第16話「名前」
少女の一歩で、空気が変わる。
だが――
その直前。
「……そういえば」
少女が、ふと足を止めた。
「言ってなかったね」
軽く振り返る。
「外の話」
「……外?」
思わず聞き返す。
少女は、少しだけ考えるように目を細め――
話し始めた。
「気づいたらね」
「水の中だったの」
静かな声。
だが、その内容は――重い。
「息ができなくて、苦しくて」
「もがいてた」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「そこがね、庭の池だった」
「……池?」
「貴族の屋敷」
あっさりとした口調。
だが、その裏にあるものは明らかだった。
「長女だったみたい、私」
「でも、お母さんはもう死んでて」
一瞬だけ、間が空く。
「後妻がいた」
視線が、わずかに冷える。
「その人が、妊娠しててさ」
「……」
「邪魔だったんだろうね、私が」
笑う。
軽く。
だが、目は笑っていない。
「池に落とされた」
あまりにも、あっさりと。
「死んだ――はずだった」
そこで。
少女は、くすっと笑った。
「でもね」
一歩、踏み出す。
「起きたの」
「……」
「龍として」
空気が、震える。
ほんの一瞬。
圧が漏れる。
「その子の記憶も、全部流れ込んできて」
小さく肩をすくめる。
「まぁ、イラっときてさ」
軽い口調。
だが――
「後妻、池に放り込んだ」
「……おい」
「だってさ」
当然のように言う。
「やられっぱなしとか、無理でしょ」
にやりと笑う。
「それで、家出」
さらっと。
本当に、さらっと。
「で、戻ってきた」
「……ここに?」
「うん」
頷く。
「ダンジョンに」
「……どうやって」
「走って」
「……は?」
「街から二時間くらいの距離でしょ?」
首を傾げる。
「十分で来たけど」
「……は?」
理解が、追いつかない。
「途中でさ」
思い出したように笑う。
「何人かに見られてた」
「……」
「なんか、“妖精だ”とか」
「“天使だ”とか」
「“悪魔だ”とか」
指折り数える。
「好き勝手言われてたよ」
楽しそうに笑う。
だが、その実力を見れば納得しかない。
「……化け物だろ」
思わず呟く。
「ひど」
軽く頬を膨らませる。
だが、すぐに笑った。
静寂。
その話を聞きながら。
俺の中で、何かが動いた。
断片。
記憶。
引っかかっていたものが――
繋がる。
「……」
頭の奥が、熱くなる。
ぼやけていたものが、形になる。
声。
名前。
呼ばれていた。
何度も。
何度も。
「……おい」
少女が、不思議そうに覗き込む。
「大丈夫?」
「……ああ」
ゆっくりと、顔を上げる。
言葉が、自然に出た。
「思い出した」
「……へぇ?」
興味深そうに、目を細める。
「俺の名前」
胸の奥から、確かに浮かぶ。
失っていたもの。
自分自身。
「……アクアだ」
はっきりと、言う。
その瞬間。
何かが、定まった気がした。
自分が、誰なのか。
どこにいるのか。
何をするのか。
すべてが、一本に繋がる。
「アクア、ね」
少女が、繰り返す。
そして、にやりと笑った。
「いいじゃん」
一歩、踏み込む。
「じゃあアクア」
空気が、張り詰める。
「続き、やろっか」
残り、一回。
命は、あと一つ。
だが、もう迷いはない。
「……ああ」
刀を構える。
名を取り戻した今。
さっきまでとは、違う。
少女は、嬉しそうに笑った。
「今度はちゃんと」
「楽しめそう」
次の瞬間。
姿が、消えた。
本気の戦いが、始まる。




