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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第104話 箱の前で、母を嫌いになる練習をした

 その日は、母の肖像画を見ない日だった。


 そう決めたのは、前の晩である。


 母に関する証言。

 母の友人からの書面。

 母の評判を守るかどうか。

 母の覚書を盾にも剣にもしない、という王妃宮の補足。


 あまりにも母が多すぎた。


 母という言葉が、部屋の隅にも、廊下の影にも、茶の湯気の中にも紛れているようで、セレスティアは少し息苦しくなっていた。


 だから今日は、母を見ない。


 母について届いた書類も読まない。


 母の肖像画も思い出さないようにする。


 そう決めた。


 決めたのに。


 机の上には、母の覚書の箱があった。


 見ない日なのに、箱はある。


 それが少しおかしくて、少し腹立たしかった。


「休養日とは」


 セレスティアは、小さく呟いた。


 向かいに座っていたノアが顔を上げる。


「はい?」


「母の覚書の休養日と決めたのに、箱が目の前にあります」


「移しますか」


「いいえ」


 セレスティアは即答した。


 自分でも少し驚くほど早かった。


「移したいわけではないのです」


「はい」


「ただ、そこにあることに文句を言いたくなりました」


「言ってよいと思います」


「箱に?」


「箱にでも、私にでも」


「箱に文句を言っている令嬢は、かなり変ではありませんか」


「王都には、もっと変な方もいます」


 セレスティアは、思わず笑った。


「閣下、誰を思い浮かべました?」


「名前を出すと角が立ちます」


「では、ローヴェル伯爵ですね」


「私は何も申し上げていません」


 ノアは涼しい顔で茶を飲む。


 セレスティアは、少しだけ肩の力が抜けた。


 こういう何でもない会話が、最近とても大事だ。


 重い話の前に、軽い言葉を置く。


 そうしないと、心がずっと床に沈んだままになる。


 だが、軽さは長くは続かなかった。


 セレスティアの視線は、自然と箱へ戻る。


 木箱は、いつものように閉じている。


 鍵も封もない。


 ただ、開けないだけ。


 開けないという選択をしているだけ。


 でも、その「だけ」があまりにも重い。


 箱の横には、紙が並んでいる。


『覚書を、母の評判の道具にしない』


『盾にも、剣にも、しない』


『助かったことと、許したことは別』


 そして、その下に空白がある。


 今日、そこへ何かが増える。


 セレスティアは、そんな予感がしていた。


「閣下」


「はい」


「今日は、母に関する書類を読まない日です」


「はい」


「ですが、母について考えない日にはなりませんでした」


「そうですね」


「なら、せめて自分の中の母について考えます」


 ノアは、手元の書類を閉じた。


 完全に聞く姿勢になる。


 その動きが、セレスティアには少しありがたく、少し怖かった。


「重い話になります」


「はい」


「途中で止まるかもしれません」


「はい」


「答えは、いりません」


「承知しました」


 セレスティアは、白紙を出した。


 しかし、すぐには書けなかった。


 ペン先を紙の上に置いたまま、手が動かない。


 書きたい言葉がある。


 でも、書いたら戻れない気がする。


 その言葉は、あまりにも不孝で、冷たくて、残酷で、娘として口にしてはいけないもののように思えた。


 セレスティアは一度ペンを置いた。


「書けません」


「何を?」


「まだ言えません」


「では、言わなくても」


「言わないと、ずっとここにあります」


 彼女は、自分の胸に手を当てた。


「ずっと、喉の奥に」


 ノアは何も急かさない。


 部屋には、紙の擦れる音もない。


 窓の外で鳥が鳴いた。


 その普通の音が、かえって遠く感じられる。


 セレスティアは、ゆっくり息を吸った。


「私は」


 声が出る。


 細く、少し震えた声。


「母を」


 そこで止まる。


 ペンを握る。


 もう一度、息を吸う。


「母を、嫌いになるかもしれません」


 言った。


 言ってしまった。


 その瞬間、身体の奥が冷たくなった。


 まるで、床がなくなったようだった。


 セレスティアは思わず両手を握りしめる。


 涙は出ない。


 怒りも湧かない。


 ただ、震えた。


 肩ではなく、胸の奥が震える。


 見えない場所で、小さな鈴が鳴り続けているような震えだった。


 ノアは、すぐには返事をしなかった。


 その沈黙に、セレスティアは少し怖くなる。


 否定されるだろうか。


 そんなことを言ってはいけない、と。


 亡き母を嫌いになるなど、娘として許されない、と。


 母は病だったのだから、と。


 母はあなたを愛していたのだから、と。


 けれど、ノアは静かに言った。


「はい」


 ただ、それだけだった。


 セレスティアは、目を瞬いた。


「はい、なのですか」


「はい」


「止めないのですか」


「止めません」


「母を嫌いになるかもしれない、と言ったのに」


「はい」


「亡くなった母を」


「はい」


「私を愛していたかもしれない母を」


「はい」


「病だった母を」


「はい」


「それでも?」


「それでもです」


 その返事の積み重なりで、セレスティアの目元が熱くなった。


 でも、やはり涙は落ちなかった。


 泣く前に、身体が驚きすぎている。


「私は、ひどい娘ではありませんか」


「いいえ」


「母を嫌いになるかもしれない娘です」


「嫌いになるかもしれないことと、ひどい娘であることは別です」


「また、別」


「はい」


「閣下は、何でも別にします」


「混ざると苦しくなるものは、分けます」


 セレスティアは、少しだけ笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


「母を嫌いになることと、母が母でなくなることも別ですか」


 ノアは、静かに頷いた。


「別です」


 その言葉は、思った以上に深く刺さった。


 母を嫌いになる。


 そうなったら、母との思い出は全部壊れる気がしていた。


 母の笑顔も、手の温度も、優しかった声も、甘すぎる菓子の記憶も。


 全部、嘘になる気がした。


 母を嫌うなら、母との幸せな記憶を捨てなければならないと思っていた。


 でも、違うのかもしれない。


 嫌いになることと、母が母でなくなることは別。


 母を嫌いになる瞬間があっても、母が髪を梳いてくれた過去は消えない。


 母の手を冷たく感じた夜があっても、熱を出した日に額へ布を置いてくれた記憶は消えない。


 好きだった母と、嫌いになるかもしれない母。


 その両方が、同じ母の中にいる。


 セレスティアは、白紙へ向き直った。


 今度は、少しずつ書けた。


『母を嫌いになるかもしれない』


 書いた瞬間、手が震えた。


 文字が少し歪む。


 でも、読める。


 そこにある。


 セレスティアは、その一文をじっと見つめた。


「書けました」


「はい」


「消したいです」


「消しますか」


「いいえ」


 セレスティアは首を振った。


「消したら、また喉に戻ります」


「では、そのまま」


「はい」


 彼女は続けて書いた。


『母を嫌いになることと、母が母でなくなることは別』


 ここまで書いたところで、少しだけ呼吸が深くなった。


 禁じられていた扉に、小さな隙間ができたような感じだった。


 開け放ったわけではない。


 まだ中は暗い。


 でも、扉があると認められた。


「閣下」


「はい」


「私は、母を嫌いになりたいわけではありません」


「はい」


「嫌いになりたくないです」


「はい」


「嫌いにならずに済むなら、その方がいいです」


「はい」


「でも、嫌いになるかもしれない可能性を、なかったことにすると苦しいのです」


「はい」


 セレスティアは、また書いた。


『嫌いになりたいわけではない。

 でも、嫌いになるかもしれない可能性を消さない』


 書き終えて、ペンを置く。


 手の震えはまだ残っている。


 ノアが尋ねた。


「水を飲みますか」


「はい」


 水差しから注がれた水を受け取り、セレスティアはゆっくり飲んだ。


 冷たい。


 喉を通る感覚がはっきり分かる。


 自分はまだここにいる。


 母を嫌いになるかもしれないと言っても、部屋は壊れなかった。


 天井も落ちなかった。


 ノアも立ち去らなかった。


 箱も開かなかった。


 世界は、驚くほど静かだった。


「不思議です」


 セレスティアは言った。


「何が?」


「もっと罰が当たるような気がしていました」


「罰」


「はい。母を嫌いになるかもしれないなんて言ったら、何かが壊れると思っていました」


「何か、とは?」


「母との思い出。私の娘としての資格。お母様、と呼んでいた自分。全部です」


「壊れましたか」


 セレスティアは、少し考えた。


「いいえ」


「はい」


「でも、何かは変わりました」


「何が?」


「母を守る檻に、小さな穴が開きました」


 ノアは、その表現を静かに受け止めた。


「檻」


「はい」


「母を守るための?」


「母を守るためでもあり、私を良い娘にしておくための檻です」


 セレスティアは箱を見た。


「私は、母を嫌ってはいけないと思っていました。母は亡くなっているから。病だったから。私を愛していたかもしれないから。母を悪く思う自分が、許せなかった」


「はい」


「でも、そのせいで、母に助けてほしかった私も閉じ込めていました」


「はい」


「母を嫌いになるかもしれない、と言ったら、その子が少しだけ顔を上げた気がします」


「その子は、何と言っていますか」


 セレスティアは目を閉じた。


 十三歳の自分。


 休息欄のない予定表。


 母の寝室前の廊下。


 来客の声。


 リリアナの泣き声。


 父の不在。


 王宮からの使者。


 夜の書類。


 眠たいのに、眠れない手。


 その子は泣いていない。


 泣く時間がないから。


 ただ、こちらを見ている。


「……疲れた、と」


 セレスティアは言った。


「はい」


「お母様、助けて、と」


「はい」


「どうして私ばかり、と」


「はい」


「少し、嫌い、と」


 最後の言葉は、小さかった。


 けれど、確かに聞こえた。


 セレスティアは目を開けた。


 ノアの顔は変わらない。


 それが、ひどくありがたかった。


「閣下」


「はい」


「十三歳の私が、母を少し嫌いと言ってもいいでしょうか」


「もちろんです」


「少しだけでも?」


「少しでも、多くても」


 セレスティアは、胸元を押さえた。


 また震えが来た。


 今度は、さっきよりも強い。


 でも、怖さだけではなかった。


 長く閉じ込めていたものが、空気に触れている震えだった。


「書きます」


「はい」


 彼女は帳面に続けた。


『十三歳の私は、母に助けてほしかった。

 母を少し嫌いと思っていたかもしれない。

 その子に、そう思ってはいけないと言い続けてきた。

 今日は、その子に、少し嫌いと思ってもいいと言う。

 母を嫌いになることと、母との優しい思い出が消えることは別。

 母を嫌いになることと、母を愛していなかったことも別。

 母を嫌いになることと、私が悪い娘になることも別』


 別、別、別。


 紙の上に、また別が増える。


 でも、今日はその別が頼もしかった。


 混ざって固まっていたものが、少しずつほどける。


「母を嫌いになる練習」


 セレスティアは、ふと呟いた。


 ノアが少しだけ眉を動かす。


「練習、ですか」


「はい。実際に嫌いになると決めたわけではありません。ただ、嫌いになるかもしれない自分を許す練習です」


「よい表現だと思います」


「嫌な練習ですね」


「必要な練習は、楽しいとは限りません」


「そうですね」


 セレスティアは、箱の前に新しい紙を置いた。


『母を嫌いになる練習』


 置いてから、少しだけ気まずくなった。


「お母様が見たら、怒るでしょうか」


「分かりません」


「怒る母も、悲しむ母も、笑う母も、私の想像ですね」


「はい」


「では、その想像でこの紙を消さない方がいいですね」


「そう思います」


 セレスティアは頷いた。


 その紙は、箱の真正面ではなく、少し横に置いた。


 まだ正面に置く勇気はなかった。


 それでいい。


 練習なのだから。


 昼過ぎ、ノアは一つだけ確認した。


「この状態を、どこかへ共有しますか」


 セレスティアは、すぐに首を横に振った。


「いいえ」


「はい」


「これは、私の内側のことです。王妃宮の基準にしてほしくありません」


「承知しました」


「ただ……」


 セレスティアは少し考えた。


「今日は、母に関する第三者証言を受け取らない日、とだけ記録してください」


「はい」


「理由は、休養と内部整理」


「それで十分です」


「母を嫌いになる練習をしたことは、誰にも」


「伝えません」


 ノアの返事は早かった。


 セレスティアは、ほっと息を吐く。


「ありがとうございます」


「はい」


「何でも共有しなくていいのですね」


「はい」


「基準になる前の感情があってもいい」


「もちろんです」


「最近、何か感じると、すぐ王妃宮の壁に貼られる気がしていました」


「それは少し困りますね」


「はい。私の心は掲示板ではありません」


 そう言ってから、セレスティアは自分で少し笑った。


 ノアも、ほんのわずかに笑う。


「それは重要な一文かもしれません」


「壁に貼らないでください」


「貼りません」


「絶対に?」


「少なくとも、王妃宮には送りません」


「閣下」


「冗談です」


 軽い会話が戻る。


 それが、今日のセレスティアにはありがたかった。


 母を嫌いになるかもしれないと口にしたあとでも、冗談を言える。


 それは、自分が壊れていない証拠のように思えた。


 夕方、北方辺境伯家から王妃宮と公爵家へ届いた状態報告は、とても短かった。


『本日、エレナ様に関する第三者証言の受領なし。

 覚書開封なし。読了なし。返答なし。

 本人、休養および内部整理日とする。

 回答不要』


 王妃宮でそれを読んだリリアナは、少しだけ目を伏せた。


「内部整理日」


 マルタが頷く。


「はい」


「お姉様は、何かを整理していらっしゃるのですね」


「そうでしょう」


「何を、とは聞かない」


「はい」


「想像しない」


「想像してしまうのは自然ですが、それを事実として扱わない」


「はい」


 リリアナは、記録帳を開いた。


『姉、本日、休養および内部整理日。

 内容不明。

 私は知りたいと思った。心配にもなった。

 でも、姉の内部整理は、姉のもの。

 私の不安で扉を叩かない』


 書き終えて、リリアナは少しだけ息を吐いた。


「マルタ様」


「はい」


「私は、お姉様の中で何が起きているのか分からないことが、怖いです」


「はい」


「でも、分からないまま待つのですね」


「はい」


「父も、同じような気持ちでしょうか」


「おそらく」


「少しだけ、父の気持ちが分かってしまうのが嫌です」


 マルタは、珍しく少し笑った。


「分かることと、同意することは別です」


 リリアナは、目を瞬いたあと、笑ってしまった。


「本当に便利ですね、別」


「はい。便利ですので」


 一方、レイノルド公爵邸でも、同じ状態報告が読まれていた。


 グレゴールは短い紙を見て、しばらく考え込んだ。


「内部整理日、か」


 家令が頷く。


「はい」


「何を整理しているのかは、書かれていない」


「はい」


「知りたいと思う」


「記録しますか」


「……書け」


 家令は書く。


『グレゴール公爵、セレスティア様の内部整理内容を知りたい欲求あり。問い合わせ不可』


 グレゴールは、苦笑した。


「最近、私は欲求あり、不可、ばかりだな」


「欲求を認めて止まることが多いので」


「成長しているように聞こえるな」


「しておられるのでは」


「お前に言われると、やはり不安だ」


「記録しますか」


「するな」


 グレゴールは紙を置いた。


 内部整理。


 娘の中で、何が整理されているのか。


 妻のことか。


 父である自分のことか。


 妹のことか。


 王太子府のことか。


 知りたい。


 だが、知る権利はない。


「今日は、こちらからも何も送らない」


「はい」


「エレナに関する証言整理も、今日は進めるな」


 家令が少しだけ目を上げる。


「止めますか」


「止める。明日に回す。こちらが妻の証言を整理している日に、向こうが内部整理をしていると知ると……何というか、私がまた勝手に先へ進んでいる気がする」


「よい判断かと」


「やはり、お前に褒められると不安だ」


「本日は記録しません」


「そうしてくれ」


 その夜、セレスティアは箱の前に座っていた。


 日中に書いた紙は、まだそこにある。


『母を嫌いになる練習』


 見慣れない。


 何度見ても、少し胸が跳ねる。


 でも、朝ほど怖くはなかった。


 セレスティアは、その紙の隣にもう一枚置いた。


『嫌いになる可能性を許すことと、嫌いになる決定は別』


 さらに、もう一枚。


『母を嫌いになっても、母との思い出を捨てなくていい』


 書き終えてから、彼女は箱へ向かって静かに言った。


「お母様」


 声は震えていた。


「私は、あなたを嫌いになるかもしれません」


 また言った。


 二度目。


 一度目より少しだけ、声が通った。


「でも、まだ分かりません」


 箱は答えない。


「分からないまま、今日は眠ります」


 その言葉を最後に、セレスティアは立ち上がった。


 寝台へ向かう途中、足元が少しふらついた。


 ノアが一歩だけ動きかける。


 だが、セレスティアは手で制した。


「大丈夫です」


「はい」


「少し震えているだけです」


「はい」


「震えていても、歩けます」


「はい」


 彼女は自分の足で寝台まで歩いた。


 それもまた、今日の小さな記録だった。


 母を嫌いになるかもしれないと言った。


 世界は壊れなかった。


 母との記憶も消えなかった。


 良い娘であるかどうかは、まだ分からない。


 でも、十三歳の自分が、ほんの少しだけ息をした。


 灯りを落とす前に、セレスティアは最後に帳面へ一行書いた。


『母を嫌いになる練習をした。まだ嫌いになったわけではない。けれど、嫌いになるかもしれない私を、今日は追い出さなかった』


 その一文を書いて、彼女はようやく目を閉じた。


 箱は、今夜も開かなかった。


 けれど、閉じた箱の前で、開いたものがあった。


 母を守る檻の、小さな隙間。


 そこから、ずっと黙っていた娘の息が、ほんの少しだけ漏れた。

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