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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第108話 次に開けるのは、箱ではなく窓だった

 翌朝、セレスティアは目を覚ましてすぐ、窓を見た。


 箱ではなかった。


 机の上の母の覚書ではなく、壁際の大きな窓。


 厚い硝子越しに、北方の空が薄く白んでいる。


 まだ朝の光は弱い。


 けれど、雲の切れ間から差し込む光は、昨日より少しだけ澄んで見えた。


 箱を開ける前に、窓を開ける。


 昨夜、そう決めた。


 たったそれだけのことなのに、朝になると少し緊張した。


 窓を開けるなど、普通のことだ。


 侍女なら毎朝のようにする。


 空気を入れ替え、部屋の匂いを整え、暖炉の具合を見て、花瓶の水を替える。


 何でもない日常の動作。


 けれど、セレスティアにとって今日の窓は、ただの窓ではなかった。


 箱のある部屋の窓。


 母の覚書が置かれている部屋の窓。


 何日も紙と記録と沈黙が積もった部屋に、外の空気を入れるための窓だった。


 寝台から起き上がり、支度を終え、朝食を済ませる。


 スープもパンも、今日はきちんと味がした。


 食後の茶まで飲み終えてから、セレスティアは机の前へ行った。


 箱はいつもの場所にある。


 昨日置いた紙が、朝の光を受けて少し白く見えた。


『読まなかった夜にも、意味はあった』


『知られたくない意味も、なかったことにしない』


 その隣に、昨夜書き足した紙。


『箱を開ける前に、窓を開ける』


 セレスティアは、それを見て小さく息を吐いた。


 扉が叩かれる。


「入ってください」


 ノアが入ってきた。


 いつもの落ち着いた表情。


 けれど、彼の目は一度だけ窓へ向いた。


「今日ですね」


「はい」


「寒いかもしれません」


「分かっています」


「外套を」


「そこまで必要でしょうか」


「北方の窓を侮ると、あとで後悔します」


 セレスティアは少し笑った。


「では、肩掛けを」


 ノアはすでに用意していたらしい。


 厚すぎない、柔らかな肩掛けを差し出した。


「準備がよすぎます」


「風邪をひかせるわけにはいきませんので」


「箱を開けるより、窓を開ける方が現実的な危険がありますね」


「はい。冷えます」


「王妃宮なら、窓開放時の体調管理基準を作ります」


「作りそうですね」


「一、肩掛けを用意する」


「二、開放時間は短く」


「三、箱の紙が飛ばないよう重しを置く」


 そこまで言って、セレスティアははっとした。


 紙。


 箱の周りの紙。


 窓を開ければ、風で飛ぶかもしれない。


 彼女は机の上を見た。


 たくさんの紙がある。


 自分の境界。


 自分の記録。


 自分を守るために置いた言葉。


 それらが風で散るのは、少し怖い。


 ノアが静かに言った。


「押さえますか」


「はい」


「全部を閉じ込めるためではなく、飛ばされないために」


「そうですね」


 セレスティアは、小さな文鎮をいくつか出した。


 箱の横の紙にそっと置く。


『母は一枚ではない』の上に、小さな青い石の文鎮。


『善意は盾ではない』の上に、銀の文鎮。


『読まなかった夜にも、意味はあった』の上には、木製の丸い文鎮。


 全部を押し潰すのではない。


 風に奪われないようにするだけ。


 その作業をしているうちに、少し気持ちが落ち着いた。


「準備が増えました」


 セレスティアが言うと、ノアは頷いた。


「窓を開ける準備です」


「読む準備ではありませんね」


「はい」


「窓を開けるために、紙を押さえる。これは読む決定ではない」


「もちろんです」


 セレスティアは笑った。


「最近、何をしても“読む決定ではない”と確認したくなります」


「必要な確認です」


「では確認します。窓を開けることは、箱を開ける決定ではありません」


「はい」


「部屋の空気を入れ替えることは、母の覚書を読む合図ではありません」


「はい」


「紙を押さえることは、母の言葉を押さえつけることではありません」


「はい」


「……少し、面倒ですね」


「面倒でも、必要です」


「そうですね」


 セレスティアは肩掛けを羽織り、窓の前に立った。


 窓枠に手をかける。


 古いが、よく手入れされた窓だ。


 北方の冬に備えた厚い造りで、開けるには少し力がいる。


 セレスティアが押すと、最初は動かなかった。


「固いです」


 ノアが近づきすぎない距離で立つ。


「手伝いますか」


「少しだけ」


 ノアは、反対側の窓枠に手を添えた。


「合図で」


「はい」


「一、二、三」


 二人で押すと、窓がゆっくり開いた。


 冷たい空気が、部屋へ入ってきた。


 思ったよりも強い風ではない。


 けれど、部屋に溜まっていた暖かく重い空気が、ふわりと動いた。


 紙は文鎮に押さえられ、少し端が揺れるだけだった。


 箱は動かない。


 ただ、箱の表面に朝の冷たい光が触れた。


 セレスティアは、窓辺に立ったまま息を吸った。


 冷たい。


 肺の奥が驚くほど冷たい。


 でも、気持ちよかった。


 ずっと同じ部屋で、同じ空気を吸っていた。


 母のこと。


 父のこと。


 リリアナのこと。


 王太子府のこと。


 王都の噂。


 自分の記録。


 たくさんの言葉が部屋の中に積もり、見えない埃のように空気へ混ざっていたのかもしれない。


 その中に、今、外の風が入ってきた。


「寒いです」


 セレスティアは言った。


「閉めますか」


「いいえ。もう少し」


「はい」


「寒いけれど、嫌ではありません」


「はい」


「昨日の箱もそうでした。重いけれど、全部嫌ではなかった」


「はい」


「最近、全部嫌ではないものが増えました」


「それは、扱いが難しいですね」


「はい。完全に嫌なら捨てられるのに」


「完全に良ければ抱きしめられる」


「その間は、置き場所に困ります」


「では、置き場所を作るしかありません」


 セレスティアは、窓の外を見ながら少し笑った。


「閣下は、すぐ場所を作ろうとしますね」


「北方では、雪が降る前に置き場所を作らないと困ります」


「また雪の話です」


「大体のことは雪で説明できます」


「本当に?」


「多少は」


 軽いやり取りをしながら、セレスティアは外を見た。


 庭の木々はまだ葉を多く残しているが、枝先には冬の気配がある。


 遠くには、低い丘と、薄く白い山の稜線。


 王都の庭とは違う。


 整えられすぎていない。


 風が強く、土の匂いがする。


 この場所で、自分は母の覚書を持っている。


 王宮でも、公爵家でも、王妃宮でもなく。


 北方辺境伯家の一室で。


 それは、やはり大きいことだった。


「ここでよかったです」


 セレスティアは言った。


「この部屋ですか」


「はい。王都の部屋では、この窓は開けられなかった気がします」


「なぜ?」


「開けた瞬間、誰かの声が入ってきそうで」


 ノアは静かに頷いた。


 王都の声。


 噂。


 期待。


 善意。


 催促。


 母を守る言葉。


 母を責める言葉。


 それらが風と一緒に入ってきそうな気がする。


 でも、ここで窓を開けても入ってくるのは冷たい空気と土の匂いだけだった。


「王都から離れていることにも、意味がありますね」


「はい」


「逃げていると言われるかもしれません」


「言う人はいるでしょう」


「でも、逃げる場所がなければ、人は考えることもできません」


「そう思います」


 セレスティアは、その言葉を気に入った。


 逃げる場所がなければ、考えることもできない。


 王都では、逃げることは弱さのように扱われる。


 だが、本当は逃げ場所こそが必要なのかもしれない。


 考えるために。


 戻るか戻らないかを自分で決めるために。


 窓を開けてしばらくすると、指先が冷えてきた。


 ノアが言う。


「そろそろ」


「はい」


 セレスティアは素直に頷いた。


 まだ開けていたい気もする。


 でも、冷えすぎる前に閉める。


 これも、最近覚えたことだ。


 限界まで続けない。


 気持ちよくても、少し手前でやめる。


 ノアと一緒に窓を閉める。


 重い窓が、静かに元の場所へ戻った。


 部屋の中は、先ほどより少し冷えていた。


 けれど、空気は軽い。


 セレスティアは振り返り、机の上の箱を見た。


 箱は開いていない。


 蓋も動いていない。


 中の紙も、まだ沈黙している。


 でも、部屋は変わった。


「箱は開いていません」


 セレスティアは言った。


「はい」


「でも、部屋の空気は変わりました」


「はい」


「それも、準備でしょうか」


「そうかもしれません」


「読む準備?」


 そう言ってから、セレスティアは少し警戒したように眉を寄せた。


 ノアはすぐに言った。


「読む決定ではない準備です」


「先に言われました」


「必要かと」


「はい。必要です」


 セレスティアは机に戻り、箱の横の紙を確認した。


 どれも飛んでいない。


 少しだけ端が浮いている紙があったので、指で整える。


『母は一枚ではない』


 その紙に触れたとき、彼女はふと思った。


 部屋も一枚ではない。


 閉じた部屋。


 窓を開けた部屋。


 箱のある部屋。


 空気を入れ替えた部屋。


 同じ部屋でも、少しずつ違う。


 人も、母も、記憶も、部屋も、一枚ではない。


「書きます」


 セレスティアは言った。


 帳面を開く。


『箱を開ける前に、窓を開けた。

 箱は開いていない。

 覚書も読んでいない。

 でも、部屋の空気が変わった。

 窓を開けるために、紙を押さえた。境界を飛ばされないように。

 冷たい空気が入った。寒かった。でも嫌ではなかった。

 王都の声ではなく、土の匂いが入ってきた。

 逃げる場所がなければ、人は考えることもできない。

 箱を開ける日ではなく、窓を開ける日を先に選んだ』


 書き終えると、セレスティアはその最後の一文を見た。


 箱を開ける日ではなく、窓を開ける日を先に選んだ。


 それは、とても小さなことのようで、彼女には大きかった。


 誰も待っていない日。


 王都が注目していない日。


 父が返答を求めていない日。


 リリアナが心配しながらも黙っている日。


 その日に、彼女は窓を開けた。


 母の覚書を読むためではなく。


 母の覚書を読まないためでもなく。


 自分の部屋に、自分で風を入れるために。


「共有しますか」


 ノアが尋ねた。


 セレスティアは少し考えた。


「窓を開けたこと、だけなら」


「はい」


「箱の話にしすぎないように」


「はい」


「王妃宮は、何でも基準にしますから」


「かなりの確率で」


「でも、もしかすると必要かもしれません」


「どのように?」


「私的文書を読む前に、文字ではなく環境を整えること。空気、明るさ、暖かさ、食事、同席者、退出できる道。そういうもの」


 ノアは頷いた。


「よいと思います」


「では、短く」


 セレスティアは別紙に書いた。


『私的文書に関する本人状態。

 本日、覚書開封なし。読了なし。返答なし。

 本人、箱のある部屋の窓を開け、短時間換気。

 本人所感:箱を開ける前に、部屋の空気を変えることにも意味がある可能性。

 読む決定ではない。

 回答不要』


 書き終えて、セレスティアは少し笑った。


「短くと言いながら、長くなりました」


「必要な分です」


「王妃宮が喜びそうです」


「喜ぶでしょうか」


「少なくともエルンは分類しそうです」


 その予想は当たった。


 王妃宮でその報告を読んだエルンは、目を輝かせた。


「環境整備段階です」


 リリアナが少し身構える。


「エルン、落ち着いてください」


「落ち着いています。これは必要です」


 マルタも、報告書を読みながら頷いた。


「確かに必要です」


「マルタ様まで」


 リリアナは苦笑したが、文面を読み進めるうちに表情を変えた。


『箱を開ける前に、部屋の空気を変えることにも意味がある可能性』


 姉らしい、と少し思った。


 そして、姉らしくない、とも思った。


 以前のセレスティアなら、環境を整える前に本文を読んだだろう。


 読むべきものがあるなら読む。


 返すべき答えがあるなら返す。


 自分の部屋の空気が重いかどうかなど、きっと気にしなかった。


 今の姉は、窓を開けた。


 そのことが、リリアナにはなぜかとても眩しかった。


「お姉様は、窓を開けたのですね」


 リリアナは小さく言った。


 マルタが頷く。


「はい」


「箱ではなく」


「はい」


「それを、先に選んだ」


「はい」


 リリアナは、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 姉が箱を開けなかったことに、以前なら焦ったかもしれない。


 でも今日は違う。


 窓を開けた。


 それが、確かに前進に見えた。


「私も、王妃宮の窓を開けた方がいいでしょうか」


 リリアナが言うと、エルンが真顔で答えた。


「物理的にですか」


「まず物理的に」


 マルタが時計を見る。


「十分だけなら」


「本当に開けるのですか」


「ええ。紙が飛ばないように押さえてから」


 そうして、王妃宮の小会議室でも窓が開けられた。


 冷たい風が入り、机の上の紙がざわりと鳴る。


 エルンが慌てて文鎮を置く。


 リリアナは、その様子を見て少し笑った。


「紙が飛びますね」


「境界が飛びます」


 エルンが言う。


「縁起でもない言い方をしないでください」


 マルタが淡々と訂正する。


「境界は飛ばさず、空気だけ入れ替えます」


 リリアナは、その言葉を気に入った。


「それ、王妃宮補足に入れましょう」


「入れるのですか」


「入れます」


 王妃宮補足は、すぐに作られた。


『私的文書閲覧前の環境整備――暫定版一』


 一、文書を読むかどうかの判断前に、部屋の環境を整えることは、読む決定を意味しない。

 二、換気、採光、暖房、椅子、退出経路、飲食、呼び鈴、同席者または待機者の位置を確認する。

 三、本人が環境を整えたことをもって、開封予定、読了予定、返答予定と扱わない。

 四、紙や記録が風で乱れないよう、物理的な準備も行う。

 五、境界は飛ばさず、空気だけ入れ替える。


 五番を読んだエルンが、少し首を傾げた。


「これ、少し変では」


 リリアナは真顔で答えた。


「覚えやすいです」


 マルタも頷いた。


「王都向けには有効です」


「王都向けなのですね」


「いずれ使われるでしょう」


 その補足は、内部基準として王太子府と公爵家へ共有された。


 王太子府では、アデルがそれを読み、しばらく黙ったあと、言った。


「謝罪文にも必要だ」


 エドはすでに筆を構えていた。


「環境整備ですか」


「謝罪文を読む場所だ。受領者が逃げられない場で読ませるな。人前で開けさせるな。返答を待つ者が同席する場で読ませるな」


「はい」


「謝罪する側は、文面だけでなく、相手が読む環境を侵さないことを考えるべきだ」


 ラウルが、やや疲れた顔で言った。


「殿下、謝罪文の送付条件がさらに増えています」


「増えていい」


 アデルは静かに答えた。


「簡単に送れる謝罪文ほど、相手の負担を見ていない」


 エドが、その一文を記録する。


 アデルは止めなかった。


 公爵家でも、グレゴールが王妃宮補足を読み、窓という言葉で少し遠い目をした。


「エレナの部屋は、あまり窓を開けなかった」


 家令が静かに顔を上げる。


「病状のためですか」


「冷えるから、と医師が言った。だが、空気が重い日もあった」


「はい」


「セレスティアは、あの部屋の前に立っていた」


「はい」


「部屋の中の重さも、外の重さも、受けていたのかもしれないな」


 家令は何も言わなかった。


 グレゴールは続けた。


「今、あの子は自分の部屋の窓を開けた」


「はい」


「それを、私は知らなかった」


「今、知りました」


「そうだな」


 グレゴールは、王妃宮補足の最後の一文を見た。


『境界は飛ばさず、空気だけ入れ替える』


 少しだけ笑った。


「王妃宮らしい」


「はい」


「公爵家でも使う。エレナ関連の資料室を開ける前に、換気しろ」


「物理的にですか」


「物理的にだ」


「承知しました」


「それから、資料を見る者は必ず椅子に座って読む。立ったまま、走りながら、次々処理するな」


「はい」


「……セレスティアに、そうさせていたのかもしれん」


 家令は静かに記録した。


『公爵家資料室方針:エレナ関連資料閲覧前に換気。着席。飲み物準備。途中停止可。立ったまま処理しない』


 その夜、北方辺境伯家に各所の反応が届いた。


 セレスティアは読みながら、何度か笑った。


 王妃宮が本当に窓を開けたこと。


 エルンが紙を押さえたこと。


 王妃宮補足に「境界は飛ばさず、空気だけ入れ替える」と書かれたこと。


 アデルが謝罪文を読む環境について整理し始めたこと。


 公爵家が資料室の換気と着席を方針に入れたこと。


「窓を開けただけなのに」


 セレスティアは、少し呆れたように言った。


 ノアは頷く。


「かなり広がりましたね」


「王妃宮が窓を開けたところまでは分かります。でも、王太子府の謝罪文と、公爵家の資料室まで行くとは」


「よい広がりでは」


「はい。少しおかしいですが」


「おかしいことと、役に立つことは別です」


「また別ですね」


 セレスティアは笑った。


 今日の笑いは、少し自然だった。


 彼女は帳面を開く。


『箱を開ける前に、窓を開けた。

 王妃宮も窓を開けたらしい。

 境界は飛ばさず、空気だけ入れ替える、という補足ができた。

 アデル殿下は謝罪文を読む環境について考え始めた。

 父はエレナ関連資料室を換気し、座って読むことにした。

 窓を開けただけなのに、少し広がった。

 でも、私が窓を開けたのは誰かのためではない。

 私の部屋の空気を変えるため。

 それでいい』


 書き終えて、セレスティアは窓を見た。


 もう閉じている。


 でも、空気は朝とは違う。


 箱も、朝とは少し違って見える。


 開けていない。


 読んでいない。


 返答もしていない。


 それでも、箱のある部屋に風が通った。


 その事実は、残った。


「閣下」


「はい」


「今日は、箱を開ける日ではありませんでした」


「はい」


「窓を開ける日でした」


「はい」


「明日は、何の日にしましょう」


 ノアは少し考えた。


「決めずに眠ってもよいのでは」


「そうですね」


 セレスティアは微笑んだ。


「未定も状態ですから」


「はい」


 箱の横に、最後の紙を置いた。


『箱を開ける前に、部屋に風を通す』


 そして、少し迷ってから、もう一枚。


『境界は飛ばさず、空気だけ入れ替える』


 この一文は、王妃宮から借りた。


 珍しく、セレスティアが王妃宮の言葉を自分の箱のそばへ置いた。


 リリアナが知ったら、喜ぶかもしれない。


 でも、それを伝える必要はない。


 伝えなくても、意味はある。


 知られない意味も、なかったことにはならない。


 夜、灯りを落とす前に、セレスティアは箱へ向かって言った。


「お母様」


 声は、静かだった。


「今日は、あなたの箱ではなく、窓を開けました」


 箱は答えない。


 けれど、部屋の空気は少し軽い。


 それだけで、今日は十分だった。

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