□第五章──アルデンヌ攻防戦①
その後、数時間の事は、記憶が混濁してあまり覚えていない。
食堂で不味い飯を無理矢理喉に押しこみ、出がらしのコーヒーで流しこむ。
それが終わってから自室に引きこもった。
ニールスの説明が頭をよぎり、それを反復した。
──保安諜報部──SDの創設、ゲシュタポとSDが統合され、国家保安本部に改称、責任者としてラインハルト・ハイドリヒが任命された。彼が所属しているSSは、ゲルマニアにおける警察実権と諜報・秘密国家警察や強制収容所の管理運営権を掌握している。
それが虐殺だと?
一体どうして?
頭の中が混乱し、Bf109Fから降りてくる飛行士姿のハイドリヒと重なった。心の中で彩夏の声が響く。
(落ち着いたか、理人)
心の中の対話で歯を食いしばっているのも苦しいので、俺は声に出して答えた。
「なんとかな。虐殺者って、どういうことだ? いったい何を根拠に……」
(図書館の資料発掘でやっと見つけたんだ。半分焼け焦げているが、表紙と帯はしっかりしている。タイトルは『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』。帯にはこうある。『ホロコーストの悪名高い主犯の生涯。トーマス・マンに「絞首人」と呼ばれ、「ユダヤ人絶滅計画」を急進的に推進した男の素顔に迫る。最新研究を踏まえた、初の本格的な評伝』)
「著者の名前は判るか?」
(ロベルト・ゲルヴァルト。一九七六年生まれのドイツ人歴史家だ)
「待ってくれ。そもそもホロコーストって何だ? 何を意味する言葉なんだ?」
(これも本を見つけた。その名もずばり「ホロコースト」中公新書が版元で、著者の名は芝 健介。その中のまえがきにこうある。「ホロコースト(holocaust)とは何か──。現在では、特にナチ・ドイツによるユダヤ人大量殺戮を指す……ちょっと略すぞ。ナチ・ドイツが敗北する四五年五月までのあいだに、およそ六〇〇万人のヨーロッパのユダヤ人が殺害された。一民族が、これほど多く、組織的に殺されたケースは歴史上存在しない」)
「六〇〇万人のユダヤ人大虐殺……それにハイドリヒが関わってると?」
(間違いない。全ての虐殺に関わっているかは判らないが、ユダヤ人大量虐殺の中核にいた人物なのは明らかだ)
「なんてこった……」
俺はある種の自己嫌悪に囚われていた。そんな大事なことを、なぜ思い出さない?
なぜだ?
「どうして俺はそんな大事なことを……ユダヤ人迫害までは思い出せたのに……ホロコーストの事を完全に忘れていたなんて、どうかしている」
(精神転移時に忘れてしまったんだろう。それとも医者の処方した薬が効きすぎ、その段階で記憶がごっそり抜け落ちたか……少なくても理人、お前のせいじゃない)
「この世界でも、虐殺は起きるだろうか?」
(今のところ、お前の元いた世界とこの世界の違いは、ドラゴンが出て来る事と、ユダヤ人がサミア人に置き換わっているだけで、基本は同じだ。あとはそんなに変わらないだろう。このまま放置すれば、そうなる可能性が高いと思う)
「いつから始まる? いや、もう始まっているのか」
(ポーランド戦から既に始まっている。SSはアインザッツグルッペン──特別行動部隊と呼ばれる殺人部隊を組織し、後方治安を確保しつつポーランドの知的階層、すなわち教員、聖職者、貴族、退役軍人、そしてユダヤ人の排除、抹殺を実行している)
「どれくらいの数が殺されたんだ?」
(芝 健介氏の本では、人数までは書いてない。ただし、散発的に展開したとあるから、一〇万人を超えるような数じゃないだろう)
「一〇万人は超えない……か。それは免罪符になるのか?」
(落ち着いて考えろ。一つ。お前はホロコーストに関する記憶を失って精神転移した。二つ。精神転移したのは一九四〇年、ポーランド戦は一九三九年。つまり、介入できる時はとうに過ぎ去っていた」
「ポーランド戦、『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』でも触れてないか? ユダヤ人が何名殺されたか知りたいんだ」
(たとえ知っても今から何かができる訳じゃないぞ)
「それでも知りたい。これから戦う相手がどれほど残忍なのか、知っておきたいんだ」
彩夏は諦めたようなため息をついた。
(判った。調べておこう。本が焼け焦げてると言っても読めないわけじゃない)
「ありがとう。深く感謝するよ、彩夏」
(いいんだ。俺たちは二人三脚、持ちつ持たれつだろ。とにかく今は休め。俺にも休息が必要だ)
「判った。お休み、彩夏」
(ああ。しっかり眠って、明後日の激戦に備えろ。パイロットは休むのも仕事のうちだぞ、理人」
「…………」
二七歳の俺が、一六歳の少年、彩夏に慰められている。
情けない。
本来なら、俺は大人として彩夏を導く立場にあるはずだ。それがここでは正反対、少年から助言と励ましを受け、やっとの事で戦場に立っている。
俺はベッドに横たわり、目を閉じた。やがて睡魔と共に暗黒の闇が訪れる。
その頃、ラインハルト・ハイドリヒはベルギー郊外に国家保安本部の臨時指揮所を構え、実務に当たっていた。飛行服から着替え、国家保安本部長官の制服を着て書類仕事に当たっていた。
不意に控えめなノックの音が響く。
「入りたまえ」
ハイドリヒがそう告げると飛行服の女性士官が入ってきた。金髪碧眼、絵に描いたような美しいSS隊員の姿がそこにあった。
ただし小柄だ。身長は一五〇センチもなく、年かさも十代半ばだろう。
「ユリア・ベルトラムSS空軍中尉、御命令により出頭致しました」
「ご苦労、中尉。楽にしてくれ」
「はい」
中尉の声にハイドリッヒは上機嫌に応じた。
「今日の戦果は何機かね、中尉」
「三機です。デヴォアティーヌ D.520戦闘機を三機撃墜しました」
「それは素晴らしい。私は二機に留まった。中尉の勝利だな」
「たまたま運が味方しただけてす。ロッテを組んでいた同期にも助けられました」
「D.520は操縦性に優れる戦闘機だが、こちらは優速を生かし、徹底した一撃離脱をもってすればさほど脅威ではない」
「はい」
「とはいえ、フランス人も必死だ。明日の出撃は見合わせる事を全隊に通知してくれ」
「了解致しました」
「我々にとっての本番は、明後日のアルデンヌだ。それまでの消耗はある意味、無駄死にに等しい」
「ルフトヴァッフェはベルギー攻撃の手を緩めないでしょう」
「奴らは奴ら、我々は我々だ。出撃がない以上、搭乗員にはゆっくり休息を取らせろ。いいな」
「了解致しました」
「うむ。それと、ドラゴンの用意は出来ているな、中尉?」
「はい。完熟訓練途中ですが、八割方仕上がっています」
「明後日のアルデンヌではドラゴンを試験投入する。君はドラゴンナイトとして出撃、万が一の敵遭遇に備えるのだ」
「はい。今回の抜擢に深く感謝します、大佐」
「要件は以上だ。下がりたまえ」
「はい。ハイル……もとえ。失礼します」
「まだ、ハイル・ヒトラーとつける癖が直ってないようだな、中尉」
狼狽したようにベルトラムは言った。
「申し訳ありません。つい癖が抜けず……」
「私も最初は苦労したよ。おいおい慣れることだ」
「では、あらためて失礼します、長官」
こうしてユリア・ベルトラムSS中尉は退出した。苦笑と共に書類に向かうハイドリヒの元に、再びノックの音が響く。
「入りたまえ」
ハイドリヒが告げると、短髪面長のSS大尉が入ってきた。
「アロイス・ブルンナーSS大尉、御命令により出頭しました」
「ご苦労。楽にしてくれ」
「はい」
「どうだね、ベルリン、サミア人課の様子は」
「現在滞りなく任務を遂行中です。詳細はこちらに……」
と、ブルンナーはハイドリヒにファイルを手渡した。受け取りつつ、ハイドリヒは再び苦笑した。
「まめなことだな。どうだね、マイスターの様子は?」
「閣下が戦闘機に乗ることに未だ不安を隠せずにいます。仮にもし、万が一の事があれば我々はどうなるのかと……」
ハイドリヒの口調が皮肉を帯びたものになった。
「まったく……アドルフ・アイヒマンの心配癖は簡単に抜けんな。君も彼の副官なのだから、その辺は助けてやれ」
「はい。努力します」
「他には?」
「例の謀略が上手く行くかを気にしておられます」
「あれか……ロシアに対する謀略を途中で打ち切り、ブリタニアに仕掛けた大きな罠だからな。現地工作員の報告では、上手く行っているようだ。既にチャーチルに偽装書類が渡っているとも聞く」
「それは……素晴らしい話です」
「上手く行けば、フランス戦の途中で成果が出るかもしれん。その辺も、心配するなとアイヒマンに伝えたまえ」
「はい、閣下」
「下がってよし。ああ、それと……挨拶にハイル・ヒトラーとつけるのは禁止になったから気をつけろ。先刻も私の部下がうっかりやりかけた」
ブルンナーは怪訝な面持ちで返した。
「暗号解読のきっかけになる定型句を防ぐため、という説明に納得はしましたが、本当に効果があるのでしょうか?」
ハイドリヒは奇妙な笑みを浮かべつつ言った。
「ブリタニアはこちらのエニグマ暗号を解読しようと死に物狂いだ。それを防ぐ策が一つでもあるなら、積極的に実施せよとの総統命令だ。我々はそれに従っているに過ぎんよ」
「その辺の助言も、全てはあの御方……ということですか?」
「OKH──陸軍総司令部と総統との関係が穏便なのもあの御方の助言があればこそだ。カイテルの干渉をはね除け、マインシュタインの鎌計画が順調なのもそのためだろう」
「あとは我々が、それを効果的に支援するだけというわけですか」
「そこで役立つのが我等がSS空軍だ。全隊員が最新鋭のF型を装備し、フランス空軍相手に優勢に戦いを進めている」
「しかし、何も長官自らが先頭に立たずとも……」
「指揮官先頭、率先垂範は士気昂揚の基本だ。指揮官が臆病風に吹かれてどうする。まあいい。明日は私も決戦に備え、ゆっくり休むつもりだ。アイヒマンにもそう伝えろ。心配性のマイスターも少しは落ち着くだろう」
「はい。それでは失礼します」
そうしてブルンナーは退室した。
ドアが閉まる音と共にハイドリヒは制服の襟を緩め、小さなため息をついた。
机の引き出しからコニャックを取り出すとコップに四分の一ほど注ぎ、啜り始める。飛行前日の飲酒は基本厳禁だが明日は本当に休むのだから構わないだろう。
サミア人虐殺の中核を為す人物にも休息は必要だった。




