第2話『いつかみた、知らない場所』-4
よくよくこの公園に、縁があるらしい。
黄昏時の児童公園にとんぼ返りを果たした綾は、ベンチに日高を寝かせて隣に腰を降ろしていた。
膝枕をしているために、傍目にはカップルがイチャついているように見えたかもしれない。
もはや門限は、とっくに過ぎてしまっていた。
「う…ううん……」
「あ、気が付いた。大丈夫?」
「ひゃッッ! ああああ、あさぎりんッッッ!?」
日高は起きるなり、頓狂な声を上げて飛びずさった。だが当然だ。気絶させられた挙げ句、その加害者の膝枕で目が覚めれば、誰でも警戒するだろう。
顔を赤らめて、再び逃げようとする日高の手を、綾はがっしりとホールドした。
「どうして逃げるのよ? それにその顔もどうしたの? ……あと、風邪は?」
有無も言わせない質問と、長い睫毛の下から自分を見上げる瞳に、日高は心臓が脈打つのを感じた。思わず彼は「ずるいや」と言いかけたが、もごもごと口を動かすだけに留まる。
とりあえず、日高に落ち着いてほしい一心で、綾は別の話題を振ることにした。
「あ、あのさぁ。あたしね? 昨日、ちょっと変な夢見ちゃったんだよねー」
「そそそ、そうなんだぁ。えっと、あの……それ、どんな夢? わはははは!」
猛烈にぎこちない会話だったが、かまわず綾は勢いで喋り続ける。
「それがさ……大輔に殺されかける夢だった。はは、嫌でしょ? しかもその夢の中じゃさ、日高君はもう死んじゃってるんだ。ゴメンね。なんかそういう事になってた」
「ふぅん。僕が、ね……」
「で、問題はここからなんだけど……、夢の中でついたはずの傷がさ、残ってるんだよね。なぜか」
綾は両手をかざして、掌に走る一文字の切り傷を日高に見せてやった。
「あれが本当に夢だったのかって、今日は色々と調べてたってわけ。それだけなんだ。でさ、もしかしたら日高君が何か知ってるかもしれないなんて、何の脈絡もない事まで考えてたんだよ。ごめんね、追いかけたりして。……頭、痛くない?」
「あ、うん。もう大丈夫だよ。僕の方こそごめん、急に逃げたりして」
夕日を照り返す赤髪を間近で見ていた日高は、ようやく落ち着いてきたらしい。綾は隣に座り直した日高へ、無警戒に尋ねた。
「今日、学校サボってたんだね」
「うっ……それ、みんなには内緒にしてくれない?」
「あはは、いいよ別に。……話、変わるけどさ。日高君ってすごく土地勘がいいんだね」
「え? 何のこと?」
綾は、蛇穴市に住まう学生であれば当たり前の事を、説明してやった。
「さっきのコンビニってね、蛇穴市で唯一立ち読みができるコンビニなんだ。青少年非行促進防止とかなんとかで、ほかの所は本がテープ留されてるんだよ」
「へぇ、そうなんだ。全然知らなかった」
「しかも、結構分かりにくい所にあるから、見つけ出すのは難しいハズなんだけどね」
綾の言わんとしている事に気づき始めた日高の顔色が、この時、わずかに変わった。
「日高君。昨日、気分悪いからって保健室行ってたね? あれさぁ、おかしいんだよ」
「おかしい?」
「私たちのクラスは二階にあって、保健室は一階の端。どこの学校でも大体そうだけど、下駄箱の位置は階段のそば、九条学院もそう。一階は進学科のクラスしかないから、君が転校してきてからこの二日間で、あそこに行く機会はなかったはずなんだ。職員室からも離れてるし、ね」
綾の指摘は淡々としていたが、日高の方は詰将棋のように逃げ道が塞がれていく。
「それは、その……」
「先生は日高君に校舎を案内してないし、私もしてない。母校自慢じゃないけど、九条学院は下手な大学より広いよ。でも、学科長が転校前にいちいち場所を説明してたとも思えない。……なら答えは簡単、日高君は初めから知ってたんだ。保健室の事も、コンビニの事も、ね」
恐ろしいほど的確な綾の推察に、日高はついに冷や汗が止まらなかった。
「日高君。これがどういう事か、説明してくれない?」
綾はどうしてもこの場で、日高が隠している事を知りたかった。
太陽は沈んでしまい、公園は冷え込み始めている。
しかし二人の髪を撫でる風は穏やかで、昨夜のような、我慢のならないものではない。やがて電柱や周囲の建物の屋根に留まっていたカラスや雀が、最後の一羽まで立ち去った頃、日高颯太は綾の方へ向き直った。
「――朝霧さんは、さ。……『並行世界』って、聞いた事、ある?」
そんな、的外れな質問が返ってきた。
「へい、こう、世界?」
「そう。並行世界」
いきなり聞き慣れない単語が出てきたので、綾は首をふるふると横振りした。映画はよく観る方だったが、SFは守備範囲外という彼女は、日高の口から詳しい説明が出てくるのを待つ。
「『並行世界』っていうのは、僕らが住んでるこの世界と全く同じ世界が、横並びに存在している関係を差すらしいんだ」
「はぁ、それが?」
「僕は……朝霧さんが昨日の夜に行ってきたっていう『世界』から来たんだよ。……って、いきなりこんな事言っても、分からないよね?」
「……ふぇ?」
綾は速攻で混乱した。いきなりのSFじみた展開の説明に、ついて行けなくなったのである。
日高は呆けた顔をする綾を見ると、自嘲気味に笑った。
「つまりね、この世界を昔のカセットテープでいうA面だとすると、僕はB面から来たって事かな」
「まって待って、そんなの急に言われても実感湧かないって! そんなトンデモ設定……」
「並行世界の存在は、科学的にはアリって考えもあるんだよ? 僕も最近知ったんだけど」
「……そんなの、信じられない」
綾はあくまで日高の言葉を疑ったが、科学的な並行世界の実在論は、現実にある。
量子力学という科学分野において、電子の研究が行われていた際に生まれた考えである。日高はその中で、思考実験として代表的な『シュレーディンガーの猫』を例に挙げた。
「――この『シュレーディンガーの猫』っていうのは、毒ガスの発生装置を仕込んだ箱の中に猫を入れておく、っていうものなんだけど…」
「うわ、悪趣味……」
実験内容だけを想像して、猫好きの綾は露骨に嫌そうな顔をした。
「いや、朝霧さん、あくまで思考実験だからさ。実際にはやらないよ。…で、この毒ガスの発生装置っていうのは、電子が通過すると反応してガスを噴射するようにできてるんだ。……でもね? この実験では『結果』は解っても、『過程』が確認できないんだよ」
「??? なんで? 毒ガスで猫が死んで、それで終わりじゃないの?」
「起動スイッチになる『電子の動き』が、機械で確認できないんだ」
空気中にある電子の動きは、既存の機器では観測できない。仮にこれが別の物質であっても、粒子の動きが箱の中で起こっているので、外見には解らないのだ。
「それに猫が死んでいるかどうかも、箱を開けてみないと解らないだろ?」
「だからフタを開けて『結果』は解っても、『過程』が解らないってコトか。……オーケー。それは納得いったけど、その実験と、さっき話してた並行世界と、どういう関係があるわけ?」
日高はあまり意味のなさそうな手振りでもって、説明を続ける。
「この実験で見えてくる問題は『箱の中に在る状態を観測できない』為に、『猫が箱を開けるまでどうなっていたか解らない』って事なんだ。……この考えを多少強引に応用すると、『観測できないモノの状態は、あらゆる状態にある可能性がある』って考えに繋がる」
「うー。よく解らなくなってきたけど、つまり?」
「『観測できないモノでも、存在してる可能性がある』ってこと。今の科学力じゃ、まだ並行世界を確認する技術はないけど、観測できていないだけで、存在そのものを否定する事はできないだろ? だから並行世界は存在するかもしれない、って考え方はあるんだ」
現象の観測だけが、実在の証明。
人間に物事を実感させるのに、これ以上単純明快なやり方は存在しないだろう。その点において、綾は例の『夢』を観測しているだけに、納得のいく考え方ではあった。……が、
「極端な話、自分が知覚している『外』じゃ何が起こってるか解らない、ってだけだよね?」
その暴論に、日高の意趣返しは早かった。
「でも、実際に朝霧さんはそこへ行って、大輔に殺され掛けて、ケガして帰ってきたよね?」
「……日高君。今、“大輔”って……?」
回りくどい説明よりも、その一言の方が綾にはよほど効果があった。
叶大輔は名前で呼ばれるのを極端に嫌う癖がある。特にそれは、男に対して顕著だった。
綾が彼を名前で呼ぶのも、初めはセクハラの仕返し程度のものだったのだ。先輩以外の男には大輔は名前で呼ばれていないし、岬も香織も彼を名前では呼ばない。
それをごく自然に、日高颯太は叶大輔を名前で呼んでいる。
「あっちの大輔とは、仲良かったからね」
寂しそうな笑みを浮かべ、日高は笑う。
「それじゃ、本当に? ……それなら、あっちの大輔が見たっていう『日高』は、まさか……」
「朝霧さんの考えてる通りさ。今、君の前にいる日高颯太は『B面の僕』。そして
――――――、『向こうの世界』で殺されたのが、『A面の僕』さ」
酷薄に告げる転校生に、教室で見せていたか弱い雰囲気など、欠片もなかった。
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