□第五章──アルデンヌ攻防戦②
臨時基地の粗末な個室で、俺はぼんやりと目を開けた。カーテンからこぼれる日射しはとうの昔に朝を過ぎているのを物語る。
俺は時計を見た。十一時四〇分。朝寝坊もいいところだ。その刹那、頭の中で彩夏の声が響いた。
(お目覚めか、理人)
「ああ……俺は何時間眠っていたんだ?」
(たっぷり半日以上だ……途中、当直が様子を見に来たが、寝かせてやれとのシャール少佐の配慮で問題ない。普通なら怒鳴り声で叩き起こされるところだがな)
「わかった。ありがとう」
俺は洗面用具を準備すると洗面台に向かった。手早く歯を磨き、顔を洗い、手ぬぐいで顔を拭う。
食欲は全くなかった。昨日の衝撃が脳裏をよぎり、立っているのも辛かった。
部屋に戻った俺に頭の中から彩夏の声が響く。
(理人、あれから「ヒトラーの絞首人ハイドリヒ」を拾い読みしたが、該当個所を見つけた)
「なに?」
俺は思わず声を発した。
昨日の今日でもう見つけてくれた点への感謝と、いったい何名ユダヤ人が殺されたのか、鬱の感情が吹き出して頭が混乱する。
「なんて、書いてあった?」
(読むぞ。『戦争の最初の六週間に殺された一万六〇〇〇名のポーランド民間人のうち五〇〇〇がユダヤ人だった。SS、ドイツ正規軍の双方が、ポーランドの町や村を通過する際に、ユダヤ人の商店や住宅を見かけると、それらを攻撃し破壊する事を忘れなかった)
「五〇〇〇名のユダヤ人が殺されたと言うのか」
(これは最初の六週間の数字で、時間の経過と共にさらに増えているかもしれない。だから、最低五〇〇〇名殺されたと考えるべきだろう)
「最低で五〇〇〇名か……」
五〇〇〇名。
学校一つにつき四〇〇名と考えれば、一二学校と半分の生徒が殺されたことになる。小さな町なら、町の人口そのものが虐殺によって命を落とした計算になる。
「なんてこった……」
(繰り返すが、お前に、理人に責任はないぞ。殺害は一九三九年の九月から十月に起きて、お前が精神転移してきたのは一九四〇年の四月だ。文字通り、何もできない状態だったんだよ)
「…………」
俺は沈黙することしかできなかった。
ホロコーストの事を忘れていてた罪悪感、殺された人々の数の重みがまるで十字架のように背中にずしんと来た。
(とにかく、今は昼飯を食うことだ。このまま何も食べずにいると、肝心の明日、戦えなくなってしまう)
「判った。食堂に行くよ」
洗面用具を定位置に置き、俺は重い足取りで食堂に向かった。他にだれともすれ違わなかったのは幸いだった。挨拶を交わす気力も無かった。
とはいえ、食堂に入ればそうもいかない。そして、案の定──。
俺にとって大切な三人がこちらに顔を向けていた。
「おはよう、彩夏」
「随分と遅い出勤ね、こういうの、重役出勤って言うのかしら?」
「彩夏さん、顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
ニールス、ノア、クレアの順で話しかけてくるのを俺は曖昧な微笑で誤魔化しつつ、押えた口調で言った。
「疲れがたまっていたんだよ。疲労のピークが来て、それでこんなことになった」
「明日は全力出撃なんだから、体調を整えなさいよ」
「朝ご飯抜きですから、昼食はしっかりとってくださいね」
クレアの言葉に俺は得も言われぬ重みを感じ、思わず胃を抑える。
昨日と変わらない、朗らかな笑顔に激しい罪悪感を感じた。
俺が元いた世界のユダヤ人と、この世界におけるサミア人はほぼ同じ。
なのに俺は、ユダヤ人大虐殺六〇〇万名も、ホロコーストの事も、ポーランドで五〇〇〇名のユダヤ人が処刑されたこともすっかり忘れ、今まで呑気にメシを食い、戦技訓練に明け暮れていた。
一瞬、俺は自分の秘密の全てをこの場でぶちまけたい激しい衝動を感じた。
二〇年前の日本から精神転移をしてきたというのは、自分の身を守るための嘘だった。国語教師も嘘だ。本当は二一世紀から精神転移したリハビリ中の軍事ライターで病人だった。何もかも嘘で抜け固められたのが、鳥飼理人、こと、黒田彩夏の真実なのだ、と。
その刹那、頭の中で彩夏の冷静な声が響いた。
(気持ちは判るが、抑えるんだ、理人)
俺は歯を食いしばり、心の中で返事をした。
『彩夏、俺の考えが判るのか』
(以心伝心だよ、理人。いや、お前の激しい葛藤が俺の心に届いたと言った方が正しいかな。とにかく、今、真実を明かすのはやめるんだ)
『なぜ?』
(今知ったら最後、明日には全員、戦闘不能になる。激しい衝撃を受け止めるのに、人の心はそれほど強くない。特にクレアは、下手をすると再起不能になるぞ。自分の同胞が六〇〇万名も殺されたんだ)
『……判った。彩夏、指示に従おう』
俺は三人に対し無理に笑顔を作り、言った。
「ありがとう。今日はとにかく、一日のんびりして体調を整えるよ」
「明日は五時起床よ。いつもより一時間速いから、気をつけて」
ノアの声に俺は頷き、トレイを取った。手順に従って基地の定食を入れていく。
それから苦労して昼食を取った。味はほとんど何も感じなかった。
その頃、フランス軍参謀本部では、ガムラン最高司令官が苛立ちを隠せぬ表情で机上の作戦地図に向かっていた。
「ベルギー上空の制空権はどうなっている? 現状を見る限り、あまり芳しくないように思えるが……」
参謀の一人が声を発した。
「端的に申し上げれば、ゲルマニア側に押されています。こちらも出撃可能な戦闘機は全て出撃させ、全力で防空戦を戦っておりますが、数、質ともにゲルマニア側が優勢です」
微かな舌打ちをしたガムランは参謀をじろりと見た。
「リンデベルンの傭兵共が確かスピットファイアマークⅤを八〇機ほど持っていたはずだ。それを注ぎこむよう命令を出せ」
参謀は恐縮したように頭を下げた。
「既に出しておりますが、先日リンデベルンのオイラー大尉と交わした対話を、お忘れですか?」
一瞬、ガムランは戸惑った表情になった。
「どういうことだ?」
「電話で命令を出したところ、録音を再生されました。それには『貴官等が我がフランスの危機と感じたとき、自由に動けばいい。少数傭兵に対する統率など、正規軍から見ればおよそ管轄外だ』と閣下がオイラー大尉に発した音声が……」
「あの件か……」
ガムランは怒りの声を発した。
「まったく、性根の腐った傭兵共め! 金を得ることと他人の揚げ足を取ることしか出来んのか!」
「はあ。しかし閣下自ら発せられた言葉を盾に取られるとこちらとしても……」
「もういい! 奴らなど当てにせず、放っておけ!」
ガムランは手にした鉛筆をへし折り、怒鳴った。
「現状がフランスの危機でないとするなら、奴らの認識は完全に間違っている。もう二度と、リンデベルンの傭兵は使わん。奴らにも電話でそう伝えろ」
「しかし司令官、奴らは明日早朝、出撃すると言ってきました」
「明日?」
「アルデンヌ方面に全力出撃するそうです。何でも渋滞にはまったゲルマニア装甲部隊を叩くとか……」
「渋滞だと?」
「それを叩けば、ゲルマニア装甲部隊の七割を殲滅できると試算しているようです」
「馬鹿馬鹿しい。アルデンヌの状況は異状なしなのだろ? そんなものはアリバイ作りの出撃にすぎぬ」
ガムランは吐き捨てるように告げるや、作戦地図を見た。
「我々にとっての決戦の場は、北部ベルギーだ。偽りのアルデンヌ進撃作戦など、誰が騙されるか。馬鹿馬鹿しい」
議論を打ちきったガムランは、参謀に命令を下した。
「とにかく今は、一機でも多くの戦闘機をベルギー北部に送り出す事だ。後方に温存していた戦闘機隊に命令を出せ。空軍に出撃命令を出すんだ」
「はい」
命令を受けた参謀は慌ただしく命令を起草し始めた。その様子をウンザリとした表情で眺めつつ、ガムランは鼻を鳴らした。
「アルデンヌに敵装甲部隊の七割が集結だと? 馬鹿馬鹿しい。絶対にあり得ん」




