第4話『Tの法則』-4
その夜、綾はやはりB面の世界へ移動していた。
しかし、もはや彼女は驚かない。問題の山崎は、まだA面の世界で健在なのである。今まで通りの世界移動が起こるのは、不思議でも何でもなかった。
「やっぱり引っかかるなぁ……」
深夜の地獄坂にもすっかり慣れてしまい、綾は背中をぐいと伸ばした。
B面の綾によると、A面にいる山崎は敵らしい。
しかし、彼女は山崎を『敵』と評しこそすれ、『犯人』と断定はしていなかった。それが綾には気になるのだ。
第一、山崎がA面の日高を殺した事や、『二人の綾』を世界間で反転させている理由が見えてこない。B面世界で起こっている連続失踪事件についても、その目的が全く不明である。
ならば今、綾にできるのは、『あの二人』に話を聞くことだけだった。
B面の西井香織と鷹山岬は、あきらかに今回の事件に関する情報を握っている。だからこそ、事件を嗅ぎまわる綾と大輔の前に、彼女達は敵となって現れたのだ。
今夜も、九条学院には戦いの予感が漂っている。
校門を抜けると、中央校舎のエントランスまで続く紅葉の葬列が、外灯を浴びて、夜の帳に映えていた。日中は雨だったらしく、綾が濡れた落ち葉を踏むたびに、不快な音が立つ。
大輔は、まだ来ていない。昨夜は今日の予定も立てないうちに別れてしまったせいで、彼との合流は運任せである。
予想はしていたが、『それ』を見た綾は、口元をきつく引き締めた。
やはり、本来あるべきはずのものが、そこにない。
「『これ』が山崎の仕業っていうのは、いくらなんでも無理がある気がするんだよ。日高」
綾が見上げているのは、一年棟の入り口だった。
そのピロティーに、昨夜の破壊の跡が影も形も見当たらないのだ。
爆発の衝撃で飛び散ったトラックの破片もなければ、本体の残骸もない。
これと同じ現象を、綾は一度目撃している。二日目の夜に大輔が破壊した校舎の大半が、完膚無きまでに修復されていたのだ。おそらくは、何者かの手によって。
そうして、一年棟の廊下側、ガラス窓の正面まで綾はやってきた。
後ろでアップにした赤髪は、周囲には身長を水増ししているように感じるらしい。ガラスに写っているのは、一般男性の標準身長よりも、やや高めな位置にある彼女の頭だった。
「……でかい女」
肩が張っている方なので、男装すればさぞ立派な麗人に見えることだろう。そんな冗談とも本気ともつかない提案を、綾は以前、香織に言われた覚えがあった。
こうなると、クラスの男子に『巨神兵』だとか『超人ハルク』だとか、奇々怪々なアダ名を付けられても仕方ないのだが、それは杞憂に終わった。
いくら背が高いといっても、鍛えに鍛えたスポーツマンのそれとは違い、綾の身体は生まれる前から決められた白仙使いのものなのだ。別段、全身筋肉質というわけではない。……だからこそ、余計に胸ばかり目立ってしまうのだが。
とはいえ、高校生活も折り返しに差し掛かり、彼氏ができないことに綾が焦りを感じているのは事実である。
背の高さを差し引いても、人目を惹く容姿なのだから、多少のアプローチは受けてもいいものだ。だが、実はこの十七年間、彼女は告白らしい告白をされたことがない。
例外だったのは大輔くらいである。
だから綾も、多少彼に甘いところがあるのかもしれない。
周りに音が響かないように、なるだけ控えめに窓ガラスを叩き割って鍵を開け、綾は窓枠に手も掛けず校舎の中へ飛び込んだ。
昼間は鬱陶しいほど活気があるだけに、夜の校舎にはただ静か、というだけで圧迫感がある。
それが今は、暗闇を伴うせいで、効果は二倍、三倍増しである。
…………ところで、綾はお化け屋敷が大の苦手だった。
「ひーん、怖いよー……」
こんな情けない声をあげているところを他人に見られたら、赤っ恥もいいところだった。
もちろん綾も、夜道を歩くだけなら怖くはない。街灯があるからだ。この校舎に一人でも人間がいれば、綾は気を紛らわす事ができるだろう。
しかし一人は、一人で暗闇というのはいけなかった。怖い。
やはり、先に大輔とは合流しておくべきだったと、綾は大きく後悔する。
学院に寝泊まりしている用務員は、午後十時の見回りを終えて部屋で閉じこもっているだろう。時刻は十二時、今頃は大酒をかっ喰らって酔い潰れているはずだ。校内飲酒が用務員の特権であることは、公然の秘密だった。
綾はしばらく廊下を歩き回っていたが、この際、酔っぱらった用務員に見つかってもいいとさえ思った。頼りにしていた電灯のスイッチは、ブレーカーを落とされていて意味をなさない。
階段を昇る足取りは重い。踏み外さないよう慎重に、慎重に登っていった。神経が尖る。
だから踊り場まで来たところで、背後に降った音に敏感に反応できた。
「だっだっだっ誰誰誰だれだ――ッッ!?」
綾は顔面蒼白になって急反転した。幽霊に打撃は有効なのだろうか、とは思いつつ、それでも武術家の悲しい性が、彼女に拳を構えさせている。
しかし、彼女の足元に落ちていたのは、何の変哲もない男子用の上靴だった。
「ふぇ?」
涙目になって変な声を出した、その一瞬の隙が、まずかった。
ばちん! という音が背中からしたかと思うと、痛みを感じるより先に、綾の身体が床に沈み込む。
やがて意識が、周囲の暗闇に溶けて無くなる頃になって、ようやく綾の頭は、ああこれアレだスタンガンとかいうやつだ、などと、間抜けな答えを導き出していた。
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