97☆鋭いんですけど
朝の柔らかな光が、カーテンの隙間から細い筋となって差し込んでいた。
8時にセットした目覚ましが鳴り出した。まぶたの裏側に広がるオレンジ色の光が眩しい。アラーム音は、枕の先で、心地よい鳥の囀りを鳴らし続けている。
それを止めようと手を伸ばす。だが、身体を動かそうとした瞬間、胸から腹のあたりにかけてずっしりと重い何かが巻きついていることに気がついた。
「……ん?」
瞼を押し上げる。首だけを少し傾けて横を見た。 視界に飛び込んできたのは、るなの胴体にガッチリと腕と脚を巻き付け、すやすやと眠るチヒロの寝顔だった。
るなはぼんやりと整ってきた意識で思い出す。昨夜は歓迎会バーベキューとやらで、チヒロは0時近くに帰ってきた。泊まっていいとは言ったものの、バーコードキーを送り忘れたので激しく鳴り響くチャイムに起こされたのだった。
泥酔したチヒロは、帰ってくるや否やるなに『会いたかったーぁ!』と抱きついてきた。それだけならまだしも、無防備なるなを床に押し倒し、キスまで迫ってきたのだ。
避けきれる状態ではなかったので覚悟を決めたるなだったが、チヒロは急に電池が切れたようにこてんと寝てしまった。うんしょとチヒロの重しから抜け出したるなはラグマットまでチヒロを引きずり、タオルケットだけ掛けてそのまま放置した。
それが今、るなの眼前で幸せそうに眠っている……。
「……ちょっとチヒロー……! お酒臭いよぉ」
るなは呼びかけながら、身体を捩って抜け出そうとした。だが、キャッチャーとして鍛え上げられたチヒロの腕力と足腰の力は、無意識の睡眠中であっても生半可なものではない。ぎゅっと抱きすくめられ、逆に距離が縮まってしまった。
「もうっ! 苦しいってばー。このホールドお化けぇっ」
もう一度脱出を試みるが、チヒロの内転筋には力及ばず。そういえば高校の合宿でも、隣の布団で寝ていたチヒロがいつの間にかるなの布団に潜り込んで寝ていることが何度かあった。懐かしさに浸りたいところだが、チヒロの筋力は高校時代と比べものにならない。
「ほんと……相変わらず距離感がバグってるんだから……」
るなは呆れつつも、胸の奥がじんわりと熱くなる自分がいるのを感じていた。
高校時代から変わらない、この圧倒的な人懐っこさと、土足で踏み込んでくるような無邪気さ。神月真鈴ほどのカリスマが『あの目が怖い』と壁に追い詰められたような恐怖を感じたのも無理はない。チヒロという人間は、他人の心の境界線をいとも簡単に踏み越え、当たり前のようにその中へ入り込もうとする。
「ん……んぅ……」
ちいさな呻き声とともに、チヒロの瞼がうっすら開いた。大きな黒目が、目の前にあるるなの顔を捉える。数秒間の空白。やがて、チヒロの顔がパッと華やぎ、いつもの満面の笑顔に変わった。
「おっはよー、るな!」
一瞬力が弱まった。その隙にるなは急いで距離を取る。何事もなかったかのように、チヒロはふわぁっと大きなあくびをした。
「おはよう、じゃないよ。なんで人のベッドに入ってきてんの。せっかく下にお布団敷いといたのに」
「えー? だって床硬かったんだもん。それにさぁ、るなの匂いがするほうがよく眠れるでしょ?」
ぬけぬけと言い放ちながら、チヒロは再びるなを抱き寄せる。頬をすりすりと寄せてくるので、まるで大きな犬に懐かれているような感覚に、るなは「痛い痛い! 潰れる!」と抗議の声を上げた。
ひとしきり暴れて、ようやくチヒロの拘束から逃れ出た。乱れたパジャマを整えながらるなが立ち上がると、チヒロもようやく上体を起こした。
ベッドの上で豪快に背伸びをするチヒロ。Tシャツの裾がめくれ上がり、鍛え上げられた健康的な腹筋が覗く。昨夜の泥酔状態が嘘のように、すでに覚醒した瞳は澄み切っている。
「頭痛くないの? 昨日あんなに酔っ払ってたのに」
「んー? ぜーんぜんっ。『明日も試合あるから』ってみんなあんまり飲まなかったから私一人でいっぱい飲んじゃったけど、二日酔いとかなったことほとんどないんだよねぇ」
「……はぁ。ほんとにタフなんだから……」
「よーっし! すぐ朝ご飯作るね!」
ベッドから飛び降り、チヒロはそのまま洗面所へダッシュした。何事にも全力投球の体力お化け。勢いよく流れ出る水音を聞きながら、るなはカーテンを開けた。
3年間を共にした戦友との時間は、気兼ねなくて心地よい。少し騒がしいけど、このまま一緒にいるのも悪くないかなー……と、朝日に照らされコバルトブルーに輝くセシアナの海を眺めた。
「ふぅー、すっきり! おっ、今日もお天気良さそうだねぇ」
洗面所から水音が消え、タオルで顔を拭うチヒロがリビングに戻ってきた。
隣に並んで一緒に海を眺める。「いい部屋見つけたね」と無邪気に笑うチヒロ。すぐに「ご飯にしよっ」とるなの両肩を掴み、ダイニングチェアに座らせた。
キッチンで手早く朝食を作るチヒロ。『元旦那のことは嫌いだけど』と言っていた。離婚の理由など聞けないが、面倒見のいい奥さんだったろうにな……と、その背を見つめるるな。
「はーい! モーニング一万円セット、お待たせしましたー」
るなの前に並べられたのは、ママレードトーストとゆでたまご。別皿には、ボイルウインナーとマッシュポテト、最後にミルクティーが置かれた。
あっという間に出来上がった朝食に目を輝かせ、るなは「いただきまーす!」とトーストにかじりついた。
「マッシュポテトもおいしい! 一万円の価値ある!」
「あははっ、嘘つけー! でも、私はるなにご飯作らせてもらってるだけで一万円分の価値があるよ?」
「嘘つけー!」
そんな会話をしながら、るなはぺろりと朝食を平らげた。腹が落ち着いて、ふーっと背もたれに寄りかかる。まだ半分も食事の進んでいないチヒロが「ねぇ」と唐突に切り出した。
「昨日の夜さ、真鈴様と一緒にいたでしょ?」
チヒロはティーカップをテーブルに置き、頬杖をつきながらるなをじっと見つめた。
その瞳は、先ほどまでの朗らかな表情とは一変し、まるで打席でピッチャーの癖を見抜こうとするときの、あの鋭く、深い光を宿していた。
「えっ……どうして?」
「……否定しないんだね」
チヒロの観察眼は、恐ろしいほどに鋭い。昨夜廊下で『スマホを探す』と言ったるなの嘘も、チヒロには最初からお見通しだったのか……。
ならば、嘘を重ねても苦しくなるだけだ。るなが返事に困っていると、チヒロはすねたように唇を尖らせ、背もたれにどさっと寄りかかった。
「私の歓迎会よりも、真鈴様が大事だったんだ? 昔っからそうだよね、るなは私のことは二の次。いつだって後回し」
「そ……そんなことないでしょ! チヒロのこと大好きだから、しばらく泊まってもいいなんて言ったんだよ? 好きでも大事でもない人、泊まらせないでしょ!」
「……そう?」
チヒロは疑わしげに小首を傾げた。テーブルから身を乗り出し、上目使いでるなを見つめてくる。真鈴も言っていた、心の奥底まで見透かされそうな目だ……。
「私ね、真鈴様のこと、すっごくかっこいいと思ってるんだ。世界一のカリスマエースだし、投げてるボールも、佇まいも、ぜんぶ美しいなって思ってる。何もかも完璧で、同じ人間とは思えないよねぇ」
チヒロはそこまで言うと、ふっと自嘲気味に目を細めた。
「でも、完璧じゃなかった。実際はウブで真面目。純粋で傷つきやすい。……違う?」
何が言いたいのか聞き出したいのか心意の分からない問いかけにるなは内心イラ立ちを覚えたが、確かにチヒロの言う通りだ。さすがの観察眼に敬服する。
今だってるなの表情の変化で見極めようとしている。なるべく平常心を心がけ、声色も変わらないよう返した。
「……ピッチャーなんて、そんな人ザラにいるでしょ。だからこそ、強いボールを投げられる」
「あー……やっぱ庇うんだぁ?」
「……庇う? なに、庇うって」
「んー……もういいや。るなはいつも何時から朝練行くの? 私も一緒に出たいから、おいて行かないでね?」
それだけ言って、チヒロは黙々と食事を再開した。着地点どころか話の本筋も分からぬままで、るなの心にはもやつきだけが広がっていく。あれだけ穴が開きそうなほど見つめてきたその目は、食後まで一度もるなに向くことはなかった。
先にごちそうさまをしたるなは喉の奥に何かがつかえたまま、食器洗いと身支度を終える。同じく出かける準備を始めるチヒロだが、るなと違うのは鼻歌交じりにごきげん、ということ。
チヒロのことは大好きだ。でも、真鈴も大事だ。
チヒロが嫉妬のようなものを真鈴に向けようものなら、弱点を知られている真鈴が絶対的に不利になる。
だが、底抜けに明るいチヒロが大ファンと公言する神月真鈴に敵意を向けるとは思えない……。
サエの件で考えすぎているのだろうか……。るなは「でーきたっ!」とスポーツバッグを担ぐチヒロの背を見つめる。
ファスナーの先で、るにゃキャットの小さなキーホルダーがゆらゆらと揺れていた。




