第4話『Tの法則』-2
綾の心配をよそに、二年一組にさしたる変化はみられなかった。
HR五分前の教室は、最近ネットトレンドを話題に談笑する者、身近な人物の恋愛話に花を咲かせる者、予習や課題に追われている者で溢れている。
綾が今までそうしてきたように、彼らはA面の世界の常識の中で生活しているのだった。
幸いな事に、問題の山崎は今日、剣道部の公式試合で引率をしているらしく、学院にはいない。
ただ綾は、山崎と接触する機会の多い大輔の事が心配だった。
ここ数日、綾はA面の大輔とは疎遠になっている。
B面の綾は大輔にセクハラをされたらしいが、それは彼なりのアプローチだったのだろう。あの男、剣道以外の事はとんと不器用なのである。
……はたして、山崎は日高殺しの犯人なのだろうか?
山崎がA面の大輔を狙う可能性はないのかという不安が、綾にはあった。
もしそうなった時は、彼を守ってやれるのは綾と『彼女』だけだ。
綾は『B面の自分』を信用している。たとえ手紙だけの繋がりでも、そこに確かな絆を感じていた。できればもう少し無駄話を省いて、事件の話題に触れて欲しい感はあったが、今朝はそのおかげで元気が出たので、一概に文句を付けるわけにもいかない。
「なーんかさー、綾ってば最近、ぼーっとしてること多いよねー?」
その『声』で表情が強張るのを、綾は感情を殺して抑えつけた。
「そ、そかな? はは、は」
椅子に座る綾の肩を後ろから掴んだ香織は、背伸びをして赤髪の頭に顎を乗せている。
警戒する必要は、ない。これはA面の世界の西井香織なのだ。内心冷や汗を掻きながら、綾は自分にそう言い聞かせると、そのまま自然を装って話を続けた。
「そういえば岬は……あー、また死んでる」
綾の座る席から二つ席を挟んで前方に、見慣れた頭が項垂れていた。
今日は昨日よりもさらに気分が優れないのか、岬はぴくりとも動かない。そっとしておこうという周囲の気遣いが、岬から机一ツ分以上の距離をとって、彼女の安眠を約束している。
「……正しい判断をしてる。さすがに半年も一緒にいれば、みんな分かるか」
「前に、叶君が岬の寝てるところを邪魔した時は、“十分の九殺し”だったもんね」
睡眠中の岬を起こしてはならないという暗黙のルールが、二年一組では常識化しているのだ。
「岬、最近練習キツイのかな。香織は何か聞いてる?」
「選抜リレーメンバーの枠争いが凄いらしいよー。このごろ岬はタイムが落ち気味だから、監督も一年の子を試合で使う気みたい。だから頑張ってるんだってさー」
九条学院の各部監督は、教師が兼任しているのではなく、地方から呼び寄せた専門のトレーナーがほとんどだ。それぞれが実力至上主義で一貫した指導をしているが、自他共に認めるだけの功績を常に残しているため、選手の起用には誰も口出しができずにいるのだった。
まして岬は特推で中学から引き抜かれてきた選手である。足りない学業成績を部活で補わなければ、面子も立場もあったものではない。
疲労の色を隠せずにいる岬の背中が、その責任の重さを雄弁に物語っていた。
「あのコ、今までも凄いプレッシャーの中で成績を残してきてるんだ。岬は大輔みたいに天才型の選手じゃないから、周りに潰されないか心配だな」
「どんなスポーツ選手でも努力はしてるよ。天才とか、あんまり関係ないと思うけどなー」
間延びした声で言う香織に、綾は頷いただけで、それ以上は言わなかった。
隣でそれとなく聞き耳を立てていた日高は、今日はどこか話に加わるのを遠慮するように視線を課題ノートに落としている。
それに気付いた香織が、意味深に笑い、綾の腕をつついた。
「……えっと、何?」
「いやー。ほら、今日はいちゃいちゃしないのかなーって」
「は、はぁっ!? どういう意味それ!」
「え? だって昨日はずっと日高君と話してたじゃない。なーんか、帰る時も腕組んだりしてたしさー。もう付き合ってるのバレバレ」
失念していた。
自分が昨日一日B面の世界に行っていたという事は、同時に『あちらの綾』が、一日A面の世界に滞在していたという事になる。
もし彼女が学院に来ていたのなら、その際に山崎と接触があったのかもしれない。
だが、よりよって、クラスメイト達の前で日高といちゃつくような暴挙に出るとは思っていなかった。
そういえば、今日は日高の口数が異様に少ない。おそらく昨日、彼の身に何かがあったのだ。
それがまた、香織には良いからかいの材料になっているのだろう。
「私も岬もびっくりしたよー、髪も纏めずに学校来るしさ。リボン付けずに胸元までぎりぎりに開いて、スカートも目一杯短かったし。男子とか、目のやり場に困ってたんだよー?」
「う、あ。ウソ……だ…」
やられた、と綾は思った。
あの部屋の有様と日高の話から、予想はしていたのだが、B面の朝霧綾はかなり派手な性格らしい。今まで築き上げてきた『A面の朝霧綾』のイメージが、崩壊していく。
「ね、ね? どっちから付き合おうって言ったの? 教えてよー」
「知らない。あたしはそんなの知らない」
「ウッソだー。綾、目がクロールで泳いでるもん。絶対ウソだー」
これまでにないくらい目をきらきらさせて、綾の腕を掴む香織が核心に迫った。
ちなみに、彼女のもう片手には日高が捕らえられている。だが、彼は能面のような表情で英単語をブツブツと呟くだけだった。関わる気がないらしい。
綾はしつこく食い下がる香織を席から見上げて、
「ねー。教えてよー」
「やだ。ぜったいヤダ」
質問攻めをかわしつつ、早く一限目が始まってほしいと切に願った。
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