第9話 【疑問】謎は深まる一方である
マンションを出るころには、空が夕方と夜のあいだの色になっていた。
「駅まで送ってく。川沿い、この時間いちばんきれいだから」
「え、いいよ、悪いし……」
「わたしが歩きたいの。はい、決定」
決定された。この人の多数決は、いつも一票で可決される。
川沿いの遊歩道は、水の匂いと、夕方の風でできていた。ジョギングの人が二人、犬の散歩がひと組。南ひまりは歩きながら、今日のアーカイブの余韻を、まだぽつぽつと話していた。三曲目の高いところ。雑談の間の取り方。わたしはそれを「へえ」「うん」で受けながら、内心で本日の検証結果報告書を作成していた。
結論。撤退不可能。
理由。敵はガチ勢である以前に――なんというか、その。
いい人、だった。いい人という言葉の解像度が低すぎるなら、こう言い換えてもいい。人の「好き」を、一年半、ちゃんと大事に抱えていられる人だった。そういう人から距離を取る正当な理由を、わたしはまだ発明できていない。
「……あのさ、南さん」
だから、聞いてしまったのだと思う。ずっと喉の途中に引っかかっていた質問を。
「なんで……わたし、なの?」
南ひまりの足が、半歩ぶんだけ、遅くなった。
「南さんは、その、誰とでも仲良くなれるでしょ。クラスの誰とでも。学校の誰とでも。なのに、なんで、わたしなんかに構うの。……効率、悪くない?」
効率、という言い方が我ながら卑屈で、言った端から後悔した。でも南ひまりは笑わなかった。茶化しもしなかった。川のほうを見て、すこしだけ黙って、それから言った。
「理由は、あるよ」
「……あるんだ」
「ちゃんとある。世界一ちゃんとした理由が」
こっちを向く。夕方の最後の光が、南ひまりの輪郭で、ふちどりみたいに光る。
「でも、まだ内緒」
「な……なんで」
「言ったら、すみれちゃん、逃げちゃいそうだから」
……。
逃げる、の中身はわからない。わからないけど、わたしの人生の実績欄に「逃走」の二文字が並んでいることだけは、本人がいちばんよく知っている。反論できなかった。
「そのうち言うね。ちゃんと、言える日が来たら」
南ひまりはそう言って、また歩き出した。
そして――その数十メートル先で。
彼女の歩調が、もう一度、ゆるんだ。
遊歩道の脇。桜の木の陰に、古い屋根付きのベンチがひとつ。昔はバス停だったらしい、時刻表の枠だけが残った、誰も使わないベンチ。
……あ。
待って。ここ。
知ってる。というか、わたしの縄張りである。
正確に言うと、雨の日限定の、わたしの秘密の発声スポットだ。雨の音は、小さな歌声をきれいに消してくれる。だから雨の日だけ、学校帰りにここへ寄って、屋根の下で、金曜のセットリストの確認をする。誰も来ないから選んだ場所。
「――わたしね、この場所、好きなんだ」
南ひまりの声で、我に返った。
彼女は歩みを止めないまま、でも視線だけ、あの古いベンチに置いていた。
「へ、へえ……バス停の、跡だよね」
「うん。前にね、一回だけ、ここで――」
南ひまりは言いかけて、ふふ、と笑って、やめた。
「――ここで、宝物をもらったことがあるの」
「た、宝物」
「そ。世界一あったかい宝物」
……ベンチが? 何かくれるの? 都市伝説?
わたしの頭上に浮かんだ疑問符には答えず、南ひまりは「さ、駅こっち!」と歩調を戻した。夕方の風が、川の上をわたって、彼女の髪とわたしの前髪を、同じ向きに揺らした。
駅の改札の前で、南ひまりは言った。
「今日、来てくれてほんとにうれしかった。……推しの話をね、ちゃんと聞いてくれる人と、推しを一緒に見られるのって、こんなに楽しいんだって、初めて知った」
八十三万人向けじゃない、出力むき出しの笑顔。
まぶしい。今日一日で網膜が何回か焼けた気がする。
「じゃあね、すみれちゃん。また月曜!」
駅の向こうで手を振る太陽を見送って、わたしは反対方向に帰りながら、ぼんやり考えていた。
世界一ちゃんとした理由。
宝物のベンチ。
……何ひとつ、わからなかった。
――あ。
わたしは約束を思い出した。ガチだったら、帰りに教えて。いちばんに。
『報告。ガチでした』
送信して十秒で、既読がついた。
『どんくらい』
『祭壇があった。グッズ全種。選曲の意図まで言い当てられた』
『うける』
うける、のあとに、めずらしく三十秒の間があいて、もう一通だけ届いた。
『ま、敵じゃなくてよかったじゃん。おつかれ』
敵じゃなくてよかった。ほんとにそのとおりだ。




