第2話『いつかみた、知らない場所』-5
目が覚めてすぐに、綾はハンガーに掛かっていたコートを確認した。
――――『A面の世界』と『B面の世界』。
日高の語った二つの世界を見分けるために、綾は部屋の壁に掛かったコートを目印にしようと決めていた。とはいえ、まさか昨日の今日で『こちらの世界』に移動するとは、彼女も思っていなかったが。
まだ少しだけ湿り気の残るロングコートが、主の所在を求めていた。
「はぁ。やっぱり夢じゃないってのね……、マジで」
自室のはずなのに、ここが『B面の世界』だと自覚した途端、綾の背筋に寒いものが走った。
すっかり気に入ってしまったコートを手に取ると、綾は日高から再三説明された、この世界の事情と異常事態について、もう一度お復習いすることにした。
もはや否定の余地もなく、隣り合うA面とB面の『並行世界』は確かに存在している。
そして並行世界に存在する人物は、互いに同じであると日高は言う。
その言葉通りなら、ここには綾以外に『もう一人の朝霧綾』が住んでいるのだ。
今、このB面の世界と、綾の住んでいるA面の世界の間には、“とある異常”が起こっているらしい。
……それは、AとBの世界で同一人物同士が入れ替わってしまう、という事態である。
B面の日高はある日、何の前触れもなく綾の住むA面の世界に来てしまったそうだ。
生活環境の微妙な違いから、彼はすぐにその異常に気付いたが、自力で元の世界に戻る手段はなかったという。しかし初めのうちは、しばらくすると勝手にB面の世界に戻ってこれたらしい。
その後も、気まぐれに起こるこの現象に巻き込まれ続けた日高は、何度も世界を往復するうちに、とうとうA面からB面へ戻る事ができなくなってしまったのだそうだ。
……だ、そうだ。
「それってさぁ、一度でもこの世界に来ちゃった“あたし”にも言える事だよね? 日高」
今はそばにいない友人に、綾は疲れた声で言った。
つまり彼女もまた、日高颯太と同じく“空間の漂流者”になってしまう可能性があるという事だ。しかも、意味不明に命を狙われるこのB面の世界に、である。
日高によると、綾が今まさに体験しているこの世界間移動が数回行われた後、ぱったりと元の世界に戻れなくなるらしい。
ちなみに、移動の制限回数は不明ときている。最悪だった。
「……にしても、荒れすぎ。この部屋。空き巣にでも入られたの?」
部屋のずさんな有様は、昨夜と変わらずだった。
カーペットの上に脱ぎ散らかされた衣類をよく見ると、綾ならとても着ようと思わないような派手な下着の類も紛れている。興味本位で、露出度の高いガーターベルト付きのビスチェを手に取った彼女は、自分がそれを着ている姿を想像して、いかんともしがたい気分になった。
こっちのあたしは進んでるなーと、綾は思わずB面の自分に彼氏の有無を確認したくなるが、今はそれどころではない。
昨夜と違い、服はすでにA面で着替えている。赤髪をゴムで纏めれば、それだけで綾の準備は完了した。
彼女は乾きかけたコートにためらいなく袖を通すと、いよいよ異世界の夜闇に繰り出していく。
昨夜と同じく、B面の世界には人の気配がない。
こちらの世界では日中は雨続きだったのか、所々に大きな水溜まりができていた。
静かすぎる住宅地を歩きながら、綾はとりとめもない事に思いを馳せる。この世界の隙間を埋めた水溜まりを見て、自分が平面だと思っていた街のあちこちが、実は凹凸に富んだものであったのだと。
もちろん、ただの虚勢である。
何か別の事を考えていないと、緊張でどうかなりそうだった。
腰高の長身が暗い水面を踏破していく。住宅街を抜け、蛇穴市を二分するように走る大通りに出ると、見上げる地獄坂の先には九条学院の姿が見えた。
そこへ至るまでには、いくつもの信号が神社の鳥居のように連なっている。
ここが、この街で一番大きい通りなのだ。蛇穴の街に走る全ての道が、この坂を中心に発生しているといっても過言ではない。
だからこそ、綾には好都合なのだ。
――『狩人』にとって、ここが『獲物』を探すのに、最も適した出発点に違いないのだから。
「……来たね」
綾は人より夜目が利く。
だから、坂の上から見覚えのある人影が下ってくるのも、よく判った。
クールなように見えて、本質は綾の世界の『彼』と変わらないようだ。
普段は鬼才天才と持ち上げられる『彼』だが、その実力はもちろん、並々ならぬ修練の賜物である。
努力している姿を人に見られるのを嫌う『彼』は、部活よりもむしろ自主練習に熱を入れていた。……否、“熱を入れる”などという言葉では足りるまい。
常にトップであり続けるために、誰よりもプライドの高い『あの男』は、誰よりもその努力を惜しまない。故に人知れず、毎日遅くまで学院の武道場で稽古を続けているのだ。
叶大輔は、持っていたドラムバッグを打ち捨てた。
「……俺の前に現れたってことは、ケリつける覚悟ができたって事だな? 朝霧」
十メートルほど前方で、やおら竹刀袋から中身を抜いた大輔が睨んでいる。
「やっぱりケンカ腰なんだね。あんたは」
無駄だと分かっていながら、一応、綾は今夜の目的を果たす努力をした。
「いや、いきなりこんな事言われても、まッッッたく理解できないと思うけどさ。あたしね、この世界の朝霧綾じゃないんだ。で、『こっちの世界の日高』に頼まれて、アンタに自分が死んでない事を教えてやってくれって言われたんだけど。はぁ、……信じないよね。やっぱり」
もとより綾は、相手の説得など期待していない。大輔の頑固さがA面同様、鋼並みの強さをしていることは、昨夜で予習済みである。
「お前の頭がイカれちまってるのは、昨日の夜で確認済みだ。日高の仇、今日こそ討つぜ」
「ほらね。……やっぱりこの馬鹿は信じないんだよ、日高」
確かに先ほどの言葉通り、日高は綾に、大輔に自分の無事を伝えて欲しいと頼まれていた。
しかし、それを大輔に信じろというのは、無理な話なのだ。
B面の大輔は、よりによってA面の日高の殺害現場に出くわしている。昨夜の話を聞く限り、おそらく葬式にも参列していたのだろう。
そして彼の親友の殺害現場にいたのは、『B面の綾』だったのだ。
言葉を信じてもらえるだけの信用が、まず綾にはないのである。
そうこうしているうちに、大輔は獲物を大上段に構えていた。
たかが竹刀といえど、防具もなしに有段者の一撃をもらえば、打ち所次第でいくらでも死ぬ。それが分かっているだけに、綾はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「あー、大輔。一ついい? もし、今からやる“喧嘩”であたしが勝ったらさ、落ち着いて話を聞いてくれるって約束してくれない?」
大輔は、やはり上段の構えを解かない。
「気安く名前で呼んでんじゃねぇよ。……けど、ま、そうだな。もし俺が負けるような事があったら、そん時はお前の言ってること、全部本当だって信じてやってもいいぜ」
「へぇ? やけにあっさりオーケーしてくれるね」
「は。そりゃそうだろ。勝つと分かってる賭けに、乗らねえ馬鹿はいねえッッ!」
途端に、大輔の手元が霞んだ。
否、これが叶大輔の本気の打ち込みだった。
上段に構えていたはずの竹刀は今や、わずかに先じて反応した綾の足元にある。しかし、ステップバックで大輔の一撃を避けたのも束の間、彼女の爪先に向いていた竹刀の切っ先は、一瞬のうちに跳ね上がった。
追い突きの一刀である。
あらかじめ一刀目を綾が回避すると予想していた大輔は、はじめから彼女を突き殺す気でいたのだ。
ところがここで、不可解な事が起きた。
飛来する矢を思わせた叶大輔の竹刀は、赤髪の少女が無造作に振り払った右拳に触れると、刀身の下半分を残して分断してしまったのである。
宙を舞った竹刀の上半分は、乾いた音を立てて地面へ落ちた。
「……言っとくけど、真剣じゃないならそこまで怖くない」
振り払った右手を正中線へ引き戻し、『白仙』使い朝霧綾は呟いた。
「ちッ、昨日の動きはマグレじゃなかったってコトかよ。化け物が……」
大輔の行動は早かった。
頼みの竹刀が破壊されたとみるや、彼は踵を返して地獄坂を駆け上がっていったのである。
「ああッ!? 逃げるな、ひきょー者!」
昨日とは立場が逆である。綾も慌てて、通い慣れた学路を駆け出した。
深夜の九条学院は、正門をはじめとする各侵入経路が遮断されている。だが生徒の間には、代々受け継がれてきた、いわゆる“秘密の抜け穴”が存在していた。
学院を囲う塀の一角に、防犯カメラの設置されていない場所があり、そこを乗り越えるわけである。
奇しくもそれは、剣道部の部室の裏側にあたるため、彼はこれを利用して、深夜の自主トレを成功させているのだった。
「ハッッ!」
校内へ消えた大輔を追って、綾が短い呼吸で跳躍した。すると、二メートル以上ある塀の上まで、彼女の長身が一気に辿り着く。これも、白仙の身体操作がなせる技術の一つだった。
楽々と不法侵入を果たした綾は、一直線に目的地へ向かった。
大輔は部室棟にはいないという確信が、綾にはある。勝負の最中に撤退したとはいえ、プライドの高いあの男が、女々しく泣き寝入りなどするわけがないからだ。
ならば学院へ戻ってきた理由は一つだけ。武器の“補充”だろう。つまり大輔が向かった先は武道場という事になる。綾は不用意な追跡をやめ、校舎に面したグラウンドで彼を待つ。
悪意の気配は、すぐに現れた。
「……ノコノコ道場へ来るようなら、入り口に踏み込んだ時点で斬り殺してやったんだが」
上着を脱いだ大輔は、試合よろしく裸足になって、武道場に隠してあった真剣を構えた。
百八十センチを超える長身の剣士に正対した綾は、呆れた顔を真顔へ戻した。
「もう何を言っても聞かない、って顔してるね。……喧嘩は嫌いなんだけど、しょうがない。あたしもあんたに斬り殺されるのはゴメンだから、今日は本気でいかせてもらう」
言うと同時に、綾はコートの裾が地面に触れるか触れないかのところまで、腰を落とした。彼女はそのまま流れるように半身になると、前方の手を胸の辺りまで、ふらり、と持ち上げる。
初めて見るその奇妙な構えの実用性に、剣道出身の大輔は懐疑的だった。
これが、妖拳法『白仙』の基本型。
四百年前、片腕を無くした朝霧家の始祖『絶命斎』が、江戸中の武芸者達を震撼させた恐怖の構えだ。
無論、この体勢から放つ一撃は、女の綾でも充分過ぎる破壊力を秘めている。まともに食らえば、大人でもケガでは済まない。
「お前が拳法やってるってのは初耳だけどな、こっちも遊びで鍛えてるわけじゃねえんだよ」
大輔のその言葉で、綾は『B面の自分』がどういう人間か少しだけ分かった気がした。
初めて出会った時、B面の大輔は綾の髪の色を見て驚きはしなかった。
それはつまり、『こちらの世界の綾』も自分と同じ赤髪の白仙使いという裏付けである。だが、周囲にそれを悟られないように、『彼女』は白仙の事をひた隠しにして生きてきたのだろう。
戦いの最中だというのに、綾は、『この世界の朝霧綾』が十七年間も守り続けてきた、周囲とのバランスを崩壊させてしまった事を後悔していた。
「セッッッッ!」
横一文字に払われる真剣の軌跡が、気を抜いた綾の鼻先を通過する。
だが、大輔の攻撃はそこで止まらない。払う刀をすぐさま返した彼は、すり足で間合いを縮めると、すくい上げるような太刀筋で綾の首を刎ねに掛かる。
赤髪の少女は太刀を避けない。
しかし次の瞬間、どういうわけか大輔は、獲物の首を獲る寸前で、真剣の速度を弛めてしまう。同時に彼の二の腕には、異常な痛みがはしっていた。
「っッッ、またか!? テメェ、何しやがった!」
真剣が通過した座標から五メートルも離れた場所で、綾は相変わらず半身の構えを取っていた。ただし、後ろに退げた左半身、その足を少しだけ浮かせた状態で、だ。
それを見ただけで、大輔は自分が、いかにあり得ない事をされたのか思い知る。
中段の回し蹴りか、何かだろう。朝霧綾は単にそれで、叶大輔の腕を蹴ったに過ぎない。
完全にモーションが成立していた、彼の太刀よりなお速く。
「くそったれ。先に出した俺の方が遅いってのかあああぁぁあ――ッッ!!」
絶叫する大輔を眺めていた綾は、しかし、不意に鋭い痛みを感じ取る。手の甲で左頬を拭うと、そこにべったりと血の感触が返ってきた。
彼女は大輔の太刀を、完全には避け切れていなかったのだ。それはこの叶大輔の実力が、綾の住む『A面の世界の彼』よりも上であるという証拠であった。
「あ? ……ふ、ははははははは! なんだよ、当たってんじゃねぇか。そうか、当たってたのか。そうかそうか、血も出てるしな。……なんだよ。やっぱ殺せんじゃねぇか」
「…………簡単に、殺すとか言うな。バカ」
相手は自分を殺せるが、自分はそれをできない立場。これが赤の他人同士なら、まだ落ち着いていられただろうが、叶大輔は、『A面の世界』では気の良いクラスメイトなのである。
綾にはそれが、たまらなく悲しかった。
九条学院に二面あるグラウンドのうち、二人がいるのは、校舎に囲まれた野球場の入り口だった。
昨夜のような雨はない。しかし、代わりに吹き抜ける鋭利な夜風が、これから始まる決戦の激しさを予感させていた。
向かい合う赤と黒の髪、互いの額には、うっすらと決死の汗が浮いていた。
「遊びは終わりだ。本気でいくぞ、朝霧」
刀を逆手に持ち直した大輔が、空手を地面へ向けるのを、綾は緊張の面持ちで凝視する。
同時に綾は、日高に何度も念を押された、この世界における最大の特筆点を思い出していた。
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