第10話「玉座の間に落ちる雷鳴」
手首を拘束していた冷たい鉄が、乾いた金属音を立てて石の床に砕け散った。
自由になった両腕が重力に従って落ちる。
その細い手首を、分厚い革手袋に覆われた大きな手が、壊れ物を扱うようにそっと受け止めた。
ルクスの手のひらから伝わる、氷のように静かで確かな熱。
シエルは息を詰まらせ、目の前にひざまずく漆黒の外套を見つめる。
暗い牢獄のなかにあっても、ルクスの藍色の瞳だけが、鋭い刃のように研ぎ澄まされた光を放っていた。
「歩けるか」
鼓膜を低く震わせる声だ。
シエルは何度も首を縦に振り、震える足に力を込めて立ち上がる。
ひざまずいていた冷たい石の感触が足裏から遠ざかり、代わりにルクスの強靭な腕がシエルの背中を支えた。
清冽な雪解け水の香りが、湿ったカビの臭いを塗り潰していく。
鉄格子の外に出ると、廊下の石畳には武装した看守たちが幾人も倒れ伏していた。
血の匂いはない。
ルクスが魔力による打撃で、瞬時に気絶させたのだ。
「行こう。決着をつける」
ルクスはシエルの手を引き、地下牢の螺旋階段を上り始めた。
1段上るごとに、空気が少しずつ温かさを取り戻していく。
松明の煙の匂いが、王城特有の甘く重い香炉の匂いへと変わる。
長い回廊を抜け、二人がたどり着いたのは、豪華な彫刻が施された巨大な樫の木の扉の前だった。
王城の最奥。
国王と重臣たちが集う、謁見の間だ。
扉の向こうからは、耳障りな高い声が漏れ聞こえてくる。
オーウェン・グレンバック侯爵の声だった。
ルクスは歩みを止めず、黒いブーツの底で重厚な扉を蹴り開けた。
蝶番が悲鳴を上げ、巨大な木の板が壁に激突する。
鼓膜を打つ凄まじい衝撃音に、謁見の間に集まっていた貴族たちの肩が大きく跳ねた。
玉座に座る老齢の国王。
その傍らに控える第一王子カイエン。
そして、中央で得意げに弁舌を振るっていたグレンバック侯爵。
全員の視線が、入り口に立つルクスと、その背後に庇われるように立つシエルに突き刺さる。
「ヴァルディア公。貴様、王の御前で何という無作法を」
グレンバックが顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げる。
ルクスは表情の筋肉を一切動かさず、静かな足取りで深紅の絨毯の上を進んだ。
その歩み一つ一つが、空気を凍らせ、重圧となって周囲の人間を押しつぶしていく。
玉座の数歩手前で立ち止まると、ルクスは懐から分厚い革張りの束を取り出し、グレンバックの足元へ無造作に投げ捨てた。
重い音を立てて床に落ちた束から、数え切れないほどの羊皮紙が滑り出る。
「オーウェン・グレンバック侯爵。隣国との魔石密輸記録、国境警備隊への贈賄の証拠、そして今回の捏造工作に関与した暗殺ギルドとの契約書だ」
ルクスの冷徹な声が、広い空間に響き渡る。
グレンバックの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
だらしなく開いた口からは、空気が漏れる音しか聞こえない。
「な、何を……でたらめだ。こんなものは偽造に決まっている」
「全て裏は取ってある。証人もすでに王都の治安維持隊が確保した」
ルクスはグレンバックを視界の端から完全に消し去り、玉座の王へと視線を向ける。
「陛下。私の領地で正当な事業を行っていたオメガの青年を、この男は自らの利権のために陥れました。国家の安全を名目に私兵を動かし、民の笑顔を奪った罪。決して看過できるものではありません」
玉座の傍らに立つカイエン王子の金の瞳が、微かに細められる。
「ヴァルディア公。その書類の束が本物だとして、君はグレンバック侯爵一人を追い詰めるために、随分と危険な橋を渡ったようだな。彼に連なる派閥の貴族たちを、全て敵に回すことになるが」
カイエンの言葉の裏には、暗黙の脅しが含まれていた。
この証拠を突きつけることは、王家の一部にも火の粉が降りかかることを意味する。
政治的な損失は計り知れない。
しかし、ルクスの藍色の瞳は、少しの揺らぎも見せなかった。
「それで構わない」
冷たく、硬い刃のような一言だった。
「私の庇護下にある者を不当に奪い、恐怖を与えた。その代償は、派閥の崩壊程度で足りるものではない」
謁見の間に、息の詰まるような沈黙が落ちる。
シエルは、目の前の大きな背中を見つめていた。
この人は、自分のために。
一介のオメガに過ぎない自分のために、長年築き上げてきた政治的な均衡を、いとも簡単に捨て去ろうとしている。
胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
恐怖で震えていた指先が、いつの間にか熱を帯び、強く握り込まれていた。
老王が重い口を開く。
「近衛騎士よ。グレンバック侯爵を捕縛せよ。直ちに厳密な調査を開始する」
王の命令が下った瞬間、グレンバックの膝が崩れ落ちた。
左右から近衛騎士に両腕を掴まれ、床を引きずられるようにして謁見の間から連行されていく。
見苦しい命乞いの声が、分厚い扉の向こうへと消えていった。
シエルを縛り付けていた不条理な罠が、ルクスの手によって完全に粉砕された瞬間だった。




