第11話「玉座の前の誓い」
グレンバック侯爵が連れ去られた後も、謁見の間には張り詰めた緊張感が漂っていた。
数十人の貴族たちが、息を殺して玉座の前の二人を見つめている。
ルクスは王に向かって一度だけ深く頭を下げると、ゆっくりと背後を振り返った。
藍色の瞳が、泥と埃にまみれたシエルの姿を真っ直ぐに捉える。
ルクスは静かな足取りでシエルに近づき、その細い手首に触れた。
鉄の枷によって赤黒く痣になった皮膚を、指先がひどく優しく撫でる。
「痛むか」
先ほどまでの冷酷な権力者の声はどこにもない。
そこにあるのは、傷ついた大切なものを慈しむような、低く柔らかな響きだけだった。
「いいえ。もう、痛くありません」
シエルは首を横に振り、涙で滲む視界のなかで、懸命に笑顔を作った。
ルクスから放たれる雪解け水の香りが、シエルの全身を包み込んでいる。
その香りに触れているだけで、オメガとしての本能も、一人の人間としての理性も、全てが安らぎで満たされていく。
その時だった。
ルクスがシエルの手を取ったまま、深紅の絨毯の上で静かに片膝をついた。
絹の衣服が擦れる音がする。
謁見の間にいる全員が、自分の目を疑った。
貴族社会の頂点に君臨する最強のアルファが。
ヴァルディア公爵家の若き当主が。
公衆の面前で、泥だらけのオメガ一人の前にひざまずいている。
それは、この世界において一つの意味しか持たない行動だった。
シエルの心臓が、肋骨を突き破るほどの勢いで跳ね上がる。
「シエル・ランベール」
ルクスの声は、広く高い天井に向かって、誰の耳にもはっきりと届く音量で響いた。
「お前を、私の番にしたい」
静寂だ。
針が床に落ちる音すら聞こえそうなほどの静寂が、空間を支配した。
貴族たちの間から、息を呑む音が連鎖する。
カイエン王子でさえ、手に持っていた扇を完全に止めていた。
番の誓い。
それは、魂と肉体を永遠に縛り合わせる、神聖な儀式。
一度誓いを立てれば、アルファは他のオメガに触れることはできず、その生涯をただ一人のために捧げることになる。
シエルは呆然と立ち尽くした。
前の人生で、テーマパークの図面を幾千枚と描いてきた。
数え切れないほどの物語を空想し、人々に夢を与える空間を設計してきた。
だが、こんな劇的な展開は、どの設計図にも描いたことがない。
オメガという立場で、理不尽に虐げられ、都合のいい道具として扱われるのが当たり前の世界。
その世界で、最も気高く冷たい男が、自分のためだけに全てを投げ打ってひざまずいている。
目から大粒の涙が零れ落ち、汚れた頬に一筋の線を作った。
声が震える。
それでも、シエルは逃げずにルクスの瞳を見つめ返した。
「……ルクス様。一つだけ、聞いてもいいですか」
掠れた小さな声だ。
しかし、その場にいる全員が耳を澄ませていた。
「なんだ」
「同情や、責任感からではありませんか。僕がオメガだから、守らなければならないと、そう思っているからではありませんか」
シエルは息を吸い込む。
「好きで、くれますか」
その真っ直ぐな問いかけに。
氷の公爵と呼ばれ、決して感情を表に出すことのなかったルクスの顔が、ふわりと綻んだ。
春の陽射しが、分厚い氷河を溶かすような。
見たこともないほど穏やかで、美しい微笑みだった。
「ああ」
短く、力強い肯定だった。
「お前が創る景色を、お前が笑う姿を、誰よりも近くで見ていたい。同情などではない。これは、私の意志だ」
ルクスの大きな手が、シエルの震える指先を包み込む。
シエルはもう、言葉を発することができなかった。
ただ、堰を切ったように泣きじゃくりながら、ルクスの手に自分の両手を重ね、深く、何度も頷いた。
謁見の間を包んでいた政治的な緊張は、いつの間にか完全に霧散していた。
そこにあるのは、身分も性別も超えて、ただ互いを強く求め合う二人の人間の姿だけだった。
ルクスが立ち上がり、シエルの身体を力強く抱き寄せる。
その瞬間、ルクスから放たれる清冽な雪解け水の香りと、シエルから溢れ出した焼きたての砂糖菓子のような甘く温かい香りが、目に見えない糸のように絡み合い、一つに溶け合った。
相反するはずの二つの香りが完璧に調和し、謁見の間に満ちていく。
それは、本能と魂が永遠に結びついたことを証明する、オメガバースにおける何よりも神聖な現象だった。
玉座の前で交わされたその誓いは、やがて王国の歴史を変えることの始まりとして、人々の記憶に深く刻まれることになる。




