□第五章──アルデンヌ攻防戦③
一九四〇年五月二七日。
朝五時に起きた俺は毛布を片付け、洗面具を手に外へ出た。既に廊下は同様に早朝起床した将校たちで埋まっていた。
何とか手早く歯を磨き、顔を洗い、手ぬぐいで顔を拭うと俺は自室で飛行服に着替えた。
廊下に出て、食堂に向かうとそこも既に一杯だった。入り口から見渡すといつものメンバーが一角の四人席を既に確保していた。
「おはよう、彩夏」
「きちんと起きられたようね。彩夏」
「よく眠れました、彩夏さん?」
ニールス、ノア、クレアの順で挨拶してくれることに俺はホッとした。自転する日常──重く暗い秘密を抱えた俺にとって、日常があるのは何よりありがたかった。この幸せがいつまでも続くよう願いつつ、俺は
「おはよう。体調はもう大丈夫だ。問題ない」
応じつつ、トレイを手に朝食を配食から受け取る。コーヒー、ソーセージ、二つに折ったフランスパン半分、それにサラダだった。
トレイを手に三人の元に向かうとそれぞれほとんど自分の分を食べ終えていた。俺は朝食に手をつけつつ、
「みんなも眠れたか?」
と、挨拶を返す。
俺はサラダに口をつけた。昨日の夜は砂を噛むような味だったが、今日は普通だった。コーヒーも相変わらず薄いが飲めないわけじゃない。精神と体調の回復を俺が実感する間、三人が返事を返す。
「まあまあね。熟眠とはいかなくても普通に眠れたわ」
「僕は普通だったね」
「私は緊張もあるのか、あまりよく眠れてないわ。黙っているとあくびが出てしまうくらい」
ノア、ニールス、クレアの順に応じるのを聞きつつ、俺は手早く朝食を済ませた。
「これからの予定はどうなっている?」
ノアに訊ねると、
「〇六三〇に講堂でシャール少佐の訓示、終わり次第出撃準備よ。整備兵がスピットファイアに爆弾を装着、それからCAP──戦闘空中哨戒の機体が一〇機ほど飛んで基地防空を担当、〇八〇〇には全機出撃となるはずだわ」
「いつもの訓練通りの流れというわけか」
「違うのはこれが実戦で、恐らくゲルマニア空軍との戦いになる公算が高い事よ」
「俺たちの任務は……」
「ドラゴンナイトとして、敵戦闘機を一機でも多く撃墜し、味方を援護することね。そして、隙があれば地上目標、敵装甲部隊を攻撃する」
「妥当な話だな。問題は、SS空軍が出て来るかどうかだ」
「向こうもアルデンヌ突破に全力を傾けている以上、総力を挙げて挑んでくるわ。楽観は禁物よ」
「判っている」
俺は相貌を引き締めた。
ノアの言う事は真実だ。
あのマンシュタインなら渋滞まで考慮した作戦計画を立てている。史実でその点の配慮が足りなかったのは、当時の参謀総長がハルダーだったからだ。本来作戦の立案者だったマンシュタインは左遷され、遠隔地から戦いの進捗を見守るだけだった。
今度は違う。
最初から、彼が望んでいた参謀総長の地位に就き、作戦を立てている。当然、制空権についても一定の考慮が為されると見るべきだ。
「万が一、敵の制空隊に遭遇したら、俺たちは味方に先立ってこれに攻撃を加える。いいな、二人とも」
「判ったわ」
「それが妥当だと思います」
ノア、クレアの賛同を受けた俺は、トレイを手に立ち上がった。今のうちに身辺整理をしておこうと考えたのだ。
意志は二人にも伝わったらしい。ノアは、
「ニールスはここで待っていて。私たち三人はまだもう少し、やるべき事が残っているから」
ニールスも俺たち三人の顔つきを見て何かを感じたらしい。
「判ったよ。ここで訓示があるまで、大人しくしているよ」
そう素直に呟くと、コーヒーカップの縁をそっと撫でた。俺たち三人は、ニールスの分のトレイも取って、後片付けをした後、食堂を離れた。
「〇六二〇、ここで会いましょう」
「判った」
「それじゃ」
三人はそれぞれ散っていく。俺は自室に戻り、ロッカーの中身の整理を、二人も恐らくやる事は同じだ。
自室に戻ると、俺はロッカーを開け、中身をチェックした。元々、たいしたものは持ちこんでないので整理は五分とかからず終わった。ベッドに腰掛けた俺は、ジュエルで購入した指輪をいったんリセットした。
ガムラン将軍の録音が消去され、まっさらなそれに戻った指輪に、俺はニールスへの遺言を吹き込み始めた。
その卓越した知性、穏やかな物腰、礼儀正しい態度、なにより戦略学を理解し、本来二時間で終戦に至ったデンマークを一ヶ月間戦わせた胆力……すべてが賞賛の対象だった。
仮に同じ立場に立たされたとき、自分にそれが出来たか? 答は恐らくノーだ。
最後に俺は真実を告白した。
自分は二〇年前の過去ではなく、二一世紀から精神転移した存在である事。戦史の知識があったからこそ、マンシュタインの鎌計画の事を語れたこと。交通渋滞も史実で問題になり、そこがフランス軍唯一の反撃機会であったこと等、思いつくままに話し、最後にこう締め括った。
「君がこの録音を聴いている時、俺は戦死してこの世にいないだろう。俺にとって君は気の置けない弟みたいな存在だった。最後に、君に出会えた事に感謝している。どうかノアと、姉さんと幸せな生活を送って欲しい。君の戦略学の知識を活用すれば、連合軍は必ず勝利できる。それでは元気で。来世でまた会おう。黒田彩夏より」
俺は録音を止めた。指輪に「ニールスに宛てる遺品」とメモを貼り、ロッカーにしまう。
それから〇六一七まで横になり、時間を潰した。時計の針が一七分に達したのを見届けた後、立ち上がりドアを開け、食堂に向かう。
入り口にノアとクレア、それに車椅子のニールスが既に待っていた。
「時間ピッタリね、彩夏」
「部屋の整理は終わりましたか?」
「お蔭で滞りなく済んだよ。二人は?」
「聞くまでもない話でしょ?」
「私は最後までギリギリでした。いろいろありますから」
ノア、クレアの順で応じるのを聞きつつ、俺たちは講堂に入った。既に室内はパイロットたちで一杯だった。壇上には既にシャール少佐が立ち、訓示の準備を始めている。
俺たちは講堂の隅に陣取った。間を置かず副官の声が響く。
「総員、傾聴!」
続いて静まりかえる講堂内にシャール少佐の声が響く。
「諸君、デンマークの戦いに続き、対ゲルマニア戦の始まりだ。今度の雇い主はフランス軍。一昨日、二五日より東ベルギー近辺で本格的な戦いが始まったが、我々はこれを陽動と見て手出しをせずに来た。なぜなら、ゲルマニア軍の本命はこの基地に近いアルデンヌ森林からの進撃にあるからだ」
いったん言葉を切った少佐は俺たちに視線を向けた。
「これらの想定は、若干一四歳ながら戦略学/地政学博士の学位を持つニールス・ニールセン博士と、それをサポートした黒田彩夏少尉によって導き出された。フランス軍総司令部はこれを一笑に伏したが、私、そしてリンデベルン総司令部も二人の見解を支持した。すなわち本日、今この瞬間にもゲルマニア軍装甲部隊はアルデンヌに迫っている」
飛行士たちを見渡したシャール少佐は続けた。
「ここで重要なのは、奴らの戦車隊がアルデンヌに続く街道で渋滞を引き起こしている事実だ。我々は上空からこれを目視、スピットファイアマークⅤに搭載された二発の二五〇ポンド爆弾を以て攻撃、可能な限り敵戦車の漸減に務める。ただし──」
少佐は厳しい顔つきを一層引き締めた。
「ゲルマニア軍も上空護衛の制空隊を投入する恐れがある。その場合、爆弾を棄て、敵戦闘機との空戦に入り、これを撃滅しろ。任務の内容は多岐にわたるが、君たちにはこれらを充分にこなせる力量があると私は信じている。総員、最終準備に入れ。以上だ!」




