第3話『ダブル・キャスト』-1
〈登場人物〉
朝霧綾……武術家系に生まれた、赤髪の女子高生。
叶大輔(A)……綾のクラスメイト。剣道部のホープ。
叶大輔(B)……綾の仲間。『剣弾』のセカンドスキルをもつ。
日高颯太……綾のクラスメイト。転校生。
西井香織……綾のクラスメイト。綾の親友。
鷹山岬……綾のクラスメイト。陸上部。
第三話 『ダブル・キャスト』
四日目の朝。
一週間も折り返しに差し掛かり、生徒も週末の予定を組み始める頃合いである。
しかし、下駄箱置き場で靴を履き替えていた綾の気持ちは、鉛のように重かった。
昨夜はB面の世界で激闘を繰り広げたあと、朝方まで、半壊した校舎の中で大輔と話し込んでいたのだ。A面の世界に戻ってきたのは午前六時、当然まともな睡眠などとれるはずがない。
何食わぬ顔でA面の食卓についた綾は、いつも通りの朝食をとったが、かえってそれが彼女の睡魔を増長させてしまった。
「よぉ綾! 朝から疲れてんな。どうした、また胸が重くなったのか? 手伝うか?」
そんな綾の憂鬱など露知らず、今日も大輔の陽気なセクハラは全開だった。
「あー、うー、大輔。おはよ……」
朝方までうんざりするほど見ていた顔を、綾はクマのできた眼でじろりと睨む。セクハラには反撃が付き物と考えていた大輔は、彼女の拍子抜けな反応に、若干引いてしまった。
「に、睨むなよ。テンション低いぞ、お前」
「昨日ちょっと徹夜しちゃってさぁ……全っ然寝てないんだ。……ふぁ」
「テストでもないのにか? 変わってんなぁお前。ん? 顔、どうかしたのか?」
大輔は綾の頬に貼りつく絆創膏を指差した。
この男、気になる女の事となると異様に鋭い。しかし、質問に答えてやるほどの体力も根性も、綾にはなかった。大体、事情を話してもややこしくなるだけだ。
綾はあくびをひとつ噛み殺してから、
「うー、今日は眠いから、また今度教えるよ」
そんな言葉で、お茶を濁した。
疲労感に苛まれたまま教室に入ると、日常はちゃんとそこにあった。ただ、いつもは楽し気なクラスメイトの談笑も、今の綾には文字通り頭痛の種である。
せめてHR開始までのわずかな時間を、机の上で睡眠に費やそうとした矢先、綾は死霊のような枯れ声に呼び止められた。
「あぁ? おはよ、朝霧ぃ……。どしたの? 顔色、悪いよ?」
「アンタほどじゃないってば。朝練キツかったの? 岬」
返事をするのも億劫なようで、岬は机に突っ伏したっきり顔を上げようとしない。
「――岬はねぇ、朝練習でトラックを二十周もさせられたんだってさー」
質問に答えたのは、背後から綾の胸を鷲掴みにした香織だった。
叫びそうになるのをすんでのところで我慢して、綾は笑顔を引きつらせる。
「……おはよ香織。とりあえず手、放してくれる? 挨拶には必要ないよね? それ」
「うわー、相変わらず他に類を見ない形状と弾力だねー。綾、世界狙えるよ、世界」
このところ、毎日のように並行世界を行き来している綾にとって、これ以上、はた迷惑な世界に足を踏み入れるのは御免だった。
「あたし、そういう世界には死んでも行きたくないや。……早く手を放せ」
「そういえば私、水泳の着替えで初めてちゃんと見たんだよねー。綾のってさ、ブラしてなくても形が崩れないんだ? やっぱり、形状記憶加こ……わわっ?」
「失礼なコト言わない」
いつの間にか両手の自由を奪われた香織は、バレエダンサーのように、くるり、と一回転させられて、綾の正面で停止した。本人は何が起こったのか理解できていないらしく、目をぱちくりさせている。
どうやらクラスの友人たちは、綾に安息の時間を与えるつもりはないらしい。
安眠を諦めた綾は、隣の席で素知らぬ顔をしていた日高に、わざと大声で話しかけた。
「おっはよー、日高ぁ。今日はサボらないんだぁ?」
「わはははははは、な、何のコトかなぁ! ……あのさ、それ、秘密してって言ったよね?」
引きつる顔をグラウンドへ向けて、日高は冷や汗をごまかしている。
「騙されたお返しだよ。……あとね、放課後にちょっと話があるんだけど」
「あ、うん。……わかった」
話し込んでいた綾と日高のそばで、聞き耳を立てていた香織がニヤリと笑った。
「なーんか仲いいね、二人。綾ってば日高君の事、呼び捨てにしちゃってるしー」
少しでも仲のいい男女を見ると、すぐにカップリングしたがるのは西井香織の悪い癖だ。
釣り合いの取れる異性がいなかったために、綾はこれまで男子と付き合ったことがない。
ただ、表立ってモテていないとはいえ、実は綾に気があるのは大輔だけではなかった。突然現れた転校生ごときに、クラスの貴重な女子資源を横取りされるのは辛抱ならぬと、男子数名から殺気が吹き出る。そのどす黒い闇の障気によって、大輔が少しだけ元気になっていた(彼は邪悪なのだ)。
当然、居心地が悪くなった綾と日高は、互いに顔を背けて黙り込んでしまう。香織はそれ以上二人をいじるような真似はせず、机に頬杖を突いて、眠気に誘われはじめた綾に話題を振った。
「……なんかさー。みんな、けっこう薄情だよね」
そう呟いた香織は、普段あまり教室で見せることのない顔をしていた。
「ええと、何の話?」
「神崎先生の事だよ。交通事故で入院してるのにさー。心配してる子、誰もいないよねー」
「そう見えてるだけじゃないの? 心配してる子がゼロって事はないと思うけど」
香織には、必要以上に他人に干渉しないクラスの人間関係が気になるらしい。
世話好きな彼女ならではの悩みだろう。言われてみれば、確かに教室に散らばるクラスメイト達が、入院している神崎の安否を気遣っている様子はなかった。
「せっかく同じクラスになったんだから、先生の事だってもう少し考えてあげてもいいんじゃないかなー。私はそういう繋がりって、大事だと思うんだけど。綾はどう思う?」
「そりゃそうだけどさ。まぁ、お見舞いもできないんじゃ、仕方ない気もするよ」
二年一組のマスコットキャラクターであった神崎の事故が告げられて、まだ二日しか経っていない。
確かに香織の言う通り、彼女の安否を気遣うのは大事だとは綾も思ったが、さりとて生徒達もそれぞれに課題を抱えている。綾にいたっては、並行世界を行き来している身だ。薄情なようだが、入院中の神崎に気を回している余裕はないのが実情である。
眠気もあって、綾はそのあと香織が何を言ったのか、あまり頭に残らなかった。
予鈴のきっかり五分前に、非常勤講師山崎哲夫は二年一組に入室してきた。彼がクラスに来て二日が経つ。
綾をはじめ二年一組の生徒達は、徐々にこの男の本質を理解し始めていた。
山崎には、とにかく形容しがたい威圧感があった。スーツの着こなしや言動から、生真面目な印象がついて回るが、それとは別に、彼からは非人間的なプレッシャーを感じるのである。
そうした意味でも、この男は神崎と真逆の教師だった。
もちろん教壇に立つ山崎が、出席確認をとっている最中は、生徒達の私語は皆無だった。
「……以上だ。日直、あとは頼む」
何の感情も交えずに伝達事項を報告すると、山崎は生徒達には一瞥もくれずに教室を出て行く。
徹頭徹尾、機械的な言動を貫く彼の姿は、神崎のキャラクターに慣れた二年一組ではひどく浮く。しかし、綾はそこまで山崎のことを嫌いには慣れないでいた。昨今の教職が晒されるブラックな内情を思えば、生徒へ距離を置いた山崎の接し方は、むしろ普通なのかもしれない。
「見れば見るほど、スカした野郎だな」
一方、大輔の山崎嫌いはエスカレートするばかりだった。
どうやら、ここ二日間の部活で手合わせを何度かさせられて、こっぴどく打ち込まれたらしい。
もちろん綾が直接大輔から聞いたわけではなく、武道場の周囲を走っていたという岬に聞いたのである。噂によれば、山崎は剣道七段という驚異的な実力者で、他にも諸般の武道に長けているそうだ。
「ちなみに七段って、どれくらいすごいわけ?」
「あー、六段でジェダイとか倒せるんじゃねぇか」
無茶苦茶である。
「とりあえずなんか言いがかり付けて、ブン殴ってきてくれよ。綾」
「ゴメン、あたし暴力キライだから」
頬杖の手を入れ替えた綾が言った矢先、「ウソをつくのはやめなさい」という心の声がクラスの半数以上から発信されたのを、日高が渋い顔のまま黙殺した。
一限が始まる前にトイレに行こうとした綾は、廊下に出たところで、意外な人物に声をかけられた。
「…………あ、あのさ。朝霧さん?」
「へ? 町田君、どうしたの?」
正直、綾はかなり驚いていた。
記憶の限り、町田とは一度も話した事がなかったからだ。
眼鏡を掛けている町田は、綾よりも少しだけ背が低い。普段、椅子に座って少女漫画を読んでいると、なんだか縮こまった印象の強い彼だが、立ち上がると今度は体の痩せ具合がよくわかった。
「朝霧さん。昨日の夜、町外れのコンビニ行ってたろ? あの、立ち読みができるコンビニ」
一瞬で町田の言葉の意味を理解した綾は、頭の中が冷めるのを感じつつ、話を合わせた。
「――、あ、うん。行ってたね。けど、それがどうかした?」
「僕がコンビニに入ってった時に、ちょうど君がレジで精算してたんだ。その時に『これ』が落ちたんだけど、朝霧さん、気付かずに行っちゃったから、届けてあげようと思ってさ」
町田は制服のポケットから何かを取り出し、反射的に差し出した綾の手の平に、それを置いた。
「……ピアス?」
素材は銀、だろうか。
小指の先ほどの小さなピアスには、炎らしき彫刻が施されている。
もちろん、綾はこんなピアスに見覚えはない。それ以前に、ピアス穴など開けてもいないのだ。昨夜コンビニへ行った覚えも、同様にない。つまりは、そういう事だ。
廊下で立ち話をする綾と町田を気にする者はいない。授業前の停滞とした雰囲気がリノリウムの床から足を伝って、彼女の膝の辺りにまとわりついた。
「引き留めてごめん。それだけだからさ、じゃ」
「うん……ありがと」
正直にいえば、席に戻って少女漫画を読み始める町田に、綾はピアスと昨夜の件について、もっと色々と話を訊きたかった。
しかし、不用意な質問が町田を危険に晒すかもしれないと考えた綾は、それ以上、B面の自分について彼に詮索するのを断念した。
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