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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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103/110

第103話 母の覚書を守るために、母の評判を守らない

 レイノルド公爵邸の肖像画廊は、朝でも少し暗い。


 高い窓から光は入る。


 だが、歴代当主の肖像画が壁一面に並ぶせいか、そこだけ空気が重く沈んでいるように見えた。


 その奥に、エレナの肖像画がある。


 若い頃の姿だ。


 病を得る前。


 頬に淡い血色があり、薄い金の髪をゆるく結い、控えめに微笑んでいる。


 グレゴールは、その絵の前に立っていた。


 手には、数枚の書類がある。


 エレナの旧友や元侍女、親族から届いた証言の申し出。


 それから、王都で流れている噂の要約。


『エレナ様は本当に娘を愛していたのか』


『病を理由に、長女へ負担を押しつけたのでは』


『覚書には、弁明が書かれているのではないか』


『セレスティア様が読まないのは、母を信じていないからでは』


 噂はいつも早い。


 そして、早いものほど乱暴だ。


 エレナはもう反論できない。


 だから、周囲が勝手に語る。


 優しい母にもする。

 無力な母にもする。

 悲劇の妻にもする。

 無責任な母にもする。


 死人の顔は、語る人間の都合でいくらでも変わる。


 グレゴールは、肖像画を見上げた。


「お前は、こんなに多くの顔を持っていたか」


 もちろん、絵は答えない。


 答えないから、余計に苦しい。


 彼は、妻を守りたかった。


 少なくとも、王都の茶会で勝手に切り刻まれるままにはしたくなかった。


 エレナは、娘を愛していた。


 それは嘘ではない。


 病に苦しみ、何もできない自分を責め、何度もセレスティアの名を口にしていた。


 夜、熱に浮かされながら。


 朝、窓の外を見るふりをしながら。


 来客が帰ったあと、疲れきった声で。


 グレゴールは覚えている。


 だが、その記憶を出せばどうなる。


『エレナは娘を愛していた』


『病で苦しんでいた』


『助けられなかったのは仕方がなかった』


 そう言えば、妻の評判は守れるかもしれない。


 だが、セレスティアの痛みはどこへ行く。


 グレゴールは、書類を握る指に力を込めた。


 そこへ、足音が近づいた。


「旦那様。こちらにおいででしたか」


 家令だった。


「執務室にお戻りを。証言整理の担当者が参っております」


「分かっている」


 グレゴールは答えたが、動かなかった。


 家令は、エレナの肖像画へ一礼したあと、少し離れて立った。


「奥方様の評判を、守りたいのですね」


 グレゴールは苦い顔をした。


「お前は最近、心の中を読むのか」


「旦那様は、比較的分かりやすくなられました」


「それは褒めているのか」


「半分ほど」


「残り半分は」


「危うい、という意味です」


 グレゴールは、少しだけ笑った。


 笑ったが、すぐに表情を戻した。


「王都では、エレナが好き勝手に語られている」


「はい」


「あれは、セレスティアの母だ。私の妻だ。この家の奥方だった。茶会の玩具ではない」


「はい」


「だから、公爵家として最低限の見解を出すべきではないかと思った」


 家令は黙っていた。


 グレゴールは続ける。


「エレナは娘たちを愛していた。病で十分に動けなかった。家も当時、王宮との調整や来客対応で混乱していた。セレスティア一人に負担を負わせる意図はなかった。少なくとも、それくらいは」


「旦那様」


 家令が静かに呼んだ。


「何だ」


「それを出せば、何が守られますか」


「エレナの名誉だ」


「ほかには」


 グレゴールは、口を閉じた。


 家令は一歩も引かない。


「旦那様ご自身の記憶も、守られるのでは」


「……そうだろうな」


「公爵家の体面も」


「それもある」


「では、セレスティア様は?」


 グレゴールは肖像画から目を離した。


「セレスティア?」


「はい。今の見解を出した場合、セレスティア様はどう受け取られるでしょうか」


「それは……」


「奥方様はあなたを愛していた。病で仕方がなかった。家にも事情があった。悪意はなかった。そういう枠を、覚書を開く前に渡されることになります」


 グレゴールは、返せなかった。


 家令の声は厳しくない。


 ただ、事実を置いていく声だった。


「旦那様は、奥方様の評判を守るために、またセレスティア様の受け取り方を狭めるのですか」


 その言葉は、肖像画廊の空気を切った。


 グレゴールは、息を呑んだ。


 また。


 また、なのか。


 父として。


 夫として。


 家長として。


 守っているつもりで、娘の前に壁を置く。


 娘が何かを感じる前に、こちらで説明を並べる。


 母は悪くなかった。

 家には事情があった。

 父は知らなかった。

 妹は幼かった。

 王宮も混乱していた。


 そして、娘はその説明を読んでから、自分の痛みを見なければならなくなる。


 痛みが説明で囲まれる。


 逃げ場がなくなる。


「……私は、またやるところだったのか」


 グレゴールは低く呟いた。


 家令は否定しなかった。


「可能性はございました」


「エレナを守りたかった」


「はい」


「だが、そのためにセレスティアの読む前の場所を汚すところだった」


「汚す、というより、色をつけるところだったかと」


「同じだ」


 グレゴールは書類を見た。


 旧友の証言。

 元侍女の記憶。

 親族の擁護。

 妻を守るための材料。


 どれも嘘ではないかもしれない。


 だが、今出すべきではない。


 少なくとも、セレスティアが母の覚書を開く前に、公爵家が母の解釈を配るべきではない。


「戻る」


 グレゴールは言った。


「はい」


「証言整理の担当者を待たせるな」


「承知しました」


 執務室には、家令の下で記録を扱う文官が二人待っていた。


 机の上には、すでに分厚い紙束がある。


『エレナ様証言一覧』


『王都噂整理』


『公爵家見解案』


 最後の表題を見た瞬間、グレゴールは眉をひそめた。


「見解案を下げろ」


 文官が戸惑った。


「旦那様?」


「下げろ。今は作成しない」


「ですが、王都の噂が」


「噂を止めるために、セレスティアの受け取り方を狭めることはしない」


 文官は目を瞬いた。


 家令は黙って控えている。


 グレゴールは椅子に座った。


「方針を変える」


「はい」


「まず、証言そのものは廃棄しない。旧友、元侍女、親族の記憶は、それぞれ記録として保管する」


「はい」


「ただし、統合しない」


 文官の筆が止まった。


「統合しない、とは」


「それらをまとめて“公爵家が認めるエレナ像”にしないということだ」


「承知しました」


「証言には、証言者、時期、関係、目的を添える。美談、擁護、病状説明、感情記録、事実記録を分ける」


「はい」


「セレスティア本人へは送らない。王妃宮へも内容は送らない。証言の存在と保管方針のみ共有する」


「はい」


「公爵家見解は作らない」


 そこまで言って、グレゴールは一度口を閉じた。


 そして、少しだけ苦しそうに続けた。


「エレナの評判を守るための文書は、今は作らない」


 その一言を出すのが、いちばん痛かった。


 妻を見捨てるような気がした。


 王都の勝手な声に、妻を差し出すような気もした。


 だが違う。


 エレナの覚書を守ることと、エレナの評判を守ることは別だ。


 今守るべきは、まだ開かれていない覚書と、それを読むかもしれない娘の自由だ。


 グレゴールは、ゆっくり言った。


「覚書を守る」


 家令が顔を上げた。


「はい」


「エレナの評判ではなく、覚書そのものを守る。読まれる前に意味をつけない。読まれた後も、本人の許可なく解釈を出さない」


 文官たちは、少し緊張した顔で書き取っている。


 グレゴールは続けた。


「王都から問われた場合、公爵家はこう答える」


 彼は少し考え、ゆっくりと言葉を選んだ。


『エレナ・レイノルドに関する私的証言および記憶は、公爵家にて記録保管する。

 ただし、現時点で公爵家としてエレナ像を統合・公表することはしない。

 エレナの覚書は、セレスティア本人の管理と判断に属する私的文書であり、公爵家はその読解に先立つ解釈提示を行わない。

 故人の評判を守ることを理由に、存命の者の受け取り方を制限しない』


 文官の筆が、最後の一文で少し止まった。


 家令が静かに頷く。


「よろしいかと存じます」


「よろしい、か」


 グレゴールは疲れた顔で笑った。


「妻の評判を守らない夫が、よろしいのか」


 家令は、少しだけ考えてから答えた。


「奥方様の評判を守らないのではありません。奥方様の言葉を、評判の道具にしないのだと思います」


 グレゴールは、その言葉にしばらく黙った。


 やがて、小さく言った。


「それも記録しろ」


「はい」


 家令は書いた。


『家令発言:奥方様の評判を守らないのではなく、奥方様の言葉を評判の道具にしない』


 グレゴールは、肖像画廊のエレナを思い出した。


 彼女は、生きていた。


 評判ではない。


 美談でもない。


 病だけの人でもない。


 母だけでも、妻だけでも、公爵家の奥方だけでもない。


 ならば、今できることは、勝手にきれいな布で覆わないことなのかもしれない。


「エレナは、怒るだろうか」


 グレゴールがぽつりと呟いた。


 家令は少し困った顔をした。


「それは、私には」


「分かっている」


「ただ」


「ただ?」


「奥方様が怒るとしても、それは旦那様が想像する奥方様です」


 グレゴールは目を見開いた。


 家令は淡々と続ける。


「ですので、それを理由に方針を変えるのは危険かと」


 しばらくの沈黙のあと、グレゴールはとうとう笑った。


 短く、疲れた笑いだった。


「お前は、死んだ妻についての私の想像まで記録対象にする気か」


「必要なら」


「恐ろしい家令だ」


「職務ですので」


 その日の午後、公爵家から王妃宮と北方辺境伯家へ短い方針文が送られた。


 王妃宮でそれを読んだリリアナは、まず一行目で止まり、最後まで読んだあと、しばらく黙った。


 マルタが尋ねる。


「どう受け取りましたか」


「父が、お母様の評判を守る文書を作らないことにした、と」


「はい」


「少し、驚きました」


「なぜ」


「父は、お母様を守りたがると思っていました」


「今も守りたいでしょう」


「はい。でも、守り方を変えた」


 リリアナは、方針文の一節を指でなぞった。


『故人の評判を守ることを理由に、存命の者の受け取り方を制限しない』


 その一文が、胸に落ちる。


 母を守りたい。


 リリアナにも、その気持ちはある。


 母を悪く言われたくない。


 母が姉を愛していなかったように扱われたくない。


 母の病を責められたくない。


 でも、そのために姉へ「こう受け取って」と言いたくなるなら、それはまた姉を縛る。


「私は、お母様の評判を守りたいです」


 リリアナは言った。


 マルタは頷く。


「はい」


「でも、それを理由に、お姉様に“お母様を悪く思わないで”とは言わない」


「はい」


「言いたくなると思います」


「はい」


「たぶん、何度も」


「そのたびに記録しましょう」


 リリアナは、少しだけ笑った。


「最近、感情が全部記録行きです」


「全部ではありません。扱いに困るものを記録へ置いています」


「扱いに困るものだらけです」


「人間ですので」


 リリアナは、その返しに小さく息を吐いた。


 そして、自分の記録帳を開いた。


『父が、お母様の評判を守るための見解を出さないことにした。

 お母様の覚書を、評判の道具にしないため。

 私は母を守りたい。悪く思われたくない。

 でも、その気持ちで姉の受け取り方を狭めない。

 母を守ることと、母の評判を守ることと、姉の自由を守ることは、それぞれ別』


 書き終えて、リリアナは少しだけ首を傾げた。


「別、が多すぎますね」


「必要なだけ増えます」


 マルタは当然のように言った。


「王妃宮の壁が足りません」


「壁を増やす前に、紙棚を増やします」


「現実的ですね」


「現実的でなければ、人は守れません」


 王妃宮では、その方針文を受け、補足を作成することになった。


 リリアナは、今度は一人で書き始めなかった。


 最初にエルンへ言う。


「今日は、私が書きすぎると母を守る方向へ寄るかもしれません。文案を一緒に作ってください」


 エルンは少し驚いた顔をしたあと、頷いた。


「承知しました」


 マルタが、それを見てほんのわずかに微笑む。


「よい自己申告です」


「褒められると不安になります」


「グレゴール公爵と同じことを言いますね」


 リリアナは、露骨に嫌そうな顔をした。


「今のは、少し傷つきました」


「事実です」


「余計に傷つきます」


 エルンが笑いをこらえ、部屋の空気が少し緩んだ。


 だが、文案は真剣だった。


『私的文書と故人評判に関する王妃宮補足』


 一、故人に関する評判、証言、記憶は尊重される。

 二、ただし、それらを用いて私的文書の読解前に意味を固定しない。

 三、故人の名誉を守ることと、存命の受領者の受け取り方を制限することを混同しない。

 四、故人を悪く語らせないために、存命の者へ沈黙、許し、感謝、理解を求めない。

 五、私的文書は、評判を守るための盾にも、評判を壊すための剣にもしてはならない。


 五番を書いたとき、エルンが言った。


「少し詩的ですね」


 リリアナは眉を寄せた。


「駄目ですか」


「いいえ。たまには記憶に残る文も必要です」


 マルタも頷いた。


「王都には、硬い文だけでは届かないことがあります」


「では、残します」


 リリアナは、最後にもう一文を足した。


 六、読む前に故人を守りすぎることは、読む者の自由を奪う場合がある。


 その紙は、夕方には王妃宮から各所へ共有された。


 王都ではまた、ざわめきが起きた。


「故人の評判を守らないなんて、不敬では?」


「守らないのではなく、先に意味を決めないということでしょう」


「でも、亡くなった方は弁明できませんのよ」


「存命の方も、周囲に囲まれたら弁明できませんわ」


「私的文書を盾にも剣にもするな、ですって」


「最近の王妃宮は、壁に貼りやすい言葉ばかり作りますわね」


「でも、覚えやすいですわ」


 皮肉と納得が混ざりながら、言葉は広がっていった。


 北方辺境伯家に公爵家の方針文と王妃宮補足が届いたのは、夜だった。


 セレスティアは、まず公爵家の文書を読んだ。


『エレナの覚書は、セレスティア本人の管理と判断に属する私的文書であり、公爵家はその読解に先立つ解釈提示を行わない』


 その一文で、彼女の手が止まった。


 続けて読む。


『故人の評判を守ることを理由に、存命の者の受け取り方を制限しない』


 セレスティアは、しばらく黙っていた。


 ノアは向かいにいる。


「父が、書いたのですね」


「公爵家の方針文として届いています」


「父は、母の評判を守りたかったでしょうね」


「そう思います」


「それをしなかった」


「はい」


 セレスティアは、文書を置いた。


 胸の奥に、複雑なものが広がる。


 助かった。


 確かに助かった。


 もし公爵家から「エレナはこういう人でした」と正式な見解が出ていたら、セレスティアはきっと苦しくなっていた。


 母を悪く思わないで。

 母には事情があった。

 母はあなたを愛していた。


 それらが公爵家の印で届けば、どれほど重かっただろう。


 父は、それを止めた。


 妻を守りたいだろうに。


 自分も守りたいだろうに。


 それでも止めた。


「……少し、助かりました」


 セレスティアは言った。


「はい」


「でも、父に感謝するのは少し悔しいです」


「感謝しなくてもよいのでは」


 ノアはあっさり言った。


 セレスティアは目を瞬いた。


「よいのですか」


「助かったと感じることと、感謝を返すことは別です」


「また、別」


「はい」


「便利すぎます」


「便利ですので」


 セレスティアは思わず笑った。


 笑ったあと、少し目元が熱くなった。


 泣くほどではない。


 ただ、胸の中で固まっていたものが少しだけ動いた。


「父が正しいことをしたと認めることと、父を許すことも別」


「はい」


「母の評判を守らなかったことを助かったと感じることと、母を悪く思いたいわけではないことも別」


「はい」


「私は、別ばかりですね」


「人間は一枚ではありませんから」


 その言葉に、セレスティアは静かに頷いた。


 王妃宮補足にも目を通す。


『私的文書は、評判を守るための盾にも、評判を壊すための剣にもしてはならない』


 この一文に、セレスティアは長く目を止めた。


 母の覚書。


 それは、母の評判を守る盾にもなり得る。


 逆に、母の評判を壊す剣にもなり得る。


 王都は、どちらかを期待しているのかもしれない。


 母は悪くなかった、と証明する文。


 あるいは、母もまた責任を負っていた、と暴く文。


 でも、覚書はそのためにあるのではない。


 少なくとも、セレスティアにとっては。


 まだ読んでいない。


 何が書いてあるかも知らない。


 それなのに、盾や剣にされるのは嫌だった。


「閣下」


「はい」


「私は、母の覚書を、母の評判を決めるものにしたくありません」


「はい」


「読んだとしても、母を守るためでも、母を裁くためでもなく読みたい」


「はい」


「でも、そうできるか分かりません」


「分からなくて当然です」


「もし読んで、母を責めたくなったら」


「責めたくなった、という状態として置けばよいと思います」


「もし読んで、母を守りたくなったら」


「それも状態です」


「もし、どちらもあったら」


「両方です」


 セレスティアは、少し笑った。


「閣下は、両方という言葉も便利に使いますね」


「実際、両方が多いので」


「そうですね」


 セレスティアは帳面を開いた。


『父が、母の評判を守るための見解を出さないことにした。

 覚書を、母の評判の道具にしないため。

 少し助かった。

 でも、父へ感謝を返す必要はない。助かったことと、感謝を返すことは別。

 王妃宮は、私的文書を盾にも剣にもしてはならないと補足した。

 私は、母の覚書を母の評判を守る盾にも、母を裁く剣にもしたくない。

 まだ読んでいない。

 まだ、母をどう受け取るか決めない』


 書き終えたあと、セレスティアはペンを置いた。


 そして、箱を見た。


 今日も閉じている。


 箱の中には、母の言葉がある。


 けれど、箱の外にはもう、母を守ろうとする言葉も、母を責めようとする言葉も溢れている。


 だからこそ、この箱だけは、まだ静かでいてほしかった。


 セレスティアは、新しい紙を箱の横に置いた。


『覚書を、母の評判の道具にしない』


 もう一枚。


『盾にも、剣にも、しない』


 そして、少し迷ってから、さらに一枚。


『助かったことと、許したことは別』


 その三枚を置くと、箱の周りの紙はますます増えた。


 まるで、小さな砦のようだった。


 外から飛んでくる言葉の矢を、紙が受け止めている。


 母を守れ。

 母を責めるな。

 母を理解しろ。

 母を読め。

 母を許せ。

 母の真実を暴け。


 そういう声が直接胸に刺さらないように。


 セレスティアは、しばらく箱と紙を見ていた。


「お母様」


 小さく呼ぶ。


 返事はない。


「今日は、お母様の評判を守らないことが、少しだけ私を守りました」


 言ってから、自分でも不思議な言葉だと思った。


 けれど、本当だった。


 母の評判を急いで守らない。


 母を美しい形に固めない。


 母を悲劇にも、聖女にも、罪人にも、まだしない。


 それが、今のセレスティアには必要だった。


 夜、灯りを落とす前に、ノアが静かに尋ねた。


「明日は、箱を別の場所へ移しますか」


 セレスティアは少し考えた。


「いいえ。まだここで」


「はい」


「ただ、明日は母の肖像画を見ない日、と決めます」


「見ない日」


「はい。母に関するものが多すぎました。少し休みます」


「よいと思います」


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「覚書の休養日です」


「王妃宮が聞いたら、基準化しそうですね」


「しそうですね」


 その冗談に、小さく笑って。


 その夜も、箱は開かなかった。


 けれど、開かないまま守られたものがあった。


 母の評判ではない。


 母の覚書。


 そして、それをいつか読むかもしれない娘の自由だった。

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