95☆ファンなんですけど
翌朝8時。るなは食器とカトラリーが重なる音で目が覚めた。
ぼんやりと瞼を押し上げる。なにやら香ばしい香りが漂っていた。のそのそ起き上がり、キッチンを覗くと、洗い物をしているチヒロの後ろ姿があった。
「起きたー? 顔洗っといでー」
フライパンを片手にしたチヒロが、にっこりと振り返った。
まだ脳がフル回転していないるながテーブル上に視線を動かすと、ポタージュスープとベーコンエッグ、それに山盛りの鶏ささみサラダが2人分用意されていた。
「すごい……お嫁さんもらったみたい!」
「お母さんやってたんだから、これくらいは当然よ。ほら、冷めちゃうから早く洗っといで? トーストのバターは先塗り派? 後塗り派?」
「先塗り派!」
「オッケー!」
トースターがジジジッと鳴り始めた。るなは急いで洗面台へ行き、ウキウキで顔を洗う。チンッと焼き上がりを知らせる音が鳴る頃には、香ばしいバター乗せトーストの香りが部屋中に広がった。
ダイニングチェアに座ると、じゅわっとバターの溶けたトーストが目の前に置かれる。得意気な顔のチヒロが、フォークを手渡してきた。
「このサラダもおいしそう!」
「どうせるなのことだからお肉ばっかり食べてるんでしょうけど、ちゃんとしたタンパク質摂らないとね。今日はコンビニのドレッシングだけど、スーパーで野菜とビネガー買えたらドレッシングもちゃんと作るから」
「えー! ドレッシングなんか、おいしければ何でもいいよ?」
「だーめ。しばらくお世話になるんだし、その間だけでもちゃんとしたもの食べさせたいのっ」
テキパキと洗い物を済ませ、チヒロが向かいに座る。2人揃っていただきますをし、るなは至福の朝食を堪能した。
正直、独り暮らしを始めたはいいが、最も苦手な『調理』を、いつ、どうやって練習しようか考えてはいた。
だが、考えても時間は待ってくれないし、調理も上手くはならない。試合や移動の忙しさの中、真鈴やみんなは調理の時間をどう捻出しているのか謎なくらいだった。
胃袋を掴まれた真鈴が隣にいない今、チヒロの存在が神のように思える。
「今まで夕飯はどうしてたの? るな、確か魚介類苦手だったよね。球場のサロンはお魚料理ばっかだったけど、まさか食べずに帰ってたわけじゃないでしょ?」
「え、えへへ……」
まさか『真鈴の手料理をごちそうになってました』とは口が裂けても言えず、るなは適当に「コンビニとか……」とごまかした。目を剥いて「嘘でしょー!」と驚くチヒロに、心の中でごめんなさいをする。
だって、言えるわけがない。実物の神月真鈴に会って、あの真鈴がドン引きするほど大興奮を見せたチヒロに……。
*
いよいよ、公式戦後半が始まる。屈辱の10連敗にピリオドを打ち、ホームで初戦を勝ち取りたい……。そんな空気がロッカールームを包んでいた。
チヒロと共に球場入りし、早出で自主練を終えた。チヒロとはロッカーの列が離れてしまったが、さすがのコミュニケーション能力で、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
自分がいなくても楽しそう……。そう思った瞬間、るなはちょっぴりヤキモチをやいている自分がいることに気付いた。
チヒロは昔から、誰とでも仲良くなれる子だった。だが、ピッチャーだったるなとは、一番長い時間を過ごした。配球や、今日の変化球のキレはどれが一番よかったか、など、試合の打ち合わせも反省も、チヒロはたくさん話してくれた。
……今は違う。自分はピッチャーではない。それに、会話に混ざろうにも、自分は英語もスペイン語もさっぱりだ。いちいち「何て言ったの?」とチヒロに通訳を求めれば会話をもたつかせてしまう。
明るくなってきたチームの雰囲気に、自分の中だけ霧が立ちこめていくようだ……。
『るなもこっちの生活長くなるかもなんだから、少しは英語喋れるようになりなさい。サエはいつ戻ってくるか分からないし、私だっていつ引退するか分からない。神月真鈴や元相棒にべったりじゃ、いなくなった瞬間は孤独になるし、1人でも多くのチームメイトとコミュニケーション取れるほうがいいでしょ?』
ナルミの言葉を思い出した。忠告はごもっともだった。そして、早くもその『孤独』になりかけている自分がいる……。
「るーなっ!」
「うわっ!」
しょんぼりしていたるなの背に、チヒロが抱きついてきた。勢い余ってロッカー扉に額をぶつけそうになる。
「びっくりしたぁ……。驚かさないでよぉ。たった今、あっちで喋ってなかった?」
「うん! でもほら、ちょっと神月真鈴様と話したくて。どこにいるのか他の人に聞いたら『るなに聞いたら分かるよ』って言われたの」
「あー……。真鈴ならウォームアップルームじゃない? でも、先発の前は話しかけないほうがいいよ。試合前は集中したいみたいだし、ルーティーンとかもあるし……」
「えー! だって、打ち合わせしたいもーん。スタメンじゃないけどさ、交代があった時に困るでしょー?」
「んー……まぁでも、真鈴はリードに首振ることが多いから、配球に関してはキャッチャーも監督も結構真鈴に任せてるみたい」
「うわーぉ! さすがねー。あぁ、うずうずするー。私にあの剛速球が捕れるかなぁ? そうだ、ちょっと私の練習に付き合ってもらおーっと!」
「えっ! ちょちょっ! だから今はダメって……」
制止も聞かず、チヒロはスキップでもしそうな軽快な足取りで廊下へと消えて行った。嫌な予感がしたるなは、慌てて後を追う。
案の定、真鈴はウォームアップルームにいた。部屋の隅で、静かにストレッチポールに背を預けている。
耳にはイヤホンを装着し、目を閉じてゾーンに入ろうとしている。明らかな『話しかけるなオーラ』を全身から醸し出していた。
しかし、チヒロにそんなオーラが通じるはずもなく、「まーりんさまっ!」と駆け寄っていく。
「……あれ?」
完全に集中している真鈴は、目の前のチヒロに気付かないようだ。反応のない真鈴に首を傾げ、あろうことか、集中するために付けていたイヤホンをひょいと片方引っ張って外してしまった。
「……な……っ!」
真鈴のクールな顔が、一瞬で凍りついた。見開かれた瞳が、信じられないものを見るかのようにチヒロを捉える。
「チヒロ! やめなって!」
るなが間に割って入ろうとしたが、チヒロはるなの肩をすっと手で制した。天真爛漫で愛くるしい笑みを真鈴に向ける。
「配球は真鈴様にお任せするように聞きました! でも、ちゃんと捕れるかちょっと不安なんで、ストレートだけでも投げてみてもらえませーん?」
「……は?」
真鈴の声が、低く地底から響くように漏れた。眉を顰め、明らかに『怒り』を表している。
「5球、ううん、3球でもいい! セシアナ最速のストレートを捕らせてください!」
チヒロがずずいっと顔を近づけた。鼻先数センチ。真鈴がたじろいで背中をストレッチポールから落としそうになると、チヒロはその腕をグッと掴んで抱き寄せた。
「ちょっ……! な、何するんですか……っ!」
「やぁん、めっちゃいい匂いすんですけどー! もうアップ終わってるんじゃないんですか? 汗かいたのに、なんでこんないい香りするんですか? うーん、カリスマはやっぱ汗の匂いも人間離れしてるのかなぁ」
チヒロは自分よりも背の高い真鈴を壁ドン状態にし、恥ずかしげもなく首筋をくんくん嗅ぎ出した。息を飲んだ真鈴は完全に硬直している。
マウンド上でどんなピンチを迎えても眉一つ動かさないあの神月真鈴が、パーソナルスペースを粉砕するチヒロの行動に真っ青になっている。身動き一つしないので調子に乗ったチヒロは、今度は髪に鼻を近付けた。
「や、やめ……」
かろうじて首を捻った真鈴の視線が、るなを捕らえた。
『るなさん……助けてください……!』
文字通りの悲鳴が、真鈴の瞳から発せられていた。
「はいはいそこまで! チヒロ! 真鈴の邪魔したら、ほんとに怒るよ!」
るなはチヒロの首根っこを掴むようにして強引に引き剥がした。チヒロは「ちぇーっ」と口を尖らせながらも、満足そうにニヤニヤしている。一方の真鈴は、すっかり怯えた表情で、荒い息を吐くとイヤホンも拾わず逃げるように去っていった。
「もう……チヒロ、あんたねぇ、真鈴のパフォーマンスが落ちたらどうすんのよ!」
「ごめぇーん。だってぇ……」
チヒロはるなの手から逃れると、くるりと振り返ってるなの目を見つめた。その瞳には、さっきまでの無邪気さとは違う、情熱的なほどの興奮が灯っていた。
「ファンだったんだもん」
その一言を聞いた瞬間、るなの記憶と重なった。
兄の時もそうだった。
それだけではない。るなの筆箱、リュック、キーホルダー、バットからスポーツドリンクまで……。
チヒロは昔から、るなのお気に入りを何でも欲しがった。そして、手に入れてきた。昨夜のぶたさんパジャマもそうだ。チヒロは一度『欲しい』と思ったものは何でもお揃いにしたがる……。
『るなと同じ物が欲しいの。そしたら、私もるなみたいに強くなれる気がするから』
背筋に冷たいものが走った。真鈴は『物』ではない。
だが、兄の時と同じ『ファンなんだもん』という一言が、チヒロの癖と紐付けさせてしまう……。
「もちろん、今でもるなのファンでもあるよ? ヤキモチ妬かないでね?」
チヒロはそう言うと、るなの頬にチュッと軽い音を立ててキスをした。
「ちょっと……! ヤキモチとかじゃなくて……」
「妬いてないの? それはそれで残念だなぁ。あははっ」
いたずらに笑い、チヒロは嵐のように去っていった。 残されたるなは、火照る頬を押さえながら深い溜息をついた。
チヒロの『るなの持っているものがほしい』という癖。それが真鈴の精神や関係を乱さないとも限らない。
だが、その根本にあるのが自分への執着だと知っているからこそ、るなはチヒロを強く突き放すことができないでいた……。




