第106話 開けない箱を、抱いて眠る日
箱は、いつも机の上にあった。
手を伸ばせば届く距離。
けれど、触れない距離。
セレスティアは、これまで何度もその箱を見た。
朝の光の中で。
夜の灯りの下で。
怒っているときも、泣きそうなときも、何も感じないふりをしたいときも。
箱は、ただそこにあった。
開けてほしいとも言わない。
読んでほしいとも言わない。
許してほしいとも、責めてほしいとも言わない。
だからこそ、周囲の声よりもずっと重かった。
その日、セレスティアは一日中、母の覚書に関する書類を読まなかった。
王妃宮からの定例報告も、母に関わる部分はノアが仕分け、急ぎでないものは脇へ置いた。
公爵家からの記録も、王太子府からの共有も、目を通さない。
休養日ではない。
整理日でもない。
ただ、何もしない日。
そう決めた。
しかし、何もしない日ほど、心は勝手に動く。
午後の茶のあと、セレスティアは本を開いたが、同じ行を三度読んでいることに気づいて本を閉じた。
刺繍を出してみたが、針先が布へ入る前に止まった。
庭へ出ようとして、外套を羽織ったところで足が重くなった。
何もできない。
できない、というより、何かが自分を机の方へ引き戻している。
母の箱。
セレスティアは、椅子に座ったまま、箱を見た。
箱の周りには、紙が増えている。
『母は一枚ではない』
『優しい記憶を、許しの義務にしない』
『つらい記憶を、愛されなかった証拠にしない』
『母を嫌いになる練習』
『嫌いになる可能性を許すことと、嫌いになる決定は別』
『母を嫌いになっても、母との思い出を捨てなくていい』
紙が砦のように箱を囲んでいる。
外の言葉から守るため。
自分の中の古い役割から守るため。
でも今日は、その紙たちが少し遠く見えた。
読むための条件は作った。
読まない自由も守った。
母を嫌いになる可能性も認めた。
優しい思い出が消えないことも分かった。
それでも、箱にはまだ触れていない。
正確には、移動させるときに触れたことはある。
だが、それは実務としてだった。
机の端から中央へ。
光が当たりすぎない場所へ。
書類と混ざらない場所へ。
箱として扱っていた。
母の覚書としてではなく。
セレスティアは、そっと指を伸ばした。
触れる直前で止まる。
木目が見えた。
濃い茶色の木箱。
角は少し丸い。
父が用意したものなのか。
母が選んだものなのか。
それとも、家令が保管用に選んだものなのか。
セレスティアは知らない。
その知らなさも、今は少し怖い。
扉が軽く叩かれた。
「入ってください」
ノアが入ってきた。
彼はセレスティアの姿を見て、すぐに状況を察したようだった。
何も言わず、いつもの椅子へ座る。
セレスティアは、指を箱の手前で止めたまま、少し笑った。
「見つかりました」
「隠れていませんでした」
「それもそうですね」
「触れますか」
ノアの声は静かだった。
触れますか。
開けますか、ではない。
読みますか、でもない。
触れますか。
その一段手前の問いに、セレスティアは少しだけ救われた。
「分かりません」
「はい」
「触れたい気もします」
「はい」
「触れたら、開けたくなるかもしれません」
「はい」
「触れたら、開けられないことが余計に分かるかもしれません」
「はい」
「触れただけで、何かが変わってしまう気もします」
「はい」
ノアは、すべてに同じ調子で頷いた。
それが、今はありがたい。
どの不安にも、大小をつけない。
どれもそのまま机の上に置いてくれる。
「閣下」
「はい」
「今日は、開けません」
「はい」
「読みません」
「はい」
「でも、触れるかもしれません」
「はい」
「それだけでも、記録になりますか」
「なります」
セレスティアは小さく息を吐いた。
「では、触れます」
そう言って、彼女は箱に指先を置いた。
何も起きなかった。
当然だ。
箱は箱だ。
木は木だ。
紙は中にあるだけ。
母の声が聞こえるわけでもない。
部屋の空気が変わるわけでもない。
だが、指先は冷たさを感じた。
思ったより冷たい。
机の上にずっとあったはずなのに、木の表面は少しだけひやりとしていた。
セレスティアは、指先を離さなかった。
「冷たいです」
「はい」
「軽いのか重いのか、まだ分かりません」
「持ち上げますか」
その言葉に、心臓が一度大きく鳴った。
持ち上げる。
箱を、机から離す。
箱との距離が変わる。
セレスティアは、しばらく黙っていた。
ノアは待つ。
窓の外で、風が木を揺らした。
「持ち上げます」
セレスティアは、両手を箱の横へ添えた。
ゆっくりと力を入れる。
箱は、持ち上がった。
思ったより重くない。
けれど、軽くもない。
中に入っているのは紙のはずだ。
数枚か、十数枚か。
それなのに、膝へ乗せた瞬間、重さが胸まで来た。
セレスティアは、箱を膝の上に置いたまま、動けなくなった。
「大丈夫ですか」
「はい」
返事をしたが、声は少し震えていた。
「重いです」
「物として?」
「いいえ」
「はい」
「でも、物としても、思ったより重いです」
「はい」
「母の言葉が入っていると思うと、重いです」
「はい」
セレスティアは、箱を両手で抱えた。
まだ開けない。
蓋には触れない。
ただ、箱の側面を抱く。
木の冷たさが、手のひらから腕へ伝わってくる。
膝の上にある重み。
胸の近くにある箱。
この近さは、これまでになかった。
「変です」
セレスティアは言った。
「何が?」
「箱を抱いているだけなのに、母を抱いているような、母に抱かれているような、どちらでもないような感じがします」
「はい」
「気持ち悪いです」
言ってから、セレスティアは少し顔をしかめた。
「今のは、ひどい言い方ですね」
「そう感じたなら、そのままでよいと思います」
「母の覚書を抱いて、気持ち悪いなんて」
「感覚です」
「感覚」
「はい。正しいかどうかを決める前のものです」
セレスティアは、箱を見下ろした。
気持ち悪い。
懐かしい。
怖い。
温かくはない。
でも、完全に嫌でもない。
抱きしめたいわけではない。
でも、すぐ机へ戻すのも少し違う。
自分の感情が、どこにも分類できない。
王妃宮なら、また新しい分類を作るだろうか。
そんなことを考えて、少しだけ笑いそうになった。
「今、何を?」
ノアが尋ねる。
「王妃宮なら、この感覚にも名前をつけるのかしらと」
「つけそうですね」
「抱持保留、とか」
「接触済、開封未定、抱持中」
セレスティアは、今度こそ小さく笑った。
「嫌です、その記録」
「私も少し嫌です」
「閣下が言ったのに」
「はい」
笑ったせいで、胸の緊張が少し緩んだ。
箱は膝の上にある。
まだ、抱えていられる。
「少し、このままでいます」
「はい」
「閣下は、お仕事をしていてください」
「この部屋で?」
セレスティアは少し考えた。
今は、ノアがいることに救われている。
けれど、ずっと見られているのはつらい。
箱を抱いている姿は、誰にも見せたくないような、でも完全に一人では怖いような、曖昧な状態だった。
「隣室に」
セレスティアは言った。
「扉は、少し開けておいてください」
「はい」
「呼んだら来てください」
「すぐに」
「呼ばなければ、来ないでください」
「分かりました」
ノアは立ち上がった。
部屋を出る前に、一度だけ確認する。
「鐘は置いておきますか」
「はい」
小さな呼び鈴が、机の端に置かれた。
手を伸ばせば届く場所。
セレスティアは頷いた。
「ありがとうございます」
「はい」
ノアは隣室へ移った。
扉は、指一本ぶんより少し広く開いている。
向こうで紙をめくる音がする。
近すぎない。
遠すぎない。
セレスティアは、箱を抱えたまま椅子に座っていた。
静かだった。
静かすぎて、自分の呼吸がよく分かる。
箱の角が腕に当たる。
少し痛い。
痛いから、現実感がある。
母の覚書は、物だ。
木箱の中に入った紙だ。
幽霊ではない。
罰ではない。
王都の噂でもない。
ただの、まだ読んでいない紙。
セレスティアは、その重さを膝で受け止めた。
どれくらいそうしていただろう。
夕方の光が少しずつ弱くなっていく。
部屋の色が変わる。
机の上に残された紙たちの文字が、薄暗く沈んでいく。
セレスティアは、箱を抱いたまま、ふと母の声を思い出した。
『曲がっていても、咲いているわ』
昨日の記憶だ。
刺繍の白い花。
あの声は、嫌いではない。
でも、あの声を思い出すと、十三歳の自分が隣で黙る。
その子は、花を褒められた幼い自分より少し年上で、ずっと疲れている。
セレスティアは、箱を抱え直した。
「お母様」
小さく呼んだ。
隣室までは聞こえないくらいの声。
「私は、あなたをまだ読めません」
箱は答えない。
「でも、今日は抱いています」
その言葉は、不思議だった。
読むでも、拒むでもない。
抱いている。
開けないまま。
中身を知らないまま。
母の言葉を、外側ごと抱えている。
「あなたを許したわけではありません」
声は震えた。
「嫌いにならないと決めたわけでもありません」
箱は黙っている。
「でも、捨てません」
そう言った瞬間、セレスティアの目から一粒だけ涙が落ちた。
泣くつもりはなかった。
泣いている感じもなかった。
ただ、一粒だけ落ちた。
木箱の蓋に、小さな丸い跡ができる。
セレスティアは慌てて指で拭おうとして、止まった。
消さなくていい気がした。
涙で紙が濡れたわけではない。
箱の外側に、ただ一滴。
それだけだ。
「水滴あり。内容非開示」
セレスティアは、思わず呟いた。
自分の言葉に、自分で少し笑った。
王妃宮に毒されすぎている。
でも、そのおかげで崩れずに済んでいるのかもしれない。
夜が近づくころ、ノアが扉越しに声をかけた。
「灯りを入れても?」
セレスティアは少し迷った。
部屋は暗くなり始めている。
暗いままでもよかった。
でも、箱を抱いたまま闇に沈むのは少し怖い。
「お願いします」
ノアが静かに入り、燭台に火を入れた。
彼はセレスティアをじっと見たりしない。
箱を抱いていることも、涙の跡も、見えたはずなのに指摘しない。
灯りを整えると、また尋ねた。
「夕食はどうしますか」
その問いに、セレスティアは少しだけ現実へ戻った。
「夕食」
「はい」
「食べなければ、条件違反ですね」
「条件表には、読後の体調を優先するとありました。今日は読んでいませんが、体調は優先してよいかと」
「読前でも?」
「もちろんです」
「箱抱持中でも?」
「はい」
セレスティアは小さく笑った。
「その分類は嫌です」
「失礼しました」
「でも、食べます。軽いものを」
「用意させます」
「このままでも?」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
箱を抱いたまま食べる気なのか。
さすがに変だ。
でも、今机へ戻すのは嫌だった。
ノアは、少しも笑わずに言った。
「片手で食べられるものにしましょう」
セレスティアは、しばらく彼を見た。
それから、顔を伏せて笑った。
「閣下は、時々とても真面目に変な提案をします」
「必要かと」
「必要です。たぶん」
夕食は、小さなパンと温かいスープだった。
スープは、取っ手付きの器に入れられた。
セレスティアは箱を膝に抱いたまま、片手で少しずつ食べた。
奇妙な光景だった。
公爵令嬢としては、たぶんかなり行儀が悪い。
けれど、誰も咎めなかった。
ノアは向かいで普通に食事を取り、何でもないことのように言った。
「パンを落とさないように」
「子ども扱いですか」
「箱にスープが落ちると、少し困ります」
「それは困ります」
「はい」
そんな会話をしながら、セレスティアは食べた。
食べられた。
箱を抱いていても、食事ができる。
泣いても、食べられる。
母を嫌いになるかもしれなくても、スープは温かい。
それは少し救いだった。
夜が深くなるころ、セレスティアは箱を机へ戻そうとした。
両手で持ち上げかけて、止まる。
戻したくない。
でも、このまま寝台へ持っていくのも、どうなのだろう。
箱を抱いて眠る。
あまりに奇妙だ。
けれど、今日だけはそうしたい。
読みたいわけではない。
開けたいわけでもない。
ただ、離すのが少し嫌だった。
「閣下」
「はい」
「変なことを言います」
「はい」
「この箱を、寝台へ持っていってもいいでしょうか」
ノアは、少しだけ間を置いた。
その間が、セレスティアにはありがたかった。
即座に肯定されると、逆に恥ずかしかったかもしれない。
「危なくないように、角へ布を巻きましょう」
ノアは言った。
セレスティアは目を瞬いた。
「そこですか」
「はい」
「持っていくこと自体は?」
「あなたがそうしたいなら」
「変では?」
「変かもしれません」
「否定しないのですね」
「変であっても、必要なことはあります」
セレスティアは、少し俯いた。
「必要、なのでしょうか」
「今日のあなたには、そう見えます」
「はい」
柔らかな布が用意された。
箱の角に軽く巻き、蓋が開かないように紐ではなく、幅広の布で包む。
縛りつけるのではない。
ただ、寝台で腕に当たって痛くならないように。
その作業をノアがしているあいだ、セレスティアは少し複雑な気持ちで見ていた。
母の覚書を守るためではない。
自分の腕を守るため。
それが妙におかしかった。
「母の覚書より、私の腕を優先しているようです」
「腕も大切です」
「そうですね」
「箱を抱くには、腕が必要です」
セレスティアは笑った。
「閣下、本当に時々変です」
「よく言われます」
「誰に?」
「北方の家臣に」
「でしょうね」
寝台へ移ると、部屋の灯りは落とされた。
ノアは隣室へ下がる。
扉は少し開いている。
「呼び鈴はここへ」
「はい」
「箱が重くなったら、机へ戻します」
「はい」
「途中で怖くなったら、呼びます」
「はい」
「呼ばなかったら」
「入りません」
その確認を終えて、ノアは隣室へ移った。
セレスティアは寝台の上で、布に包んだ箱を抱えた。
硬い。
温かくはない。
抱き心地など、良くない。
しかし、布越しの角は痛くない。
箱は胸の近くにある。
中身はまだ知らない。
母の言葉は、まだ沈黙している。
セレスティアは、目を閉じた。
すぐに眠れるとは思わなかった。
むしろ、眠れない覚悟をしていた。
だが、身体は思ったより疲れていた。
箱に触れ、持ち上げ、抱え、食事をし、泣き、笑い、寝台まで運んだ。
それだけで、心も身体もくたくただった。
眠気は、ゆっくり来た。
箱の重みが、胸の上で一定にある。
それが少し苦しい。
でも、不思議と安心もあった。
母の言葉が、自分を追いかけてくるのではない。
自分が、開けないまま抱えている。
主導権が、少しだけこちらにある。
「お母様」
眠りに落ちる前、セレスティアは小さく言った。
「今日は、読まないまま、一緒に寝ます」
返事はない。
なくてよかった。
その夜、セレスティアは箱を抱いたまま眠った。
深い眠りではなかった。
何度か目が覚めた。
腕が少ししびれた。
箱が邪魔で寝返りもうまく打てなかった。
それでも、怖くて呼び鈴を鳴らすことはなかった。
明け方近く、ようやく深く眠ったとき、夢の中に母は出てこなかった。
代わりに、白い曲がった刺繍の花が出てきた。
それは布の上ではなく、北方の庭の土に咲いていた。
曲がっていても、咲いている。
誰かの声がした気がした。
母の声だったか、自分の声だったかは分からなかった。
翌朝、ノアが扉越しに声をかけるまで、セレスティアは眠っていた。
目を開けたとき、箱はまだ腕の中にあった。
開いていない。
読んでいない。
でも、そこにある。
セレスティアは、しばらくその箱を見つめた。
そして、小さく笑った。
「重いです」
隣室からノアの声が返る。
「戻しますか」
「はい」
箱は、丁寧に机へ戻された。
布を外す。
蓋は開いていない。
角も傷んでいない。
中の紙も、おそらく無事だ。
セレスティアの腕には、少しだけ赤い跡が残っていた。
それを見て、ノアが言った。
「痛みは?」
「少し」
「記録しますか」
セレスティアは、少し考えてから笑った。
「はい」
帳面を開く。
朝の光の中で、彼女は書いた。
『昨夜、母の覚書の箱を開けないまま抱いて眠った。
開封なし。読了なし。内容確認なし。
接触あり。膝上保持あり。寝台持ち込みあり。
途中で一度泣いた。蓋に水滴あり。拭わず。
夕食は片手で食べた。スープをこぼさなかった。
腕に軽い跡あり。痛み少し。
怖かったが、呼び鈴は鳴らさなかった。
読まなかった。
でも、何もしなかったわけではない。
開けないまま抱えられた』
書き終えると、セレスティアはペンを置いた。
読み返して、少し笑った。
「かなり変な記録です」
ノアも文面を見て、少しだけ口元を緩めた。
「よい記録です」
「スープをこぼさなかった、は必要でしょうか」
「重要です」
「本当に?」
「箱と夕食の両立に成功しています」
セレスティアは笑った。
声に出して。
少しだけ、軽く。
箱は机の上に戻っている。
昨日と同じ場所。
けれど、昨日と同じ箱ではない。
少なくとも、セレスティアにとっては。
触れた箱。
抱えた箱。
眠った箱。
まだ開けていない箱。
その距離は、以前とは違っていた。
彼女は、箱の横に新しい紙を置いた。
『開けないまま抱えられた』
そして、もう一枚。
『読む・読まない以外にも、距離はある』
朝の光が、その二枚を照らした。
セレスティアは、静かに息を吐いた。
今日も読んでいない。
でも、昨日より少しだけ、箱は遠くも近くもなくなった。
ただ、そこにあるものになった。
それは、まだ名付けきれない前進だった。




