第2話「氷の公爵と3ヶ月の猶予」
ヴァルディア公爵邸は、街の中心にそびえ立つ巨大な要塞のようだった。
黒曜石で縁取られた重厚な門扉を抜け、手入れの行き届いた前庭を進む。
踏みしめる白い砂利の音が、静かな空間に異物のように響く。
巨大な玄関ホールに足を踏み入れると、ひんやりとした大理石の冷気が肌を刺した。
高い天井からは豪華なシャンデリアが下がり、壁には歴代当主の肖像画が威圧的に並んでいる。
そこにあるのは、圧倒的な権力と富の匂いだ。
シエルは案内役の執事の後ろを歩きながら、静かに呼吸を整える。
オメガである彼が、公爵邸に足を踏み入れること自体が異例中の異例だった。
すれ違う使用人たちの視線には、明らかな侮蔑と警戒の色が混じっている。
「こちらでお待ちください」
執事が重厚な樫の木の扉を開ける。
通されたのは、謁見の間だった。
床には深紅の絨毯が敷き詰められ、部屋の奥には一段高くなった玉座のような椅子が置かれている。
そこに、彼が座っていた。
ルクス・ヴァルディア。
24歳にしてこの広大な領地を統べる、若き当主だ。
艶のない黒髪が、窓から差し込む光を吸い込んでいる。
氷のように冷たく澄んだ藍色の瞳が、部屋に入ってきたシエルを射抜いた。
息が詰まるような重圧感だ。
これが、アルファの頂点に立つ者の気配だった。
シエルは膝の震えを必死に抑え込み、絨毯の中央まで進み出ると、深く頭を下げた。
「ランベール家次男、シエル・ランベールにございます。本日はお時間をいただき、心より感謝申し上げます」
沈黙が落ちる。
ルクスは表情を一切変えず、ただ静かにシエルを見下ろしている。
やがて、凍りつくような低い声が響いた。
「オメガが一人で陳情に来るとは珍しい。ランベール家の借金の話なら、すでに代官から報告を受けている。私の耳に入れるような内容ではないはずだが」
無駄な言葉を一切削ぎ落とした、刃のような響きだった。
「借金の猶予を願い出たわけではありません」
シエルは顔を上げ、ルクスの藍色の瞳を真っ直ぐに見返す。
「私は、公爵閣下に投資をお願いに上がりました」
ルクスの片方の眉が、わずかに動いた。
「投資、だと」
「はい。我がランベール家が所有する領地の外れに、現在使われていない廃工場と空き地があります。その土地を担保に、新しい事業を立ち上げる許可と、初期資金の援助をお願いしたいのです」
シエルは胸ポケットから羊皮紙の束を取り出し、傍らに控えていた執事に渡す。
執事の手を介して、設計図がルクスの手元に届けられた。
ルクスは無造作に羊皮紙を広げる。
そこに描かれているのは、剣の製法でも魔導具の設計図でもない。
木馬が円形に並んだ奇妙な装置だ。
複雑なレールのうねりだ。
魔力を使って光を放つ街灯の配置図だ。
「なんだ、これは?」
ルクスが初めて怪訝な色を声に滲ませる。
「遊園地、です」
「遊園地?」
「はい。人々が日常の苦労を忘れ、心から笑い、驚き、楽しむための娯楽施設です。魔力を動力源とした安全な乗り物、美味しい食べ物の屋台、光と音楽の演出。すべての人に開かれた、夢の空間です」
シエルは熱を込めて語る。
この世界の人々がどれほど娯楽に飢えているか。
労働の対価として得られる喜びが、いかに人々の生産性を向上させるか。
そして、この施設が完成すれば、領地に莫大な経済効果をもたらし、ヴァルディア家の名声をさらに高めることになるということを。
ルクスは黙って羊皮紙を見つめ、やがて視線をシエルに戻した。
「民が笑顔になれる場所、か」
その言葉を口にした瞬間、ルクスの瞳の奥に、一瞬だけ暗い影が落ちたように見えた。
だが、それはすぐに氷の奥底へと沈み込む。
「机上の空論だ。こんな玩具に、公爵家の資金を投じる価値があるとは思えん」
冷酷な切り捨てだった。
執事がシエルに向かって、退室を促す手振りをする。
しかし、シエルは引き下がらなかった。
「閣下。この領地の民の顔を見たことがありますか」
静かな、だが確かな怒りを込めた声が謁見の間に響く。
「皆、下を向いて歩いています。生きるためだけに働き、楽しみを知らない。それは、豊かな領地とは言えません。私は、彼らに空を見上げる理由を作りたいのです」
ルクスの目が細められる。
アルファに対して、一介のオメガが意見するなど本来なら許されない行為だ。
重苦しい殺気のようなものが部屋に立ち込める。
シエルは拳を強く握りしめ、冷や汗を流しながらも、視線を逸らさなかった。
どれほどの時間が流れただろうか。
不意に、ルクスが息を吐いた。
「3ヶ月だ」
静寂を破る、低い声だ。
「3ヶ月で結果を見せろ。まずはあの廃工場の敷地内で、この図面にあるものを形にしてみせろ」
シエルの心臓が大きく跳ねる。
「ただし」
ルクスの目が、獲物を狙う鷹のように鋭く光る。
「期限内に形にならなければ、または集客が見込めなければ、ランベール家の全資産と土地はこちらが没収する。お前の身柄も含めてな」
それは支援ではなく、失敗すれば全てを奪うという残酷な賭けの提示だった。
オメガであるシエルにとって、身柄を没収されるということは、公爵家の奴隷として一生を終えることを意味する。
それでも。
シエルは、唇の端をつり上げて笑った。
「承知いたしました。最高の楽園をご覧に入れます、公爵閣下」
その不敵な笑みを見て、ルクスは何も言わず、ただ手元の羊皮紙に視線を落とした。
背中を向けて謁見の間を出る時、シエルの足取りは羽根のように軽かった。
夢への最初の扉が、いま開かれたのだ。




