第5話『整合する事情たち』-3
午後六時五十分。
『B面の世界』では、すでに夕日が山向こうへ沈みきっていた。
普段より数時間も早く九条学院に乗り込んできたのは、長身痩躯の影だった。
ただし、今日はいつもの“秘密の抜け穴”は使わず、正門から堂々の登場である。
黒のジャケットとスリムジーンズという恰好で、破壊し尽くされた校舎の中に不良青年は乗り込んだ。とはいえ、今夜の彼はあえて佩刀しておらず、いわゆる手ぶらだった。
それでも、異形剣士・叶大輔の表情は、研ぎ終わった刃物を思わせた。
外は新月だった。つい先日、綾と彼が戦った時には満月だったはずなので、どう考えても奇妙な月の満ち欠けである。
その『謎』の答えは、とうの昔に知れているのだが。
本音をいえば、大輔は『A面の世界』へ行ってみたいという思いはあった。あちらで生きているという日高の顔を見ておきたかったし、綾が行き来している並行世界というものを体験してみたかったのだ。ただ、綾の話では、AとBは基本的に同じ世界なので、大輔が期待するような目新しさはないのだという。
大人しくB面に残ることを選んだ大輔だが、どうやらそれは正解だったようだ。
考えてみれば、A面の世界でもう一人の自分に鉢合わせすると面倒な事になっていた。おそらく彼は、もう一人の自分と力比べをしたくなってしまう。もちろん、全力で。
少々惜しい気もしたが、所詮、縁のなかった可能性だと見切りをつけて、大輔は無傷な階段を昇っていく。すると間もなく、昨夜彼自身が破壊した二年棟の廊下が露わになった。この調子でいけば、家庭科室はもっと凄い事になっているだろう。
廊下を進んでいた大輔は、二年一組の教室の前で立ち止まる。
そしてノックもせず、手も使わず、大輔は後ろのドアを蹴り破った。
静寂をぶち破る派手な音がして、蹴り飛ばされたドアは、初めから配列の乱れていた机と椅子の中へ突っ込んでいく。なにもかもが、綾の推察していた通りの状況だった。
大輔はさして面白くもなさそうに、教室の中へ入っていく。
「――あら、叶君? どうしたのこんな時間に?」
予想通り、教卓の前には非常勤講師の鬼塚がいた。
もはや理由を語る必要もなかったが、大輔はそれでも自分で用意した“建前”を述べてやる。
「俺達、今までずっと“鬼ごっこ”してたんスよ。で、もう飽きちまったから、遊びを変えようと思って提案にきました。先生――、俺に“鬼退治”させてくださいよ」
廃墟と化した校舎の中で、物思いに耽っていた鬼塚の顔色がにわかに変わった。
同時に、机を薙ぎ倒した異形剣士の口元へ、壮絶な笑みが宿る。
「ああ、心配しなくても大丈夫ッすよ。『桃太郎』は俺がやるんで」
まずは七本、発射した。
◆ ◆ ◆
「……ねぇ、日高の野郎が逃げちまったよ?」
休日の学舎を闊歩しながら、超人は隣を歩く魔人を見下ろした。
「うーん。きっと岬が怖かったんだよー。日高君、気が小さいし」
甚だ邪悪な笑みを交わし合うのは、日高の“転移”で『A面の世界』にやってきた、B面の鷹山岬と西井香織だった。
掛け値なしの夕暮れが、水を吸ったスポンジのように地平線へ沈んでいく。赤光が照らしているのは、二人が見慣れた、しかし足を運ぶのはこれが初めてになる九条学院南棟二階だ。
「あーあ、本当に『別世界』なんだねー。ここ」
香織がそんな風に思うのも、無理はなかった。
先ほどまでいた『B面』の夜の暗さから一転し、この『A面』の茜空を見たのでは、普通なら時間を逆行してしまったような感覚に陥ってしまう。
しかし、廊下から臨む蛇穴の街並自体は、彼女達がこれまで見続けてきた光景と、寸分違わぬものだった。学院を挟んで、山際から海岸まで続く大通りには、行き交う人の姿も、車も見える。
綾の『作戦』は、ごくごく簡単なものだった。
神崎の不在をきっかけに、二年一組の非常勤になった二人のイレギュラーキャラクターを、二つの世界で同時に潰すだけ。
セカンドスキルの相性の問題で、香織と岬はA面に配属されたに過ぎなかった。
二人が待ち望んでいた瞬間は、唐突にやってきた。
「……西井、鷹山、今日は日曜だぞ? ここで何をしている?」
廊下の先で彼女達を睥睨しているのは、非常勤講師山崎哲夫だった。
スーツを隙なく着こなす痩躯から迸るのは、言語に絶する圧迫感である。どうやらこの男、これがデフォルトの雰囲気らしい。彼が二年一組に配属されて一週間が経つが、気安く話しかけてくる者は、生徒にも教師にも皆無だった。ある意味、山崎哲夫は九条学院の有名人になりつつある。
ところが、彼の生徒達は何を思ったか、お互いに顔を見合わせただけだった。
「――ねぇ西井。アンタ、アイツが『誰』だか知ってる?」
「知らないよー? だって、あたし達のクラス担任は神崎先生で、今は非常勤の鬼塚センセーが来てるはずだもんねー」
二人は素人の舞台劇のような棒読みの台詞回しをすると、白々しく笑い合った。
山崎は、落ち着き払った様子で一歩を踏み出し――、あっさりと、事件の隠蔽を放棄した。
「成る程、並行世界を越えてきたか。ならば、協力者に“転移”がいるとみて間違いないな」
冷静な口調とは裏腹に、山崎は生徒の前で一度も弛めることのなかったネクタイを解く。そのまま、あからさまな臨戦態勢を取った。両手を持ち上げる、ボクシングのような構え。
「あらまー。ヤル気満々だよ、このオッサン」
「やっぱり説得は無理だったねー」
もとより超人・鷹山岬も、魔人・西井香織も、この戦いが『人間』相手だとは思っていない。なにより、山崎はあの鬼塚の仲間なのである。
殺らなければ、殺り返されるのは目に見えていた。
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