアは机の前でしばらく立っていた。
箱は開いていない。
覚書も読んでいない。
返答もしていない。
けれど、部屋の空気は少し変わっていた。
昨日、窓を開けたからだ。
冷たい風を入れ、紙が飛ばないよう文鎮を置き、境界は飛ばさず、空気だけ入れ替えた。
それだけのことなのに、箱のある部屋が、以前より少しだけ自分の場所に戻ったような気がしていた。
だからこそ、次に気になった。
椅子である。
セレスティアは、机の前の椅子を見下ろした。
背もたれは美しい。
彫りも丁寧だ。
座面も柔らかい。
だが、長く座るには少し高かった。
背筋を伸ばして書類を処理するには向いている。
けれど、母の覚書を読むかもしれない席としては、硬すぎる。
いつでも逃げられるようで、逃げにくい。
きちんと座らなければならないような椅子。
セレスティアは、ふと苦笑した。
「王妃教育の椅子ですね」
誰に言うでもなく呟いた言葉だった。
扉の外に控えていた侍女が不思議そうにしたが、返事はしない。
セレスティアは椅子へ座ってみた。
背中が伸びる。
膝が揃う。
手は自然と机の上へ置かれる。
悪い姿勢ではない。
むしろ、褒められる座り方だ。
だが、その姿勢で母の言葉を読めるかと考えると、胸が詰まった。
これは、読む姿勢ではない。
裁かれる姿勢だ。
礼儀正しく、乱れず、泣くなら美しく泣き、読み終えたら感想をまとめて、必要なら返答を出す。
そんな自分が、椅子に座った瞬間に戻ってきそうだった。
セレスティアは立ち上がった。
「これは、違います」
その声に、ちょうど入ってきたノアが足を止めた。
「椅子ですか」
「はい」
「座りにくい?」
「座りやすいです。ですが、座り方を命じられる感じがします」
ノアは、机の前の椅子を見た。
そして頷いた。
「たしかに、執務向きですね」
「はい。報告書を書く椅子です。母の覚書を読む椅子ではありません」
「では、替えましょう」
即答だった。
セレスティアは目を瞬いた。
「そんなに簡単に?」
「椅子ですから」
「椅子ですけれど」
「読みやすくない椅子に座る必要はありません」
セレスティアは少し笑った。
「閣下は、時々とても単純に正しいことを言いますね」
「複雑に言う必要がない場合は」
「では、替えます」
「どのような椅子にしますか」
セレスティアは少し考えた。
「深く沈みすぎないもの」
「はい」
「でも、背中を預けられるもの」
「はい」
「立ち上がりやすいもの」
「はい」
「足元に、少し余裕があるもの」
「はい」
「できれば、窓が見える角度で」
「机の正面ではなく?」
「はい。箱だけを見続けると、苦しくなりそうです」
ノアは、すぐに部屋を見回した。
「では、机を少し動かしましょう」
「机も?」
「はい。箱を置く場所と、読む場所を同じにする必要はありません」
その一言で、セレスティアはまた少し驚いた。
箱を置く場所と、読む場所は同じでなくていい。
言われてみれば当たり前だ。
だが、これまで彼女は、箱は机の中央にあり、自分はその前に座るものだと思い込んでいた。
まるで、裁判の席に着くように。
「同じにしなくていいのですね」
「はい」
「箱は机に置いたまま、私は別の椅子で読む?」
「そうしてもいいですし、小さな卓を用意してもいいです」
「小さな卓……」
セレスティアは部屋の隅を見た。
読書用の小さな卓がある。
丸い天板。
燭台と茶器を置く程度の大きさ。
あれなら、覚書の紙を全部広げるには足りない。
だが、一枚ずつ読むなら十分だ。
「一枚ずつ、なら」
セレスティアは小さく言った。
ノアがそれを拾う。
「一度に全部広げない?」
「はい。もし読むとしても、一枚ずつがいいです」
「よいと思います」
「全部を見せられると、逃げ場がなくなります」
「では、小卓に一枚分の場所を作りましょう」
「読む決定ではありません」
セレスティアは、反射のように言った。
ノアは当然のように頷く。
「はい。読む場所を整えることは、読む決定ではありません」
その言葉を聞いて、セレスティアは少し息を吐いた。
「確認したかったのです」
「はい」
「椅子を替えることも、机を動かすことも、読む決定ではありません」
「はい」
「水を用意することも、呼び鈴を置くことも」
「読む決定ではありません」
「羽織るものを用意することも」
「はい」
「途中で出る道を決めることも」
「読む決定ではありません」
ノアの返事は、揺れなかった。
そのたびに、セレスティアの中で小さな縄が一本ずつほどける。
準備をしたら、やらなければいけない。
整えたら、進まなければいけない。
席に着いたら、読まなければいけない。
そんな古い思い込みが、まだ身体に残っている。
王妃教育で身につけたものか。
公爵家で身につけたものか。
セレスティア自身の癖なのか。
たぶん、全部だった。
部屋の模様替えは、思ったより大掛かりになった。
侍女たちが呼ばれた。
重い机は動かしすぎず、箱の置かれた位置はそのままにする。
ただし、机と椅子の向きを少し変えた。
箱は部屋の中央を支配しない。
窓からの光が直接当たりすぎないよう、薄い布を一枚掛ける。
小卓は窓の斜め前に置いた。
そこからなら、机の上の箱も見える。
窓も見える。
扉も見える。
呼び鈴へも手が届く。
背後を取られない位置。
出たいと思えば、立ってそのまま扉へ向かえる位置。
侍女が新しい椅子を運んできた。
深すぎず、硬すぎない。
肘掛けはあるが、立ち上がる邪魔にはならない。
セレスティアは試しに座った。
背中を預ける。
窓を見る。
箱を見る。
扉を見る。
水差しを見る。
呼び鈴を見る。
立ち上がってみる。
また座る。
ノアは、その動きを黙って見ていた。
「どうですか」
「座れます」
「座りやすいではなく?」
「座りやすい、より、座れます、が近いです」
「はい」
「ここなら、途中で立てそうです」
「それは大事です」
「ここなら、泣いても机に突っ伏さなくて済みそうです」
「はい」
「ここなら、箱だけを見なくて済みます」
「はい」
「ここなら……読めるかもしれません」
言ってから、セレスティアは自分で目を伏せた。
読めるかもしれない。
その言葉が、部屋に落ちた。
怖くなった。
ノアは何も喜ばなかった。
何も促さなかった。
ただ、静かに言う。
「かもしれない、ですね」
「はい」
「決定ではありません」
「はい」
「今日読む必要もありません」
「はい」
「読めるかもしれない部屋ができただけです」
セレスティアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
読めるかもしれない部屋。
それは、読まなければならない部屋ではない。
読めなかったら失敗する部屋でもない。
ただ、読めるかもしれない部屋。
セレスティアは、小卓の上に白い布を敷いた。
「これは、覚書用ですか」
ノアが尋ねる。
「いいえ」
「では?」
「紙を置く場所です。覚書かもしれませんし、私の記録かもしれません」
「はい」
「最初に置くのは、覚書ではありません」
セレスティアは帳面から一枚写した紙を取り出した。
『読む場所を整えることは、読む決定ではない』
その紙を、小卓の上に置く。
それから、隣に水を置く。
呼び鈴を置く。
柔らかな布を置く。
羽織るものを椅子の背にかける。
扉までの通路に物がないことを確認する。
窓の留め具が固すぎないかも確認した。
「窓も?」
ノアが少しだけ意外そうに言う。
「はい。途中で空気が重くなったら、開けられるように」
「よいと思います」
「ただし、寒くなりすぎる前に閉めます」
「重要です」
「閣下は、やはり冷えに厳しいですね」
「北方ですので」
セレスティアは笑った。
そして、自分の足で扉まで歩いてみた。
椅子から立つ。
小卓を避ける。
机の角に当たらない。
扉へ行く。
開ける。
廊下へ出る。
また戻る。
ただそれだけの動き。
けれど、これも大切だった。
「逃げられます」
セレスティアは戻ってきて言った。
ノアは頷く。
「はい」
「逃げる、という言葉は少し悪く聞こえますが」
「退出できます、でもよいかと」
「退出できます」
「はい」
「退出できる場所なら、入れるかもしれません」
ノアは、少しだけ表情を和らげた。
「出口のある部屋ですね」
「第百十五話くらいで出そうな言葉です」
セレスティアが真面目な顔で言ったので、ノアは一瞬だけ黙った。
「何の話ですか」
「いえ、何でもありません」
「そうですか」
セレスティアは少し笑った。
自分でも、時々妙なことを言う。
けれど、笑えるのは悪くない。
その日の午後、北方辺境伯家から王妃宮へ状態報告が送られた。
『エレナ様覚書に関する本人状態。
開封なし。読了なし。返答なし。
本日、本人の意思により、箱のある部屋の閲覧環境を一部整備。
椅子、小卓、灯り、水、呼び鈴、羽織るもの、退出経路、換気方法を確認。
本人所感:読む場所を整えることは、読む決定ではない。
回答不要』
王妃宮でその報告を読んだリリアナは、深く息を吐いた。
「お姉様が、部屋を整えた……」
エルンはすでに筆を持っている。
「閲覧環境整備基準を作れます」
「待ってください。早いです」
「ですが、必要です」
「分かっています。でも、まず読みます」
リリアナは報告をもう一度読んだ。
椅子。
小卓。
灯り。
水。
呼び鈴。
羽織るもの。
退出経路。
換気方法。
姉は、細かく整えている。
以前なら、自分のためにここまで環境を整えただろうか。
きっと違う。
与えられた机で読み、与えられた灯りで書き、必要なら眠らず処理したはずだ。
今の姉は、自分が座れる椅子を選んでいる。
逃げられる道を確認している。
水を置いている。
それが、リリアナにはとても大きな変化に見えた。
「お姉様が、ご自分のために椅子を選ばれたのですね」
小さな声だった。
マルタが頷く。
「はい」
「私、それだけで少し泣きそうです」
「泣いてもよろしいですが、文案は滲ませないように」
「厳しい」
「実務ですので」
リリアナは少し笑った。
そして、自分も白紙を出した。
『私的文書閲覧環境整備基準――暫定版一』
一、閲覧環境を整えることは、閲覧決定を意味しない。
二、椅子は本人が座れるものを選ぶ。礼儀正しさより、立ち上がれることを優先してよい。
三、机または小卓は、文書を一度に広げすぎない広さでもよい。
四、灯りは本人が調整できる位置に置く。
五、水、軽食、羽織るもの、布、呼び鈴を用意してよい。
六、途中で退出できる導線を確認する。
七、換気方法を確認する。境界は飛ばさず、空気だけ入れ替える。
八、環境を整えたことをもって、開封予定、読了予定、返答予定と扱わない。
エルンが書き終えてから、少し考えた。
「二番が好きです」
「椅子ですか」
「はい。礼儀正しさより、立ち上がれることを優先してよい」
リリアナは、その一文を見つめた。
「お姉様に必要な言葉ですね」
「多くの人にも必要かと」
マルタが頷く。
「王妃宮にも必要です」
「私たちにも?」
「はい。礼儀正しく倒れるより、立ち上がって退出できる方がよい場合があります」
リリアナは苦笑した。
「それも壁に貼りたいです」
「壁が足りません」
「紙棚を増やしましょう」
「予算申請を」
「現実に戻りますね」
「現実でなければ運用できません」
そんなやり取りをしながらも、王妃宮の補足は整っていった。
王太子府にも共有された。
アデルは、読み終えるなり言った。
「謝罪文を読む環境にも、これを使う」
エドはもう慣れた顔で筆を持つ。
「椅子、灯り、水、退出経路、呼び鈴」
「謝罪する側が、相手の読む環境を指定しないことも入れろ」
「はい」
「王太子府から文書を送る場合、受領者にその場で開封させない。返答待機者を同席させない。開封場所を指定しない」
「はい」
ラウルが少し困った顔をした。
「殿下、これでは公式文書の扱いまで変わります」
「変えるべきものは変える」
「謝罪文一つから、ずいぶん遠くへ来ましたね」
「遠くへ来たのではない。今まで近道しすぎていた」
エドの筆が止まる。
アデルは顔をしかめた。
「今のも記録か」
「はい」
「壁には貼るな」
「王妃宮ではないので」
「そういう問題ではない」
しかし、エドはしっかり記録した。
レイノルド公爵邸でも、閲覧環境整備基準は受け取られた。
グレゴールは、最初に二番を読んで長く止まった。
『椅子は本人が座れるものを選ぶ。礼儀正しさより、立ち上がれることを優先してよい』
彼は、昔のセレスティアを思い出した。
背筋を伸ばし、手を膝に揃え、どんなに疲れていても姿勢を崩さなかった娘。
褒められていた。
行儀がいい。
落ち着いている。
公爵令嬢らしい。
王太子妃候補にふさわしい。
だが、その椅子から立ち上がれるかどうかを、誰も聞かなかった。
「家令」
「はい」
「セレスティアの教育室の椅子は、まだ残っているか」
「確認します」
「いや、残っているなら処分するな」
「保管ですか」
「記録用に残す。あれがどういう椅子だったのか、確認したい」
「承知しました」
グレゴールは、手元の紙を見たまま続けた。
「私は、礼儀正しく座る娘を見て安心していた」
「はい」
「立ち上がれるかどうかは、見ていなかった」
「はい」
「書け」
家令は書いた。
『グレゴール公爵発言:礼儀正しく座るセレスティア様を見て安心していた。立ち上がれるかどうかを確認していなかった』
グレゴールは深く息を吐いた。
「椅子一つで、ここまで刺さるのか」
「椅子は長時間人を固定しますので」
「物理の話か」
「物理は侮れません」
グレゴールは、少しだけ笑った。
「そうだな。物理を侮った結果、精神論で娘を座らせ続けたのかもしれん」
「記録しますか」
「……書け」
その夜、各所の反応が北方辺境伯家へ届いた。
セレスティアは、少し緊張しながら読んだ。
王妃宮が基準を作ったこと。
リリアナが「姉が自分のために椅子を選んだ」と記録したこと。
王太子府が謝罪文の開封環境へ応用したこと。
公爵家が教育室の椅子を確認することにしたこと。
父が「礼儀正しく座る娘を見て安心していた。立ち上がれるかどうかを確認していなかった」と記録したこと。
セレスティアは、その一文を読み、しばらく黙った。
「椅子で、父が止まりました」
ノアが頷く。
「はい」
「私も、止まりました」
「はい」
「王妃教育の椅子。公爵家の椅子。候補者の椅子。どれも、立つことを考えていませんでした」
「はい」
「座るための椅子なのに、立つことを考えるのは変でしょうか」
「いいえ。座るなら、立つことも必要です」
「そうですね」
セレスティアは、新しい椅子に座った。
背中を預ける。
足元に余裕がある。
小卓には水。
呼び鈴。
白い布。
窓は斜め前。
扉までの道は空いている。
箱は机の上。
遠すぎず、近すぎない。
「この部屋は、少し読めるかもしれない部屋になりました」
セレスティアは言った。
「はい」
「でも、今日は読みません」
「はい」
「椅子に座っただけです」
「それも意味があります」
「はい」
セレスティアは帳面を開いた。
『読む場所を整えた。
椅子を替えた。小卓を置いた。水、呼び鈴、布、羽織るものを用意した。
扉までの道を確認した。窓も確認した。
読む場所を整えることは、読む決定ではない。
でも、読めるかもしれない部屋はできた。
礼儀正しく座ることより、立ち上がれることを優先していい。
私は今日、立ち上がれる椅子を選んだ』
書き終えたあと、セレスティアは少しだけ笑った。
「立ち上がれる椅子」
「よい言葉です」
「王妃宮に送らないでください」
「もう似たようなことを書いています」
「そうでした」
彼女は、箱の横に新しい紙を置いた。
『読む場所を整えることは、読む決定ではない』
もう一枚。
『立ち上がれる椅子を選ぶ』
その二枚を置くと、箱の周りの紙はさらに増えた。
けれど、今日は散らかって見えなかった。
部屋が整ったからかもしれない。
あるいは、セレスティア自身の中で、紙たちの置き場所が少し決まったからかもしれない。
灯りを落とす前、セレスティアは新しい椅子にもう一度座った。
箱を見る。
窓を見る。
扉を見る。
水を見る。
呼び鈴を見る。
そして、自分の足を見る。
立てる。
そう思えるだけで、座っていられる時間が少し長くなった。
「お母様」
セレスティアは、箱へ静かに言った。
「今日は、あなたを読む席を作りました。でも、読みません」
箱は答えない。
けれど、部屋は昨日より少し整っている。
そしてセレスティアは、昨日より少しだけ、自分の椅子に座れていた。




