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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第105話 嫌いになっても、思い出は消えない

 母を嫌いになる練習をした翌朝、セレスティアは思ったより普通に目を覚ました。


 夢で母に責められることもなかった。


 熱を出すこともなかった。


 胸が苦しくて起き上がれない、ということもなかった。


 ただ、寝台の中で目を開けた瞬間、昨日書いた紙の文字が頭に浮かんだ。


『母を嫌いになる練習』


 強い言葉だ。


 朝の光の中で思い出しても、やはり強い。


 けれど、不思議なことに、昨日ほど怖くはなかった。


 怖くない代わりに、少しだけ寂しかった。


 母を嫌いになるかもしれない。


 そう認めたことで、母との記憶のどこかに小さなひびが入った気がした。


 でも、完全に割れたわけではない。


 むしろ、ひびの向こうから、今まで見ないようにしていた記憶が顔を出している。


 セレスティアは寝台の上でしばらく座っていた。


 侍女が朝の支度を手伝いに来る前の、短い静かな時間。


 窓の外では、北方の朝らしい冷たい風が木々を揺らしている。


 その音を聞いていたら、ふいに思い出した。


 母の手。


 細く、少し冷たい手。


 幼い日のセレスティアの髪を梳いてくれた手だ。


 銀の櫛が、髪の間をゆっくり通る。


 母は上手ではなかった。


 何度か髪を引っかけて、セレスティアが小さく顔をしかめると、母は慌てて謝った。


『ごめんなさいね。お母様、侍女のようには上手にできないわ』


『痛くありません』


『嘘。今、眉がきゅっとなりました』


『なっていません』


『なりました』


 そう言って、母が笑った。


 セレスティアも、少しむっとしたふりをしながら笑った。


 そんな記憶。


 とても小さい。


 国も家も王妃宮も関係ない。


 ただ、母と娘と、銀の櫛だけの記憶。


 セレスティアは胸に手を当てた。


 消えていない。


 昨日、母を嫌いになるかもしれないと言ったのに、この記憶は消えていない。


 そのことに、少し戸惑った。


 着替えを済ませ、朝食を終えたあと、彼女は机の前に座った。


 箱はいつもの場所にある。


 昨日の紙も、その横にある。


『母を嫌いになる練習』


 その隣に置いた紙。


『母を嫌いになっても、母との思い出を捨てなくていい』


 昨日は、そう書いた。


 けれど、書いただけではまだ実感が追いついていなかった。


 今日は、その紙の意味が少しだけ分かる気がする。


 ノアが部屋に入ってきた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 セレスティアは、珍しく先に言った。


「今日は、母の思い出が来ました」


 ノアは一瞬だけ目を細めた。


「来ました、ですか」


「はい。呼んだわけではないのに」


「どのような?」


「髪を梳いてもらった記憶です」


「はい」


「母は、あまり上手ではありませんでした」


「そうなのですか」


「はい。何度か引っかけました。でも、謝って、笑っていました」


 言葉にしているうちに、胸の奥が少し温かくなる。


 同時に、痛い。


 温かいのに痛い。


 面倒な記憶だ。


「その記憶は、嫌ですか」


 ノアが尋ねた。


 セレスティアは少し考えた。


「嫌ではありません」


「はい」


「でも、楽でもありません」


「はい」


「母を嫌いになるかもしれないと認めたのに、こういう優しい記憶が出てくると、私はまた母を守りたくなります」


「はい」


「こんな優しい日もあったのだから、嫌いになってはいけない、と」


 ノアは頷いた。


「優しい思い出を、義務にしない方がよいと思います」


「義務?」


「はい。優しい思い出があるから、嫌ってはいけない。許さなければならない。痛みを軽く見なければならない。そういう義務にしない」


 セレスティアは、その言葉をゆっくり受け取った。


 優しい思い出を、義務にしない。


 胸の中で、その言葉が小さく鳴った。


「では、優しい思い出は、ただ優しい思い出でよいのですか」


「はい」


「それだけで?」


「それだけで」


「でも、母を嫌いになるかもしれない私が、その思い出を持っていても?」


「持っていてよいと思います」


 セレスティアは、息を吐いた。


 少し震えた息だった。


「書きます」


 彼女は帳面を開いた。


『母が髪を梳いてくれた日を思い出した。

 銀の櫛。少し引っかかって、母が謝った。

 母は笑っていた。私もたぶん笑った。

 嫌な記憶ではない。

 でも、優しい思い出があるから母を嫌ってはいけない、とはしない。

 優しい思い出を、許しの義務にしない』


 書き終えると、セレスティアはペンを置いた。


「義務にしない」


 自分で小さく繰り返す。


 それだけで、髪を梳いてくれた母の記憶が少し軽くなった。


 母を守る証拠でもない。


 母を許す理由でもない。


 ただ、あの日は確かに優しかった。


 それだけでいい。


 その日の午前、セレスティアはもう一つの記憶を思い出した。


 きっかけは、侍女が持ってきた薄い蜂蜜入りの湯だった。


 香りが似ていた。


 幼い頃、熱を出した夜。


 母は、長い時間ではなかったが、寝台のそばにいてくれた。


 額に冷たい布を置き、蜂蜜入りの湯を少しずつ飲ませてくれた。


『苦い薬のあとには、少し甘いものが必要ですもの』


 母はそう言った。


 セレスティアは、熱でぼんやりしながら頷いた。


 母の手は冷たかった。


 でも、その冷たさが気持ちよかった。


 その夜のことを、セレスティアはずっと大切にしていた。


 母は自分を看病してくれた。


 母は自分を愛していた。


 そう思うための、宝石のような記憶だった。


 でも今、その記憶を見ると、別のものも見える。


 その夜、母はたしかにそばにいた。


 けれど、次の日からはまた侍女任せだった。


 その後、セレスティアが十三歳になった頃には、母の部屋の前に立つ側になっていた。


 看病される子どもから、母を守る娘になっていた。


 どこで変わったのだろう。


 いつ、母の手は自分の額から離れ、自分の手が母の部屋の扉を守る側になったのだろう。


 セレスティアは、蜂蜜入りの湯を見つめた。


「苦いですか」


 ノアが尋ねる。


「いえ。甘いです」


「顔が苦そうです」


「記憶が苦いのです」


「なるほど」


 その返しが少しおかしくて、セレスティアは小さく笑った。


「母が、熱の夜に蜂蜜湯を飲ませてくれました」


「はい」


「よい記憶です」


「はい」


「でも、その後のことを思い出すと、少し苦いです」


「はい」


「よい記憶があるから、後のつらい記憶がなくなるわけではありませんね」


「はい」


「逆も、そうでしょうか」


「逆?」


「つらい記憶があるから、よい記憶が嘘になるわけではない」


 ノアは静かに頷いた。


「そう思います」


 セレスティアは、その言葉を待っていたのかもしれない。


 胸の奥が、少しだけほどけた。


 彼女は書いた。


『熱を出した夜、母が蜂蜜湯を飲ませてくれた。

 よい記憶。

 でも、その後、私は母の部屋を守る側になった。

 よい記憶があるから、つらい記憶が消えるわけではない。

 つらい記憶があるから、よい記憶が嘘になるわけでもない』


 書きながら、セレスティアは何度もペンを止めた。


 この一文は、とても大切な気がした。


 母を聖女にも、罪人にも、まだしない。


 そのための言葉だった。


 昼過ぎ、王妃宮から定例報告が届いた。


 今日の報告は、母エレナに関するものではなく、前日の基準文に対する反応だった。


 若い令嬢たちの間で、「善意・事情・結果・責任」の四分割が使われ始めていること。


 婚約者から善意で送り続けられる贈り物を負担として記録した令嬢のこと。


 家族から「あなたのため」と言われて担わされていた慈善会の準備を、事情と結果に分けた令嬢のこと。


 そして、リリアナの短い私的記録の要約。


『姉には、母との優しい記憶もあるはずだと思う。

 でも、それを私が持ち出してはいけない。

 “お母様は優しい時もあったでしょう”という言葉は、姉の痛みを薄める刃になる。

 姉が自分で思い出すまでは、私が差し出さない』


 セレスティアは、その一文で手を止めた。


 リリアナが、それを分けた。


 母の優しい記憶。


 きっとリリアナも知っている。


 リリアナにはリリアナの、母との優しい記憶がある。


 それを姉に差し出したい気持ちもあるだろう。


 お姉様、お母様はこんなに優しい時もあったでしょう。

 だから、どうか。


 そう言いたくなる気持ちは、想像できる。


 でも、言わない。


 姉が自分で思い出すまでは、差し出さない。


 セレスティアは、しばらく紙を見つめたあと、小さく言った。


「リリアナは、黙ることを覚えていますね」


 ノアが頷く。


「はい」


「昔は、すぐ言っていました。お姉様、でも、お母様は、と」


「はい」


「今も言いたいのでしょうね」


「そうでしょう」


「でも、言わない」


「はい」


「……助かります」


 その言葉は、静かに出た。


 リリアナが何かを言わないこと。


 それが、こんなにも助けになるとは思わなかった。


「言わないことで守れる関係がある、とマルタが言っていましたね」


 セレスティアが言う。


 ノアは頷いた。


「はい」


「本当に、そうですね」


 セレスティアは帳面に書き足した。


『リリアナは、母の優しい記憶を私に差し出さないと記録した。

 助かった。

 言わないことで守られるものがある。

 母の思い出は、私が思い出すまで私の外から持ち込まれなくていい』


 その頃、王妃宮では、リリアナが自分の記録帳を閉じていた。


 マルタが静かに尋ねる。


「本当に送らなくてよろしいのですね」


「はい」


「お母様との思い出を」


「送りません」


 リリアナの声は、少しだけ震えていた。


「お姉様とお母様の思い出を、私が思い出させる権利はありません」


「はい」


「でも、言いたいです」


「何を」


「お姉様、お母様は、私の髪にリボンを結んでくれたことがあります。お姉様にもきっと、優しいことをしてくれたはずです。だから……」


 そこでリリアナは止まった。


 だから。


 その先が危ない。


 だから、そんなに苦しまないで。

 だから、嫌いにならないで。

 だから、読んであげて。

 だから、母を許して。


 全部、姉の心へ手を伸ばす言葉になる。


「だから、の先は言いません」


 リリアナは言った。


 マルタは頷く。


「よい判断です」


「お母様との思い出を守りたい気持ちは、私のものですね」


「はい」


「お姉様へ渡すものではない」


「今は」


「はい。今は」


 リリアナは少しだけ息を吐いた。


「マルタ様」


「はい」


「優しい記憶は、困りますね」


「困ります」


「悪いことばかりなら、憎めるのに」


「はい」


「優しいことがあったから、何度も戻ってしまう」


「そうですね」


「それでも、優しい記憶を悪者にしたくはありません」


「はい」


「本当に、人は面倒です」


「人はだいたい面倒です」


 その言い方があまりにも真顔だったので、リリアナは少し笑った。


「マルタ様も面倒ですか」


「もちろんです」


「どのあたりが?」


「それは私の内部整理です」


「教えてください」


「未定です」


 リリアナは目を丸くしたあと、声を出して笑った。


「未定なら仕方ありません」


「はい。仕方ありません」


 そのやり取りで、リリアナの胸も少し軽くなった。


 夕方、セレスティアは庭に出た。


 今日は、ノアも少し離れて付き添っている。


 冬の気配を含んだ風が、頬を冷やした。


 庭の端に、小さな温室がある。


 そこに向かう途中、セレスティアはふと足を止めた。


 花壇の端に、白い小さな花が咲いていた。


 季節外れのようにも見える。


 侍女が手入れしているのだろう。


 その白い花を見た瞬間、また記憶が来た。


 母が刺繍を褒めてくれた日。


 セレスティアが幼い手で、白い花を布に縫った。


 形はいびつだった。


 花びらの数もそろっていなかった。


 母はそれを見て、少し大げさに目を細めた。


『まあ、可愛い花ね』


『曲がっています』


『曲がっていても、咲いているわ』


『咲いていますか』


『ええ。ちゃんと』


 ちゃんと咲いている。


 その言葉が嬉しくて、セレスティアはその刺繍布を長く取っておいた。


 今はどこにあるのか分からない。


 公爵家に残っているのかもしれない。


 捨てられたかもしれない。


 でも、言葉は残っていた。


 曲がっていても、咲いている。


 セレスティアは、花壇の前で少し笑った。


 少しだけ、泣きそうにもなった。


 ノアが近づきすぎない距離で止まる。


「大丈夫ですか」


「はい」


「何か思い出しましたか」


「母が、刺繍を褒めてくれたことを」


「はい」


「曲がっていても、咲いている、と言ってくれました」


「よい言葉ですね」


「はい」


「痛いですか」


「はい」


「温かいですか」


「はい」


「両方ですか」


「両方です」


 セレスティアは、花を見つめたまま言った。


「母は、優しい言葉をくれました」


「はい」


「私は、それを覚えています」


「はい」


「でも、母は私の曲がった休息欄には気づかなかった」


 ノアは何も言わなかった。


 セレスティアは続ける。


「刺繍の花が曲がっていても咲いていると言ってくれた母が、私の予定表が歪んでいることには気づかなかった」


「はい」


「それが、苦しいです」


「はい」


「でも、刺繍を褒めてくれた母まで消したくありません」


「はい」


 セレスティアは、白い花へ手を伸ばしかけて、やめた。


 摘まない。


 ただ見る。


 思い出も、そうしていいのかもしれない。


 握りしめなくていい。


 捨てなくてもいい。


 ただ、そこに咲いていると認める。


 夜、部屋に戻ったセレスティアは、帳面に長く書いた。


『母は、私の髪を梳いてくれた。

 熱の夜に蜂蜜湯を飲ませてくれた。

 曲がった刺繍を、咲いていると言ってくれた。

 これらは優しい記憶。

 消したくない。

 でも、母は私の休息欄のなさに気づかなかった。

 母の部屋の前で私が来客をさばいていたことも、止めなかった。

 これらはつらい記憶。

 消せない。

 優しい記憶があるから傷ついていない、とはならない。

 つらい記憶があるから愛されていなかった、ともならない。

 母は一枚ではない』


 最後の一文を書いた瞬間、セレスティアはペンを止めた。


 母は一枚ではない。


 それは、今日の答えだった。


 聖女のような母。


 病の母。


 優しい母。


 助けてくれなかった母。


 笑う母。


 気づかなかった母。


 愛していた母。


 足りなかった母。


 嫌いになるかもしれない母。


 それらを、一枚の絵にまとめようとするから苦しくなる。


 母は一枚ではない。


 そして、娘である自分も一枚ではない。


 母を恋しく思う自分。

 母を嫌いになるかもしれない自分。

 母を守りたい自分。

 母に怒っている自分。

 母の覚書を読みたい自分。

 読みたくない自分。


 全部がいる。


「閣下」


「はい」


「母は一枚ではない、と書きました」


「はい」


「私は、少し楽です」


「はい」


「母を一つに決めなくてよいなら、少し息ができます」


「よかったです」


「でも、これはまた王妃宮が好きそうな言葉ですね」


「共有しますか」


「しません」


 セレスティアは即答した。


 ノアは少しだけ笑った。


「はい」


「これは、まだ私の中に置きます」


「はい」


「いつか共有するかもしれません。でも、今日はしません」


「それでよいと思います」


 セレスティアは頷いた。


 そして、箱の横に新しい紙を置いた。


『母は一枚ではない』


 その隣に、もう一枚。


『優しい記憶を、許しの義務にしない』


 さらに、もう一枚。


『つらい記憶を、愛されなかった証拠にしない』


 紙を置き終えると、セレスティアは少しだけ疲れて椅子にもたれた。


 今日はたくさん思い出した。


 でも、押し潰されなかった。


 それが不思議だった。


「今日は、箱を開ける日ではありませんでした」


「はい」


「でも、思い出の箱が勝手に少し開きました」


「閉めますか」


「完全には閉まりません」


「はい」


「でも、散らかさずに置けそうです」


「よい状態ですね」


 セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。


 母を嫌いになっても、思い出は消えない。


 それは怖いことでもあり、救いでもあった。


 嫌いになれば全部消えるなら楽だったかもしれない。


 でも、消えないからこそ、母は人間のままでいられる。


 そして、セレスティアも人間のままでいられる。


 灯りを落とす前に、彼女は箱へ小さく言った。


「お母様」


 昨日より、少しだけ声が柔らかかった。


「今日は、あなたを一枚にしませんでした」


 箱は答えない。


 でも、その沈黙は少しだけ、昨日より穏やかだった。

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