第一章──はじめの一歩③
「すまない、ニールス。ラインハルト・ハイドリヒについて教えてくれないか? どういう訳か、その名は知っていてもなにをした男かの記憶がないんだ」
(なんだって?)
心の中で彩夏が声を上げる。俺は
『今言ったとおりだ。名前を聞いたことがあるが、詳しい記憶がない。彩夏、そっちで俺の頭の中の図書館から調べてくれないか。著名な人物ならたぶん本になって出ているはずだ』
(わかった。書庫は半壊状態だけど、なんとかやってみる)
『頼む』
心の中で返信している間にニールスがこちらの質問に答え始めていた。
「ラインハルト・ハイドリヒか……僕もそんなに詳しいほうじゃないけど、ヒムラーの次席にある立場で、実質SSを動かしているのがハイドリヒだよ。一部ではナチスの実質序列第三位とする意見もあるから、SSの中で強大な権力を持っている事は確かだね」
「SSがやっている事は秘密国家警察で、国内に潜む共産主義者の摘発や反政府分子の摘発をやっている、であっているんだよな」
「その理解で合っていると思う。とにかくこの組織については判らない事が多すぎて、どの国の諜報部も実態把握に苦労しているみたいだよ。ひょっとしたら、ゲルマニアの政府高官すら把握できてないかもしれない」
「そんな怪しい組織が武装組織を持っていて、それがいわゆる武装SS?」
「最初は小規模だったけど、ポーランド戦直前の演習でヒトラーに“熱意”が認められ、師団規模の編制になった。それと類似した設立経緯として、武装親衛航空隊も創設された」
「武装SSは空軍も持っているのか?」
「うん。小規模ながらドイツ空軍と同じ装備を持つミニ空軍だよ。ドイツ空軍との違いは戦闘機の機体が黒色塗装されている事と、ルーン文字でSSと尾翼に記されている点かな」
「そいつの指揮官は?」
「これもラインハルト・ハイドリヒだと言われている。国家保安本部長官と兼任でやっていて、親衛航空隊における階級は大佐らしいよ」
思わずため息が出た。
「よくもゲーリングが認めたものだね。空を飛ぶモノは何でも空軍所属と執着しているゲーリングが……」
「その点はヒトラーがハイドリヒを高く評価しているのが大きいんだろうね。おまけに自身も戦闘機パイロットだったから、操縦桿を握る指揮官の存在に抵抗感があまりなかったんだろうと思う」
「組織面の掌握はだいたいこんな感じでいいかな。次の問題は……」
「ゲルマニア軍が次にどこを攻撃するか、だよね」
俺は壁に掛かっていた小さな地図を外し、テーブルに広げた。地図の範囲はヨーロッパ全域だ。
ニールスは指でたどりつつ説明を始める。
「まずは、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの小国三カ国。それが済んだら本命のフランスだね。ポーランド戦が始まった直後、ブリタニアとフランスがゲルマニアに宣戦布告したのは知ってるよね?」
「それを考えると、ゲルマニアが半年以上もフランス相手に本格的な攻撃をしなかったのは不思議だな。ニールスはどう思う?」
「まずはポーランド戦の損害がそこそこ大きかったのが大きいかな。損害を回復し、部隊を再配置するには思ったより時間がかかる。それと参謀総長のマンシュタインが飛行機事故で重傷を負ったのも……」
「マンシュタインが事故? いつ?」
「情報によれば、去年の一〇月頃らしいよ。その間、フランツ・ハルダー大将が代理として対仏戦の作戦計画を組むよう命じられたけど、彼の能力じゃ対応できなかったのが大きいと思う」
ハルダーは元の世界における陸軍参謀総長だ。史実では三度にわたり作戦計画を立てたがそれらはいずれもヒトラーを満足させられず、結局二月一七日、ベルリン総統官邸の朝食会に軍団長のマンシュタインを招く口実を経て最終作戦案が実現した。
「それで、マンシュタインが現場復帰をしたのは……」
「今年の二月以後らしいよ。だから作戦案の大幅な修正があったとすれば、当然それ以後だね」
「三月に作戦計画を立て、今は五月か……デンマークが五月九日に降伏、ノルウェーが十一日に降伏したから、航空戦力やドラゴンの大半も対仏戦に注ぎこむ算段が整いつつあるかもしれない」
「重要なのは、どこに主攻軸──攻撃の主要な方向を持っていくかにかかっていると思う」
「ニールスなら、フランスをどう攻撃する?」
「保守的なハルダーなら、第一次世界大戦で実施したシェリーフランプランの焼き直しを提案、その辺をヒトラーに拒否されたと思う。でも、マンシュタインなら……」
一瞬考えこんだ少年は、地図に指を滑らせ、ある一点で止めた。
「ここだよ。アルデンヌの森に、ドラゴンと装甲部隊の大半を突入させ、一気に突破を図る」
「まさか……!」
俺は一驚した。
ニールスの立てた作戦は、まさにマンシュタインが立案した「鎌」作戦そのものだった。
ニールスは続けた。
「ドラゴン、装甲部隊の約七割をアルデンヌの森に集中させ、国境を突破、ここからフランス領セダンを占領、あとはこのまま海岸に進軍を続け、沿岸のカレーまでたどりつき、フランス軍を撃滅する」
「アルデンヌの森は地形が険しく、戦車の通行が出来ないという話もあるが……」
「フランス軍もそう思っているからこの地区には若干の歩兵師団しか置いていない。でも、デンマーク情報部の調査では、アルデンヌの森は戦車突破が可能なんだ。訓練を経た戦車部隊なら、森を抜けて一気に進軍できる」
俺は唖然としてニールスを見た。
まさにマンシュタインの構想そのものが少年の口から語られている。フランス戦を大勝利に導き、作戦の神様と称されたマンシュタインと同等の構想が目の前で即答として語られたのだ。
「連合軍の作戦計画はどうだろう?」
ここまで見抜いたニールスだ。俺は期待をこめて青い瞳を見つめた。
「ゲルマニア軍の攻撃開始と同時に、連合軍はベルギーに進出、ディール河沿いに戦線を引くだろうね。主力部隊をベルギー北部からオランダに進出させることでゲルマニア軍を拘束、突破を防ぎ、持久戦にもつれ込む計画を立てるはずだ」
これも正解。
元いた世界でこれは「ディール計画」と呼ばれ、マンシュタインの立てた「鎌」作戦との相性は最悪だった。連合軍がディール計画に沿ってベルギー北方からオランダに進出するほど、アルデンヌを突破したドイツ装甲部隊は連合軍主力の側背から沿岸への突破が容易になってしまうのだ。
これをイギリスの軍事評論家バジル・リデル=ハートは「回転ドアの効果」と呼んだ。
両軍の主力部隊の動きがさながら回転ドアが回るように機能し、ドイツ軍の進撃を大いに助ける形になるからだ。
むろん、これは最初から両軍が意図したものではない。互いに相手の裏を掻き、意表を衝く行動をすることそのものが一種の相互作用を呼び、一方に大きな戦果を呼び寄せる形になる。
「連合軍の作戦計画がニールスの言ったとおりなら、連合軍は……」
「惨敗は確定だね。フランスは一ヶ月も経たずに敗北すると思う」
「第一次世界大戦じゃ四年経っても倒せなかったフランスが、一ヶ月で敗北か。まさに電撃戦だな」
「電撃戦……ゲルマニア語ではブリッツ・クリークだね。ゲッベルス宣伝相が喜んで使うような名称だ」
俺はため息をついた。
この世界でもゲッベルスは宣伝相としてヒトラーの腹心を務めているらしい。それに関して聞きたいこともあるが、今は軍事問題に集中しよう。
「ともあれ、ニールスの作戦構想は判った。連合軍の作戦計画と合わせて、最も危険な相互作用を持つ計画として、概要をシャール少佐に提出しよう。そこから先は……」
「リンデベルンの参謀本部が検討、フランス、ブリタニアの参謀本部にも検討を依頼し、対抗策を練る。そんな感じかな」




