第5話『整合する事情たち』-2
日ごとに日没が早くなっているのは、秋の終わりが近いのだろう。
町外れの児童公園は、一時間ほど前から立ち篭めた雨雲のせいで、人気が失せていた。
しかし、夕立を恐れるのは綾も同じである。ただでさえ、昨夜はプールで水浸しになったばかりなので、これ以上コートの生地が傷むのはごめんだった。
経年劣化でぼろぼろのベンチに座った綾は、赤髪を吹く風にまかせている。
約束の時間まであと五分。だが、彼女の待ち人は定刻前にやってきた。
「……話なら、明日学校でも良かったのに」
先日とは違う色のパーカーと、洗いざらしのジーンズで現れたのは、日高颯太だった。
「来たね、日高」
「いやいや、朝霧さんが僕を呼び出したんじゃないか。何か用があるんだよね?」
「こういうのは、早い方がいいと思って」
まるで、この場に彼が来なければ良かった、とでも言うように、綾は沈痛な面持ちだ。
公園にはベンチに座る綾と、その正面で立っている日高だけ。この構図は、初めて二人が並行世界について話をした日と同じものだった。
ふと、日高は得心がいったように破顔した。
「あ、もしかして『事件』を解決したの? 朝霧さん」
綾は答えなかったが、日高の期待は一気に膨らんだらしい。彼は学校でも見せた事のないような、晴れ晴れとした顔のまま曇天を仰いだ。
「やっぱり解決できたんだ。すごいや。セカンドスキルもなしに大輔を倒しちゃうし、山崎だってどうにかしたんでしょ? やったやった。もう怖いものは何もないね。どうしようかなー。僕、すぐに『あっち』へ戻れるの? あ、でも、もうしばらくこの世界にいるのもいいよね。こっちの西井さんや鷹山さんとも仲良くなれたし。ああ、そうだ。今度一緒にどこか――、」
そこで、
「――、ストップ、日高」
耳障りな歌謡曲でも中断するように、綾は日高颯太の台詞を寸断した。
思わず押し黙った日高をよそに、相変わらず彼女の黒瞳は、整地された公園の地面を見据えるだけである。様子がおかしい綾の態度に、彼はいよいよ不安を覚え始めたが、沈黙は十秒ほど続けられた。
話を切り出したその時でさえ、朝霧綾は無表情だった。
「……昨日、『B面』で香織と岬の二人と話したよ。そこには大輔もいたし、町田もいた」
「…………え?」
『町田』の名前が出た途端、日高の表情が明らかに強張ったのを、綾は見逃さなかった。
「『あっち』で起こってた誘拐事件の実行犯は香織と岬だったよ。でも、それは二人の意志じゃなくて、非常勤の鬼塚に脅されてやってたんだってさ。鬼塚はセカンドスキルを持ってて、あの二人じゃ歯が立たなかったみたい。攫われた子達は、鬼塚が監禁してるんだって」
まるで業務連絡のように、綾の語調は淡々としている。それまた不安に思ったのか、日高は引きつったような声で、微動だにしない彼女に質問した。
「それ、おかしくない? 犯人は山崎なんじゃなかったの?」
「山崎の事は知らない。それは『もう一人のあたし』が調べてた事だから。あたしはあくまで『B面の世界』の事を言ってるんだよ。……続きを言うね。鬼塚は二年一組の生徒の中から、“転移”のセカンドスキルを持った人間を捜してたらしいよ。理由は分からないけど」
「……それで?」
「町田のセカンドスキルを知ってる? “追跡”っていうんだけど、B面の二年一組全員分の所在地を、あいつはリアルタイムで把握できるんだって。二週間前……ううん、もう三週間前だね。あんたが最後に世界を移動した『あの日』、B面の町田はちゃんと“視てた”らしいよ。
……あんたが、『A面の世界の日高』と、同じ時間に『B面の世界』にいたのを」
「――、!?」
今度こそ、日高は顔色をなくした。しかし、綾が彼の顔を覗き込もうとすると、日高は逃げるようにフードを目深に被ってしまう。
その仕草で、綾には彼の気持ちが分かってしまった。
「変だよね? 並行世界を反転してるはずの『AとBの同一人物』が、同じ時間に、同じ世界にいるなんてさ。これじゃ、あんたがあたしに言ってた内容と違う。それに、ほかにも気になってた事があるんだ。……あんた、前にあたしから逃げた時、顔がボコボコになってたよね?」
日高が学校をサボった日の事は、綾もよく覚えていた。
あの時の、彼の異様な怯えようは、あきらかに朝霧綾を敵として認識していたからだ。香織から聞いた話では、B面の綾は学校で日高といちゃつくようなマネをしていたらしいので、これも辻褄の合わない話といえる。
「あれは、その……」
「今の嘘がバレて、殴られたんでしょ? 『もう一人のあたし』に。で、それに気付いた時点であたしにも分かったよ。日高――、“転移”の能力者は、もうあんたしかいないって」
雨雲は、いつのまにか風に流されてしまった。
すでに日が傾きかけているが、斜陽に晒された二人の影は、プレス機にかけられたように引き延ばされている。彼らがここへきた時と同じように、公園には他に誰もいないが、カラスの鳴き声だけが頭上でこだましていた。
綾は、それまでの静けさが嘘のように、表情を険しくした。
「どうして、本当の事を教えてくれなかったのよ? あたしも『もう一人のあたし』も、きっとあんたの力になれてた。それなのに、あんたは平気な顔で『あたし達』を裏切ったんだ。……でもね、本当に許せない事は別にある。あんたが、自分だけ生き残るために――、
――、何も知らず『この世界』で生きてた、日高颯太を殺した事よッッッ!!」
公園の外まで響きそうな怒鳴り声が、今まで仲間面をしていた『人殺し』に向けられた。
思わずベンチから立ち上がった綾の前で、日高はフードで顔を隠している。
「……どうしたの日高? 何か、言ってよ」
「…………」
「ねぇ、ちゃんと言ってよ」
「……う」
「あんたね、どうしてそこで『違う』って言えないのよッ!! 『やってない』って、ちゃんと言ってよ日高ッッ!」
相手の両肩を掴んで綾は叫んだ。
日高は喋らない。ただ、パーカー越しに伝わる彼の震えは、何よりも雄弁に真実を物語っていた。それにますます腹が立って、興奮した綾の声は、しかし、どうしても文句の言葉にならなかった。
「お願いだから……違うって、言ってよ……」
涙目の綾を直視できずに、日高は顔を逸らした。
“日高殺し”の真実は、いくつもの奇妙な偶然が連なったものだった。
何も知らなかった『A面の日高颯太』は、ただ『B面の日高と同じ存在』だったというだけで、彼のスケープゴートに選ばれたのだ。
そして『能力者狩り』というふざけた事件から、B面の日高が逃げるため、彼は犠牲になった。その無実の少年は、本当の家族や友人に自分の死を知られることもなく、別世界の他人に看取られたのである。
彼を最期に看取ったのは、異世界に住んでいた朝霧綾という名の少女だった。
それから彼女は、『A面の日高颯太』を殺した犯人を捜すことになる。そして様々な運命のいたずらによって、彼女はついに、世界を飛び越えた先で、そこにいるはずのいない『B面の日高』を発見したのだ。
……ところが、である。
「それなのにあいつは……、朝霧の奴は……」
そのお人好しの少女は、せっかく見つけた人殺しまで、救おうとした。
「『あの子』がどこに行ったかは知ってるよ。だからあたしも『向こう』へ送ってもらうために、あんたをここへ呼び出したんだ」
今こうしている間にも、『B面の朝霧綾』は並行世界のどこかで戦っている。
ある日、偶然出会った異世界の他人のために。
あるいはその他人を殺した、同じ顔のクラスメイトを救うために。
その流れに巻き込まれた、出会ってもいない全ての人間のために。
だがそれはおそらく違う、と、綾は思った。
きっと『彼女』は、そんなに多くの誰かを助けようとは思っていない。今回の事件も、ただ一番初めに交わした約束を、最後まで守ろうとした結果に過ぎなかったのだろう。
「多分『あの子』は、自分が任された頼み事を、人に手伝ってもらうのに抵抗があると思うんだ。認めたくないけど、あたしもたまに意地を張っちゃう時があるしね。……でもね? だからこそあたしは、あたしだけは、『あの子』を手伝ってあげられると思ってる」
日高の肩を離して、綾は涙を拭く。
悲しみに暮れている暇はない。夕暮れのむなしさは変わらなくても、並行世界の向こう側では、綾の仲間達がとっくに戦いの準備を始めている。泣き言など以てのほかだ。
「町田に聞いたよ。あんたは『B面の世界』で、二年一組の生徒のセカンドスキルが発現し始めた時期に、町田の“追跡”を鬼塚に使って『どこか』に行った事があったって」
「……それは」
「AでもBでもない『別世界』に飛んだんでしょ? 『そこ』で事件の犯人を見たあんたは、怖くなって逃げ出した。違う?」
そう。初めから、並行世界が無数に存在すると考えていれば良かったのだ。
A面でも、B面でもなく、C面の世界があってもおかしくないのだと。
「……もう終わりにしようよ。逃げて、逃げて、逃げ続けて、一体最後はどこに行くの? 逃げ道ばっか選んでたら、後に残るのは辛さだけなんだよ?」
それを誰よりも理解しているはずの日高は、枯れた喉を張り上げた。
「そんなこと……、そんなことぐらい分かってるよ! けど、どうしろってんだよ! 町田君や僕みたいなセカンドスキルじゃ、みんなみたいに戦うなんて、できるわけないだろ!」
「どうしてあんた達は、戦いにばっかりこだわるのよ? 関係ないじゃん、そんなこと」
「何が関係ないんだよ!? 力がないと何もできないだろ? 何が“逃げるな”だ! ヒーローごっこはよそでやれよ! 力を持ってる君なら、それくらい簡単にでき――うっ?」
綾の手が、日高の胸倉を掴んでいた。
「……あのさぁ」
「な、なんだよ?」
「戦う力があればヒーローになれるなんて、そんなの幻想だよ。セカンドスキルよりも、力なんかよりも、もっと大事な事が絶対にある。それを持ってるヤツがヒーローになるんだ」
日高の胸倉から手を離す。綾はこれで、言いたい事をすべて言い切った。
「僕に、何を望んでるんだ? 何もできやしないよ」
「あんたに頼みたい事は二つよ。あたしを『あの子』が行った『場所』に送って。それと、『B面』から香織と岬を『A面』に連れてきて。……それくらいなら、できるでしょ?」
怒りで興奮していた日高は、肩を小さく上下させながら息を飲み込んだ。頷こうとして、それができなかったらしい。
秋空は、熟れた林檎のように染まりきっている。
喚いていたカラスはすでに退場しているが、代わりに公園を風が吹き抜けた。
およそ一ヶ月に渡る日高颯太の『逃避』に終止符を打つ、決別の風だった。
「できれば日高には、その後で全員を元の世界に戻してほしい。あんたの“転移”でしか、AとBの並行世界は越えられないから」
「……わかったよ。送ればいいんだろ? ……でも、帰りの事までは期待しないでくれよ。僕はいつだって、『ここ』から逃げられるんだ」
日高にとっては皮肉でもなんでもない本心だったが、綾は笑って首を振った。
「大丈夫。それはないよ」
日高のセカンドスキル“転移”が発動したのか、ぼんやりと頼りない光の膜が、綾の全身を包み込む。特に熱は感じないが、彼女は周囲の物音が少しばかり小さくなった気がした。
やがて、光の膜が発光の度合いを上げはじめると、日高は耐えきれなくなったように叫んでいた。
「た、助けてもらえるなんて思うなよ! いいか朝霧? 僕は逃げるッ! 絶対に逃げ続けてやるからなッ!」
光の中に消えていく綾は、少しだけ困ったような顔をして、それから彼に背を向けていた。
「たかがヒーローくらい、誰でもなれるって。今からでも、全然遅くなんかない」
「できるわけないだろ。そんなこと、できるわけ……」
「でもね、『あたし達』はもう決めたんだよ。……あんたの事を、最後まで信じてやるって」
――キン、という音が辺りに響く。
直後。膨大な光に包まれた朝霧綾の姿が、世界の向こうへ霞んで消えた。
取り残された日高は、誰もいなくなった居場所から、しばらく動けなかった。
「……できるもんか」
夜になっても、空はまだ、彼の世界と同じ色をしていた。
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