第8話 【結論】南ひまりはガチでした
結論から報告する。
南ひまりは、ガチだった。
ガチもガチ、大ガチ勢だった。それも、いちばん恐ろしいタイプの。
「あ、ここ! ここの入り、聞いて。ワンコーラス目より半音、息を多くしてるの。夜が深くなった感じするでしょ」
ベッドを背もたれにして、クッションを抱えて、タブレットの画面を指差しながら、南ひまりは早口になっていた。学校では見たことのない速度だった。
「ルネちゃんの歌ってね、二番から始まるの。ううん、正確には、一番はドアをノックしてて、二番でドアを開けてくれるの。伝わる? 伝わんないか、これは通ってる人にしか」
言いながら、南ひまりはベッドサイドから一冊のノートを引き抜いた。表紙に、手書きの月と花。開かれたページには、日付と曲名が、几帳面な字でびっしり並んでいた。
「せ、セトリ……?」
「うん。全配信ぶん。曲順と、その日のルネちゃんの調子と、一言メモ。ほら、この日は『二曲目、鼻声。かわいい。おだいじに』って」
鼻声の日まで、記録されていた。
わたし自身、自分の全セットリストの記録なんて持っていない。つまりこの部屋には、公式より正確な一次資料が存在する。研究機関である。わたしという現象の。
ただ、伝わる。
伝わってしまう。なぜなら二番から鍵を開けるのは、わたしが意図的にやっている設計だからだ。一番から全力で開けにいくと、疲れて帰ってきた人の耳には、うるさい。だから一番は外に立って、二番で「入っていい?」をやる。
誰にも説明したことのない設計図を、隣の女の子が、音声だけから逆算して読み上げてくる。
こわい。
このガチ勢、解像度が高すぎる。ちかの言った通りだ。声の癖、歌の呼吸、細部から気づくのは、いつだってガチ勢のほう――防犯上、これほど危険な隣人はいない。今すぐ距離を取るべきだ。撤退。撤退である。
なのに。
「……あとね、これは、ほんとに誰にも言ったことないんだけど」
画面の中のわたしが、三曲目を歌い終えたところで、南ひまりの声が、ふっと小さくなった。
「ルネちゃんの歌う夜って、こわくないの」
「……こわく、ない?」
「うん。夜ってさ、ひとりになるじゃない。昼間どれだけ人に囲まれてても、夜は、ぜったい、ひとりになる。わたし、それが昔からすごく苦手で。……でもルネちゃんの歌を聴いてから、夜が、『ひとりになれる』時間に変わったの。なる、と、なれる。一文字なんだけどね」
クッションに顎をうずめて、南ひまりは画面を見ていた。
その横顔は、廊下の空気を変える有名人でも、祭壇を作るガチ勢でもなくて、ただの、夜がこわかった女の子だった。
――なる、と、なれる。
一文字の違いを、この人は一年半、抱えて聴いてくれていたのか。
喉の奥が、あつくなった。まずい。これは、まずい。配信者・夜顔ルネの涙腺は、リスナーのこういう話に対する耐性が、構造的に無い。
「……っ、南さん、あの、飲み物! ココアのおかわり、もらっていい!?」
「え? あ、うん! 持ってくるね」
南ひまりがキッチンに立った隙に、わたしは天井を仰いで、目の水分を物理で引っ込めた。危なかった。隣の席の地味な女が、推しの感想で泣き出したら、意味がわからなすぎて逆に事案である。
――検証結果。
南ひまりの「好き」は、本物だった。
案件でも、企画でも、にわかでもなかった。梱包を手紙と呼び、選曲の意図を言い当て、一文字の違いに救われたと言う。二十八万人の中で、こんな聴き方をしてくれる人が何人いるか、配信者のわたしがいちばんよく知っている。
本物であるがゆえに――わたしにとって、この世でいちばん、隣にいてはいけない人だった。
「はい、ココア」
「あ、ありがと……」
マグカップを受け取る。あたたかい。ミルク多めの、やさしい配合だった。
「アーカイブ、ラストの曲いこ。わたしこれ、金曜のセトリでいちばん好きかも」
再生が始まる。画面の中のわたしが、息を吸う。
隣で、南ひまりが、すこしだけ姿勢を正した。
ふざけて見ていた切り抜きのときとは違う、まっすぐな聴き方だった。ライブ会場のいちばん前の席みたいに、画面の中の月を、見上げていた。
……変な気分だった。
歌っているのはわたしで、でも、ここにいるわたしは聴く側で、隣には、わたしの歌で夜がこわくなくなった人がいて。
二時間の地獄の、いちばん最後の五分間だけ。
地獄は、なぜか、そんなに悪くない場所だった。




