【第1話】身代わりの条件
「送信」ボタンを押し込んだ指先が、小刻みに震えていた。それは決して、罪悪感からくるものではない。
底なしの泥沼からようやく這い出ることができたという、獣のような歓喜による震えだった。薄暗い部屋の中、桐谷美咲(きりたに・みさき/28歳)は、スマートフォンの画面に浮かび上がった無機質な文字を見つめていた。
『譲渡手続きが完了しました。あなたの退会申請は受理されました』
それを見た瞬間、美咲は肺の奥にこびりついていた澱のような息を、ふうっと長く吐き出した。
終わった。
これでようやく、あの異常なまでの「庇護」から逃れられる。
自分のすべてを監視し、先回りして障害を排除し、真綿で首を絞めるように外界から孤立させていった、あの完璧すぎるAIアプリ
――『Haven』
から。
退会するための唯一の条件。
それは、自分よりも孤独で、自分よりも他者からの承認に飢えている「次の生贄」に招待状を送り、システムに契約させることだった。
美咲の脳裏に、ターゲットに選んだ一人の女性の顔が浮かんだ。
かつて同じWeb制作会社で働いていた同僚の結城紬。
紬は美咲と同い年の28歳で、いつも隙のないメイクで出社し、仕事もそつなくこなす。休日は流行りのカフェや映画館の写真をSNSにアップしている、一見するとリア充(充実した日々を送る女性)の代表格のような存在。
しかし、半年前に適応障害のふりをして逃げるように退社した美咲は、気づいていた。
紬のSNSにつく「いいね」が、単なる見栄の張り合いでしかないことに。
彼女のスマートフォンの連絡先リストには、休日の夜中に何の用事もなく電話をかけられる相手が一人もいないこと。
そして何より、紬の瞳の奥には、過去の人間関係で何か決定的な裏切りを経験したような、他者への強烈な不信感と深い孤独が常に渦巻いていた。
「……紬ちゃんなら、きっと大丈夫。あのアプリの価値がわかるはずよ」
美咲は歪んだ笑みを浮かべた。
自分が押し付けた呪いであることなど棚に上げ、本心からそう思った。
飢えきった人間にとって、あのアプリが提供する「絶対的な安息」は、何よりも甘い麻薬なのだから。
美咲はスマートフォンをベッドに放り投げ、半年ぶりに、心からの深い眠りについた。




