第7話 【検証】インフルエンサーの「好き」は本物なのか
南ひまりの住むマンションは、駅の反対側の、川沿いに立つ白い建物だった。
エントランスがホテルみたいで、オートロックの前でわたしは三回、自分の服装を確認した。いちばんまともなカーディガンを着てきたのに、建物に負けている。建物に服装で負けるという経験を、人は人生で何回するのだろう。
『開いたよ! 八階ね!』
インターホンのスピーカーから弾んだ声がして、ガラスの扉が音もなく開く。
八〇三号室の扉は、わたしがチャイムを押す前に開いた。待ち構えていたらしい。
「いらっしゃい! 来てくれてありがと、すみれちゃん」
部屋着の南ひまりは、学校の南ひまりより、二割やわらかかった。ゆるいパーカーに、ハーフアップ。雑誌の中の人が、雑誌から出て、洗濯された感じ。語彙が迷子だけど、そういう感じだった。
「お、おじゃまします……」
「今日ね、お母さん夜まで仕事だから、気楽にして。何もないけど、なんでもあるよ」
「どっち……?」
通された部屋は、リビングも廊下も、モデルルームみたいに整っていた。生活の音が少ない家だ、と思った。うちみたいに、妹の漫画が階段に積まれていたりしない。
そして、南ひまりの自室のドアが開いた瞬間。
わたしは、入口で固まった。
「……あの、南さん」
「ん?」
「あの棚は……何?」
部屋の一角。白いラックが一本、まるごと、紫色に染まっていた。
アクリルスタンド(第一弾・第二弾・コンプリート)。缶バッジ(トレーディング仕様・全種)。一周年記念のタペストリー。二周年のボイス入りキーホルダー。手作りとおぼしき、歌枠のセットリストをまとめたファイル。そのすべての中心に、月の髪飾りの女の子が、いた。
夜顔ルネの、祭壇だった。
「えへへ。びっくりした? 推しコーナー」
びっくりした。心臓が三回くらい変な動きをした。
なにせ、そこに並んでいる物のほとんどを、わたしは知っている。知っているどころか、梱包した。缶バッジの発送で指を切って、こむぎに「不器用にも程がある」と言われたのは去年の夏だ。あの缶バッジのどれかには、わたしの血と汗が比喩でなく染みている可能性がある。
それが今、川沿いの白いマンションの八階で、こんなに大事に、飾られている。
「グッズってさ、買うたびに思うんだ。個人勢さんだから、これぜんぶ、ルネちゃんが自分で考えて、自分で手配してるんだよなあって。だから届くとき、荷物っていうより、手紙みたいな気がして」
手紙。
そのつもりで、送ったことは、なかった。ただの段ボールだと思っていた。むしろ送料の計算ミスの記憶しかない。
でも、受け取る側の部屋では、手紙だったのか。
「……南さんは」
声が、少しだけ揺れた。揺れを咳払いでごまかして、わたしは、検証、という本日の任務を思い出す。
「その、いつから……ルネ、ちゃんの、ファンなの?」
「んーとね」
南ひまりはラックの前にしゃがんで、いちばん古い、初期デザインのアクリルスタンドを手に取った。今見ると顔のバランスが微妙で、本人としては回収して回りたい第一弾である。
「そろそろ一年、かな。ちょうど、いろいろあった時期でね」
いろいろ、のところで、南ひまりの声が、すっと薄くなった。
八十三万人の前で完璧に笑う人の声に、一瞬だけ、混ざった別の周波数。わたしはそれを、聞き逃さなかった。聞き逃せなかった。毎週、画面の向こうの見えない誰かの息づかいを、文字の速度から測ってきた耳だから。
――いろいろ、って、なに?
聞きたい。でも、聞いていいのか、わからない。わたしはまだ、この人の何なんだ。隣の席の、ただの。
迷っているうちに、南ひまりはアクリルスタンドを棚に戻して、いつもの明るさで振り返った。
「さ! アーカイブ見よ! 金曜のやつ、わたしまだ我慢して見てないんだ。すみれちゃんとリアタイ気分で見ようと思って」
「が、我慢……」
「ね、飲み物なにがいい? ココアでいい?」
ココア、という単語に、なぜか一瞬、既視感のようなものが胸をかすめた。
かすめて、消えた。
そして始まったのだ。
本人の隣で、本人の生配信のアーカイブを、二時間視聴するという、人類未踏の地獄が。




