96☆怖いんですけど
公式戦後半初戦は、オーシャンドームの満員の歓声の中で始まった。
先発の真鈴は、立ち上がりから圧巻の投球を見せていた。ストレートは最速150キロを超え、鋭く落ちるフォークボールで敵のバッターを次々と三振に切って取る。
だが、ベンチに戻ってくる真鈴の表情は、どこか硬かった……。
普段なら余裕の表情で味方の攻撃を見守る真鈴が、今日はチラチラとチヒロの視線を警戒するように落ち着きがない。
そして、7回裏。互いに無失点で迎えたドルフィンズの攻撃。ノーアウト一塁・三塁のチャンス。監督は8番のところで代打にチヒロを送った。
移籍後、初打席。誰もが宇田川チヒロのスイングに注目した。
初球のストレート。インローに甘く入ったボールを、チヒロは豪快なスイングでライトに弾き返した。一塁ランナーの懸命な激走もあり、先制の2点タイムリーツーベース。ドルフィンズデビューを華々しい活躍で飾った。
「すごい、すごいよチヒロー! ナイスバッティング!」
スリーアウト後、ベンチへ戻ってきたチヒロを、みんながハイタッチで迎える。元相棒の活躍に、るなも大はしゃぎで抱きついた。
スコアは2対0。ここからリードを守り抜く。るなはより気合を入れ、8回表の守備についた。
「……あれ?」
マウンドに真鈴の姿がない。すでに他の選手は定位置についている。スタジアムの中央だけが、ぽっかりと空いていた。
球数はまだ90もいっていない。スタミナのある真鈴なら、いつもは完投のパターンなのに……。
るなはベンチに視線を向けた。監督と話す真鈴の背があった。大きく上下させる手振りからして、かなり興奮しているように見える。間に入ったピッチングコーチの横顔からも焦りが伝わってきた。
嫌な予感が当たらなければいいのだが……。
るなはマウンドに視線を戻す。ホームベースのその先に、代打で活躍したチヒロがいた。マスクを被ったまま、不思議そうに首を傾げベンチを見つめている。
球場がざわつき始めた頃、真鈴はようやくベンチから出てきた。目が合った。るながマウンドへ駆け寄った時でさえ、あまり目を合わそうとしないのに、今は何かを求めているような視線を送ってくる。
「真鈴……」
るなは一歩踏み出した。しかし、真鈴は小さく首を振り、そのままマウンドに立って背を向けてしまった。るなはそれ以上踏み出さなかった。
エースは葛藤している。誇りとプライドだけが、真鈴を突き動かしているのだろう……。
真鈴がセットポジションに入った。チヒロはサインも出さず、じっと射貫くような視線でミットを構えている。
『どんな球でも、受け止めてみせる』
るなももちろん味わったことがある。チヒロの、あの情熱的な視線を……。
だが、投球モーションには入らず、真鈴は一度プレートから足を外した。見ていられなかった。肩でため息をついている。るなは思わずマウンドへ駆け寄った。
「真鈴、大丈夫! あの子、ちょっと破天荒なとこはあるけど、キャッチャーとしては私のお墨付きだから」
「……るなさん……集中できないんです。あの目が怖い……」
「大丈夫だって! 試合中に取って食ったりしないよ。力を抜いて、安心して投げて?」
「るなさんまで……。分かりました……」
真鈴はすぐに目を逸らしてしまった。るなは急いで守備位置に戻る。投球モーションに入ったエースの姿は、いつも通り美しかった。
*
真鈴は投げ切った。ドルフィンズの連敗は10でストップ。完璧な完封勝利だった。
試合後のヒロインインタビューは、もちろん真鈴とチヒロが呼ばれた。だが、お立ち台の上に真鈴の姿はなかった。眩しいほどの笑顔でインタビューに応じるチヒロだけ。辞退した真鈴は、独り静かにベンチ裏へと姿を消していた。
るなは片づけを後回しにし、真鈴の姿を探した。ブルペンにも、シャワールームにも、ロッカールームにもいない。トレーニングルームにも、ウォームアップルームにも、その姿はどこにもなかった。
「るーなっ! どしたのー? そんなに急いで」
廊下を駆けずり回っていると、わいわい引き上げていくチームメイトの中にチヒロがいた。るなの腕を掴み、にこにこと問いかけてくる。
「いや、あの……スマホどっかに置き忘れたみたいでさ……」
「えー、マジで? 大変じゃん。ちょっと待ってて! 私のスマホで鳴らしてあげるから」
チヒロはロッカールーム方面へと、くるり向きを変えた。今度はるながチヒロの腕を掴む。ぷるぷると首を振り、「大丈夫、大丈夫だからっ」と制止した。
「……どしてー? 探すの手伝ってあげるってば」
「う……ううん。大体見当ついてるから。ほんと大丈夫なの……。ありがとね、チヒロ」
「……そう?」
少し疑いの眼差しをよこしてきたチヒロだったが、チームメイトに呼ばれ「オッケーオッケー!」と答える。
「るなも来るでしょ?」
「……え? どこへ」
「私のプチ歓迎会やってくれるんだって! これから球場裏のビーチで、シーフードバーベキュー……あっ、るなは魚介類食べれないかぁ。でも、何か他にも食べれるものあるかもよ?」
明日もナイターがあるというのに、移籍翌日に歓迎会とは……。さすがチヒロ、ふところに入るのも溶け込むのも早い。
歓迎会は、シーズン中は行われないものなのだと思っていた。数カ月が経っても未だ開いてもらっていないるなは複雑な気持ちだった。
まぁ、同日に神月真鈴というカリスマが移籍してきたので、大方恐れ多くて開けなかったのだろう、と思うことにする……。
「ううん、ごめんけど私は……」
「そんなこと言わないでさぁ。行こうよー! るなが行かないなら、私も行かなーい」
「チヒロは主役でしょ? チヒロがいないと始まらないじゃない」
「そうだけど、るながいないと寂しいもん。……あっ、真鈴様にも声かけなきゃ! インタビューの後に聞こうと思ったら、いつの間にかいなくなっちゃってたんだよねー。どこにいるんだろ? るな、知ってる?」
大きな黒目が近づいてくる。心理を覗かれそうで、るなは「知らない」とそっぽを向いた。
「私、スマホ探さなきゃだから……。チヒロは行っておいで? 1人で帰って来れるでしょ?」
「えー……。うーん……」
生返事のチヒロを残し、るなは廊下の奥へと急いだ。幸い、追いかけてくる気配はなかった。
どこへ行ったのだろう。真鈴が行きそうな場所……。るなは必死で頭を働かせながらも、もう一度ブルペンを見返すことにした。
ブルペンは、試合後に使われることが少ないし、真鈴の心がなじむ場所だ。独りになるにはやっぱりあそこしかない……。
「真鈴……?」
広いブルペンの中を覗き、そっと呼んでみる。返事はない。ブースを隔てているネットをくぐり、1つ1つ丁寧にその姿を探した。
その、1番奥のブース。ネット越しに、長椅子で項垂れている人影があった。頭からタオルを被っているので顔は確認できないが、腕の白さやスパイクで、真鈴だと確信がもてた。
「……真鈴、お疲れ」
真鈴の肩がぴくっと跳ねた。「私」と近づくと、真鈴は少しだけ顔を上げた。
「……どうしたんですか? るなさん」
「こっちのセリフ。らしくないから心配したよ」
「……」
「でも、ナイスピッチだったね。最後まで投げ切って、えらいえらい」
わざとおどけて言い、タオルの上からわしゃわしゃと頭を撫でる。真鈴は抵抗しなかった。代わりに、ふっと小さく笑った。
「情けないですね……。心と一緒に、ピッチングまで乱れるとこでした。カリスマエースの名が泣きますよ……」
「カリスマだって人間だから、打たれる時だってあるでしょ。神なら打たれないのかもしれないけど、神様だったらそもそもプロ野球球団には入れないから」
「人間……ですかねぇ……」
真鈴はいきなりるなの後頭部に腕を回し、そのまま自分の胸元に顔を埋めさせた。突然のことに驚いたるなは逃れようと暴れるが、るなの頭を抱きしめるその手が緩むことはなかった。
「臭いですか? あたしの汗」
何を言うのかとツッコミを入れようとしたところでるなはその意図に気付き、ぴたりと抵抗を止めた。
「臭いよ。汗臭い。人間だもん」
しっとりと湿り気のあるユニフォームに押しつけられ、るなはもごもごとくぐもった声で答える。真鈴の柔らかく大きな胸が一瞬震動し、「正直ですね」と声が降ってきた。
ようやく腕の力が緩んだ。「もうっ」と言いながらるなが顔を上げると、苦笑する真鈴がタオルを取って見下ろしていた。
「でも、やっぱりちょっと傷つきますね。臭いとか言われると」
「自分が聞いてきたんでしょーが。チヒロみたいに『カリスマはやっぱ汗の匂いも人間離れしてる』が正解だった? それとも『カリスマの香りしかしないよ』とでも言えばよかった?」
「……いいえ、るなさんがそんなこと言う人じゃないって知ってるから聞いたんです。多分、あたしの汗の匂い嗅いで『臭い』なんて言うの、世界中でるなさんだけだと思います」
「どんな嗅覚してるのよ、世界中の神月真鈴ファンは……。自分の汗の匂い嗅がせる変態もどうかと思うけどね」
「ヒドイなぁ。るなさんってば、ほんっと……」
言いかけて、真鈴はふっと優しく微笑んだ。るなは乱れた髪を適当に手櫛で梳き、隣に腰かける。日本で敗戦が続いた時、よく独りで居残り投球してたっけな……と静まり返ったブルペンを見渡した。
「……チヒロね、ほんとに悪気はないの。ごめんね、困らせて……」
「……るなさんが謝ることじゃないでしょう? 苦手なんです。慣れてないんですよ、ああいう距離感のない人」
「分かるよ。みんな恐れ多くて近付けない天下のカリスマにずうずうしく近付くのなんて、モエカかチヒロくらいだもんね」
「モエカは、まぁ……あたしが有名になる前からの付き合いですし。でもチヒロさんは初対面からで、しかも、なんかこう……」
言葉に詰まった真鈴は、何かを振り払うかのように、小さく首を振った。
「目、でしょ?」
「……分かるんですか?」
「分かるも何も、私の高校時代のモトカノよ?」
「……目の話の前にこの際ハッキリしてもらいますけど、『元・彼女』じゃなくて『キャッチャーミット』のほうですよね?」
「んー、まぁそう。ちなみにお兄ちゃんの『元・彼女』ではあるけど」
「え!」
驚いて背筋を伸ばす真鈴をよそに「まぁ、それは置いといてー」と遠くに視線を向ける。
「チヒロのあの食い入るような目ね、私も最初ちょっと怖かった……。何か言いたげにも見えるし、獲物を見定める猛獣みたいに見える時もあった。ボールを見てるのか、私を見てるのか分かんない時もあった。上手く言えないけど、18メートルも離れてるのに、ものすごく至近距離で見つめられてる気がしたんだよね……」
プレートからホームベースまでは18メートル。キャッチャーはもっと奥に構える。慣れてからは『近くにいてくれる安心感』に変わったが、独特の眼差しに慣れるまで数ヶ月かかったのを覚えている。
だが、他のピッチャーと組んでいる時に感じた記憶があまりない。傍観者だからだろうと思っていたが、今日は久しぶりに『あの目』を見てピンときたのだ……。
「それです! まさにそうなんです。壁に追い詰められた時と同じくらいの距離感に感じるんですよ。あたしも上手く言えませんけど、心の内まで見抜かれそうな目をしてるんです。どうしても集中できない気がして『キャッチャー変えてくれないならあたしがマウンド降ります』ってごねたんですけど……連敗を止める大事な試合でしたからね……」
監督とのやり取りを思い出したのか、はぁっと肩でため息をつく真鈴。るなはその丸めた背を、励ますようにぽんぽんと叩いた。
「私は慣れたけどね。それでも、たまにドキッとすることはあったよ。真鈴も慣れるしかないんじゃないかな。サエさんが戻ってくるまでは、2番手捕手はチヒロだろうからさ」
「えー……。あたしは、あのキャラ自体がちょっと……」
「んー、悪い子じゃないんだけどなぁ……。私からも注意はしておくよ。『あんまり顔近付けちゃダメ』ってね」
「……お願いします」
納得いっていないのが丸見えだが、そう簡単に消える不安ではないから仕方ないのかもしれない。るなにはぐいぐい来るくせに、ぐいぐい来られるのは苦手な真鈴。『人のふり見て我がふり直せ』と言ってやりたい。
萎れた薔薇みたいになっているので、今日のところは勘弁してやるか……と、俯く真鈴の横顔を眺める。
……言って聞かないじゃじゃ馬ではない。歓迎会から帰ってきたチヒロに、どうにか切り出さなければ……。




