第5話『整合する事情たち』-7
「……ねぇ綾、一ついい?」
「言わなくてもいいよ。……これ、たぶんあたし達が一番『ハズレ』を引いてる」
また、くる。
百メートルほど先で、アンゴルモアの疾走が砂煙をあげていた。
世界は紅のカーテンに染められていく。
元は市街地だったのか、とにかく建造物が乱立する区画へ逃げ込んだ二人の朝霧綾は、手頃な遮蔽物に身を隠したところで二手に分かれた。
大通りから吹きつける砂風は、建造物の風化を促進させている。
嵐のような砂煙に眼を細めていた綾には、この風景がどこかで見覚えがあるような気がした。ここへきて、彼女にはまだ、頭の中で何かが引っかかっている。この事件の根本に関わるような、何かが。
突如、砂塵の中から飛び出したブーツを、綾は全身全霊で回避した。
「セッ!」
綾は突然飛んできた蹴りをよけざま、正拳を見舞うが、その腕をアンゴルモアは難なくキャッチする。
この視界の悪さでそんな真似ができるのは、尋常の反応速度ではない。白仙使いは捕られた腕を支えにして、回し蹴りを敵の顔面へぶち込み、力が緩んだ隙に腕を外して脱出する。
だが、横合いに跳ねた赤髪の影へ、長身銀髪の女は流れるように追っていた。
耳元からほんの数センチの距離で轟音が弾ける。それが、背後の壁をこの女が拳で爆散させたものだと気付くまで、綾はしばらく時間がかかった。
爆風に煽られて腹這いに倒れたコートの上から、アンゴルモアの容赦ない追撃が行われる。
ブーツの踵だ。仰向けに転がった綾の、顔の真上にそれがある。
直撃したら、終わる。
とっさに出た技の名は、白仙『反鏡幽幻』。綾はうねるような高速の体捌きで、あたかも鏡合わせに自分と位置を入れ替えたような錯覚を、銀髪の女に引き起こさせた。突き落されたブーツの踵は、顔面と錯覚した岩の塊を、ものの見事に踏み砕く。
技の反動で跳ね起きた綾は、自分とアンゴルモアを囲むように反り建った、廃墟の壁を蹴りつけ宙を舞う。白仙『天翔運足』、重力に逆らって空中で体勢を整えた彼女は、銀髪長身とのすれ違いざまに膝を打ち込んだ。白仙では、この体勢から放つ蹴撃を『竜尾』と呼ぶ。
思わず体勢を崩したアンゴルモアの眉間、顎部、側頭部に、綾の掌打、裏拳、鉤突きが続けざまに突き刺さる。すべての攻撃に、白仙で運用される気功術が全開で駆使されていた。
白仙使いが繰り出したこの怒涛の連続技に、さしもの怪物もたたらを踏んで、驚異的な動きを鈍らせる。――、その脳髄を、タイミングを見計らったリョウが放つ、神出鬼没の魔拳“無距離の決闘”が掻き回した。
声もなく崩れ落ちた銀髪の女の前から、綾は一目散に離脱する。
いくら攻撃しても、どれだけ致命傷を与えても、アンゴルモアは必ず立ち上がるだろう。すでに綾は、この数分でそれを嫌というほど思い知らされている。
白仙使いが瓦礫の山を飛び越えていくと、彼女の危機を救ったリョウが路地の入口で待っていた。
「な、ナイスアシスト。助かったよ……」
路地裏に逃げ込みながら、綾が疲れを隠さずにそう言うと、真後ろを走るリョウは同じ声で笑って、
「そりゃどーも。……それにしても、アンタ凄いね。さっきの、空手か何か?」
いきなり、聞き捨てならない事を口走った。
「な、なに言ってんのよ? 『白仙』。じいちゃんから教えてもらったでしょ?」
「ハクセンって、なに? っていうか、アンタのじいちゃんまだ生きてるの?」
「えええッッ! あんたのじいちゃん、死んじゃったのッ!?」
仰天する綾とは対照的に、リョウは悩ましそうに眉根を寄せている。彼女は細い顎へ人差し指を当てながら、もう一人の自分に驚くべき事実を語った。
「それ、アタシが生まれる前の話だよ。戦争で死んじゃったって。顔だって、写真でしか見た事ないし」
「うそ……」
予想外の事実に、綾の思考回路は静かに処理速度を増していく。
B面には『白仙』の継承者が存在していない?
白仙の伝承前、それもリョウが生まれる前に祖父は死亡している。……死亡?
戦争で? 流れ弾? 裏切り? その程度で?
あの生粋の白仙使いが戦争で死亡した?
「……ありえない」
綾は首を振った。
祖父の白仙使いとしての実力は、綾が身をもって知っている。今日に至るまで、彼女は組み手稽古で一度も祖父から一本をとれた試しがない。一撃入るのもまれである。
もし、今回の事件に巻き込まれたのが綾でなく祖父だったなら、ただの一度も苦戦することなく、この場に辿り着いていただろう。そんな風に考えてしまうほど、彼女と祖父の間には圧倒的な実力差があるのだ。
綾の背筋に、蛇が這うような、嫌な予感がした。
「あんたは、『白仙』の話も訊いた事ないの? じいちゃん以外にさ、父さんとか……」
「ぜーんぜん。そもそもウチの家系に格闘家なんていないよ」
ニーソックスを穿く相棒の太腿が、ショートパンツのきわどいラインまで見えている。綾は他人事ながら、自分と同じ顔のリョウが露出の高い服装を好んでいることに、難しい顔をして走り続けていた。
路地裏には砂風が入り込んでこないので、視界は開けていた。
アンゴルモアの気配はまだ感じられないが、すでに復活を終えている頃だろう。なんとか今のうちに、綾はあの化物を止める方法を考えなくてはならないのだが、あれほどはっきりと不死身を証明されてしまっては、正直手も足も出ない。
このままではいずれ、二人ともアンゴルモアに追い詰められてしまう。しかし、どれだけ考えてみても、綾の頭にはなんのアイデアも浮かばない。
彼女は珍しく意気消沈して、地面に視線を落とした。
だがその瞬間、綾は隣を走る相棒の足元に、決定的な違和感を発見してしまう。
「あのさ……。そのブーツ、もしかして結構『厚底』だったりする?」
「急になによ。……、そうだけど。あんたは違うの?」
えーいいなあ。と、リョウは子供のような仕草で人差し指を口元に当てている。
だがその確認で、綾の中でそれまで散在していた情報が、整然と直結を始めた。
おかしいとは、思っていたのだ。
リョウの部屋で制服のスカートを穿こうとして、ウエストのサイズが合わなかったこと。
B面の祖父が戦争で亡くなっていること。
家系に格闘家がいない、などという不可解なリョウの言葉。
そして、厚底のブーツで水増しした彼女の背丈。
白仙使いには体型の不一致が起こらない。しかし、リョウの身長は綾よりも低く、それでいて髪の色は『白仙』の赤である。
もし、朝霧の血筋に現れる『赤髪』が、『白仙』と無関係であったなら?
もし、朝霧家に伝わる『白仙発祥譚』が、歪んだ事実に基づいていたとしたら?
ここまでの判断材料から導き出される答えは、何か。
「B面の世界には、『白仙』そのものが存在していなかった……?」
自分の口から出た仮説に驚いて、綾の足が止まっていた。つられて止まるリョウが、疑いの眼差しでもう一人の自分を見る。彼女もまた、何かに気付いたらしい。
「ちょい待ち。それ、おかしくない? 並行世界に存在するキャラクターは『同一』だって、日高が言ってたよね? どうしてそこに、環境の差異や、伝来技術の不一致が起こるわけ?」
「もしかしたら、この世界は……、あたし達が並行世界だと思っていたのは――」
話は、そこで中断された。
路地の壁をぶち破って現れた、アンゴルモアによって。
神速で詰め寄った銀髪の残影は、リョウに一発、綾にも一発、拳と蹴りを突き当てていた。
動きはそこで終わらず、アンゴルモアは宙に浮き上がった二人の胸倉を一瞬のうちに掴み取り、なんとそのまま路地の壁を駆け上がり始めたのだ。馬鹿げたクライミングはものの数秒、彼女はあっという間に廃墟の屋上まで上昇し、両手に握っていた『荷物』をその場に投げ捨てる。
鎖の切れたサンドバッグのように、二人の朝霧綾は屋上に転がった。
「――が、げほっ、げほ…っ。ま、待って!」
「なんだ? 小娘」
この期に及んで命乞いでもあるまいな、と、アンゴルモアは吐き捨てた。だが、手加減したとはいえ、先ほどの蹴りで意識を繋ぎとめているこの赤髪の少女に、多少の興味は沸いてきたらしい。
不死身の存在は、少女に発言の機会を与えることにした。
「あ、あんたは、さ……。初めから、この世界にいたの?」
怪物の動きが、止まった。白仙使いは何とか立ち上がったが、リョウは受け身の取り方がまずかったらしく、気を失って倒れている。
なんとか時間を稼がなくてはならないと思う一方で、できることなら対話でこの争いを終わらせられないだろうか、という打算が、綾の思考回路をフル回転させていた。
「この世界には、何もなさ過ぎる。本当に、あんたは初めからこんな場所に一人でいたの?」
綾は額に冷汗を浮かべつつ、苦しげに問いかけた。打たれた腹がズキズキと痛んでいるが、おそらく下部肋骨のいくつかに、罅が入っているものと思われた。
砂風は屋上にも容赦なく吹きつけている。こんな不毛の地で、アンゴルモアを名乗った銀髪長身の女は一体何をしていたのか。一体、彼女はいつからここにいるのか、綾はそれが知りたかった。
風の向こうから、至高の美貌にそぐわないノイズのような声が聞こえてきたのは、それからすぐの事だった。
「……気の遠くなるような昔。世界を飲み尽くす程の巨大な〈蛇〉がいた」
まるで見当違いの回答をして、アンゴルモアは一歩前に出る。
「……その〈蛇〉は、〈人間の娘〉を連れていた」
銀髪長身の歩みは止まらない。
ブーツの底を擦りながら、正体不明の感情を膨らませた怪物は、綾の真正面まできて彼女を見下した。銀髪の隙間に輝く赤い瞳は、下等生物を観察しているようにもみえたが、真意のほどは分からない。しかし、怪物が一歩、また一歩と間合いを詰めるごとに、綾は心臓の鼓動が早くなるのを抑えきれなかった。
そしてアンゴルモアの独白は、ついに、致命的な話題に触れていた。
「此岸と彼岸を渡りゆく〈蛇〉の背に乗って、〈人間の娘〉は旅をしていた。――
――――、自分と同じ顔をした、別世界の〈娘〉を殺しながらな」
仄暗い輝きを放つ怪物の瞳に宿るのは、まぎれもなく怒りの感情だった。
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