エピローグ『ロストレンジ』-1
エピローグ『ロストレンジ』
光の中で、女は目を覚ました。
招かれざる『来訪者』に襲い掛かった、そこまでの記憶はある。
しかし銀髪の女には、突如現れた光の渦に巻き込まれ、その後自分がどうなったのかが全く思い出せなかった。もちろん、完全な記憶喪失に陥っているわけではない。女はあくまで『アンゴルモア』を名乗ったままの異形に違いなかった。
ただし、布団に寝かされている、という異常事態ではあったが。
「……ど、どういうことだ? ここは一体……、痛ッ」
体を起こそうとすると、全身にあり得ないほどの痛みが走った。
「がッ、怪我だと? 馬、鹿な……、私が?」
不死身のはずの肉体は、みるからに傷だらけだった。
傷の回復が異様に遅い……否、復元能力そのものが機能していない。不死の力が消えたとでもいうのだろうか、女はますます混乱した。
満足に体が動かせないので、女は枕に預けたまま、周囲を観察することにした。
はじめに分かったのは、ここが天井の隙間から晴天の破片が見えるほど、みすぼらしいあばら屋だという事だ。自作と思われる神棚は、左右のバランスを欠いて見事に傾いている。彼女がさらに首を回すと、ボロ雑巾同然の麻布で組まれた上着が一着だけ、天井の梁に干してあった。
他に何かないか、女は再び首を回そうとして――、
「――、生き返っとるなー」
「きゃああああああッッッッ!?」
柄にもない声を上げてしまった。
女の目と鼻の先、額が擦り合うような位置に、山のような巨躯があった。
骨太の顔に似合わない小さな瞳を持ち、熊の毛皮を頭から被った狩人のような男である。上背が異様に大きい、完全に二メートル半は超えているだろう。本当に人間なのか怪しかった。
熊よりも熊のような男は、顎髭をこすって困り顔になる。
「そうか、生き返ってしもうたかー。それじゃあ、喰えんわなぁー」
物騒に過ぎる発言を残し、のそのそと戸口から表へ出て行った。
「……なんだアイツは?」
精神的脅威が去ると、銀髪の女は少しだけ冷静さを取り戻す。
そしてすぐに混乱した。
人が、いた?
今の男。人間かどうかは怪しいところだったが、生物には違いあるまい。
「まさか、『あの世界』から抜け出せたのか?」
信じがたい思いに駆られ、とにかく女はすぐにでも外へ出てみたかった。
緑はあるのか? 動物はいるのか? いやそれよりも、あの男以外に人間がいるのか?
しかし、体はやはり動かない。綿の詰め具合をけちった掛け布団の重みでさえ、今の女には押し返す事ができなかった。女は自力での移動は無理だと悟り、諦めて天井にき直る。
そこで、干されていた着物に、一匹の蝶が留まっているのが、見えてしまった。
「……………………あ」
「――、うおッ? 今度は泣いとる!?」
表から戻ってきた山男が、女の顔を覗き込んでいた。
「な、泣くか馬鹿者ッッ! ……ちょっと待て。なんだ貴様、その髪の色は?」
男は、先程まで頭に被っていた熊の毛皮を付けていない。
代わりに今は、その下に隠れていた『赤髪』が晒されている。……見覚えのある、赤い髪だった。
それを見ただけで、銀髪の女には全ての合点がいった。
「……小娘は『この未来』を、あの時点で読んでいたのか」
女は自分が殺そうとした二人の少女を思い出す。そのうち、髪を纏めていた方の戦い方に、妙な郷愁を感じた瞬間があった。
つまり、あのカウンターは当然の帰結だったのだ。
「借りが、できてしまったな」
自分の顔を覗きこもうとする男を、女はもう一度確認した。だが彼女にはどう頑張っても、あの美しい少女と目の前の山男に、『髪』以外の共通点を見い出す事はできなかった。
それにこの男、よく見れば片腕である。とはいえ、残る一本に常人の三倍は太さがあるが。
女の視線に気付き、男はない方の腕を隠すどころか、誇らしげに掲げてみせた。
「これが気になるか? これは生まれつきじゃぁ。髪の色も生まれつきじゃぁ。可笑しかろ? 可笑しかろうよ。儂も可笑しいわ、がっはっはっは!」
それは一般的に、悲劇、と分類されるだろう。
少なくとも女はそう思ったし、コイツは絶対阿呆だ、とも思った。
「しっかしまぁ、見つけた時はおっ死ぬもんだとばっかり思っとったが、なかなかどうして、お主頑丈よなぁ。髪も儂に負けず劣らず豪快な色じゃし、胸尻もでかいしの。ああ、アレか? お主、ひょっとして蛇穴山のヤマガミサマか? がっはっはっはっは!」
遠慮の欠片もない男の笑い方が、女はひどく癇に障って仕方がない。本人にその気はないのだろうが、どうにも無闇に馬鹿にされている気がするのである。言動に知性が感じられないのだ。
大体、ヤマガミ云々と彼女の胸尻の大きさに、何の関係があるというのだろう。
「……、馬鹿笑いしおって、人間風情が」
「がっはっはっはは……、あん? お主、もしかして怒ったか?」
「驕るな人間。私、いや、我は――、〈白蛇〉。そう、我は『蛇穴の白蛇』よ。……決めたぞ。今日この日より、貴様のその性根、叩き直してくれる」
「や、ややややっぱり本物の神さんじゃったかあぁっぁぁああーッッ!?」
男は神の口上を信じ切り、慌てて横柄な態度を一転させると、土下座を始めてしまう。小さく折りたたまれた巨躯が床に額を打ち付けるたびに、あばら屋全体が不安なほどの軋みをあげた。
女は布団を被りながら、怒ったように男を睨んでいたが、
「…………くす」
しかし、すぐに堪えきれなくなった。
「……な、なんじゃぁっ? 神さん、今度はどうなってしもうたんじゃぁ?」
恐る恐る、布団を盗み見た男は……、その瞬間、息をするのを忘れてしまう。
アンゴルモアが人生百回分の時間を費やしても、手に入れる事ができなかった可能性。その可能性が今、現実のものになっている。
銀の前髪で隠すように、太陽の眼は弓なりになっていた。
白磁の頬を緩ませて、桜色の唇は穏やかに広がっている。
そして透き通るような声を上げながら、
一万年前の娘は、一万年ぶりに笑っていた。
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