94☆愛おしいんですけど
トランクを引き取りに来たチヒロと共に、るなは自宅マンションへ戻った。
全体練習の後から合流したチヒロは、個別練習で早速の強肩と守備を披露した。チームメイトたちは新戦力がどれほどのものなのかと注目していたので、そのファインプレーに拍手を送っていた。
妊娠・出産のブランクをまるで感じさせない。むしろ、高校時代よりもレベルアップしたチヒロに、るなは元相棒として鼻高々だった。
天真爛漫。人見知りもせずコミュニケーション能力の固まりのようなチヒロは、早くもチームに溶け込んだ。英語もスペイン語もペラペラではないが、身振り手振りを使って一生懸命伝えようとする姿勢と明るい笑顔が言葉の壁を取っ払ったのだろう。
「1ヶ月以内に部屋見つけろってぇ。外国人寮いっぱいとか、どういうことよ? ドルフィンズって人気あるからもっと待遇いいと思ったのになぁ」
球場でシャワーと食事を済ませてきた2人は、だらりとソファへ沈み込んだ。初めて来た部屋といえど、チヒロにとってるなの部屋は『勝手知ったる部屋』らしい。
「私もそうだったよ? ここに引っ越すまでは、ギリギリまでホテル暮らししてた。でも、トレーニング設備とかは最先端の取り入れてるからね。それを考えたらドルフィンズはめちゃめちゃ恵まれてると思うけどなぁ」
「確かにー! 今日案内されたけどさ、日本じゃあんな設備ないよねー!」
言って、ふわぁっとあくびをするチヒロ。そういえば、今朝早く訪ねてきたのだった。それを思い出したら、るなもつられて大あくびが出た。
「そうそう、春平さんてケガで離脱してるんだね。知らないうちに結婚もしてて……びっくりしちゃった」
ソファの肘かけにこてんと頭を乗せ、チヒロは膝を折って小さく丸まった。
何気なく発した話題だったのだろうが、兄の名が出た瞬間、るなの胸がチクリと痛んだ。
『夕海春平さん、ファンなのー! 一度でいいから会わせてくれない?』
……あれは高校1年の秋。るなの兄がプロ野球選手だとチヒロが知った時だった。
パンッと両手を合わせて懇願された。当時、兄はまだ1軍と2軍を行ったり来たりしている若手で、目立った活躍はできていなかったし、チヒロがプロ野球選手のファンだなんて初耳だったので、かなり驚いた。
半信半疑ではあったが、プロになった兄を誇らしく思うるなは悪い気がしなかった。兄に話したら即OKで、シーズンオフに実家に帰って来ることになった。
チヒロは飛び跳ねて喜んだ。どんな服を着たらいいか、どんなことを話したらいいか、ハイテンションでその日が来るのを楽しみにしていた。
当日は3人でご飯を食べた。離れて暮らす兄に、プロの世界の話をたくさん聞きたかったけれど、チヒロが次々と話しかけていくのでそんな隙はなかった。明るくて人見知りのしないチヒロに、兄はデレデレだった。
付き合いだしたと聞かされたのは、それから1ヶ月後。
『チヒロは未成年なんだから、絶対にバレないようにしてよ?』
『じゃあ、お前が一緒ならデートだってバレないよな!』
呑気な兄の提案で、るなはしぶしぶデートに同行した。野球しかやってこなかった兄の、初めての彼女。チヒロはどんどん奇麗になっていった。幸せそうだった。兄もチヒロも……。
シーズンオフはそれでもよかった。2月に入り、兄が九州へキャンプインすると、そこからシーズン中盤まで全く会えない日々が続いた。
兄にとって、1軍に定着してきた大事な時期だった。自分たちも2年生になり、学校と部活と試合でへとへとだった。
チヒロにとっての初恋は、自然消滅していった。それ以来、兄からもチヒロからも、元恋人の名が話題に出ることはなかった……。
「記者だって? 女子アナとかアイドルなんかはよく聞くけど、よりによって記者と結婚するなんて、春平さんも相変わらずよねぇ」
「……相変わらず?」
るなが尋ねると、チヒロは不機嫌そうに唇を尖らせ「チョロいなってこと」と言った。
「そんなことよりるなぁ、このパジャマどこで買ったのー? めっちゃかわいいんだけどー!」
寝転がっていたチヒロが飛び起きた。乾燥機から出しベッドに山積みにしたままの洗濯物の中から、ぶたさんパジャマを引っ張り出している。ひらりと広げ、チヒロは自分の胸に当てた。兄の話題から逸れたことにホッとしたるなは、「内緒ー」と取り上げた。
「なんでよー? かわいいから私も欲しいのにーぃ」
「買ったの、もう何年も前だもん。売ってないって」
「探してみないと分かんないでしょー? 渡しなさーいっ。タグ見て探してやるー」
「わー! ちょっとーぉ!」
ぶたさんパジャマをめぐり、2人の追いかけっこが始まった。ソファの周りをぐるぐる回ったり、ローテーブルを飛び越えたり。時には家具に足をぶつけながらも、まるで小学生の鬼ごっこのようにキャッキャと笑いながら駆けずり回る。
「……はぁはぁ……ちょっとチヒロぉ、しつこいよぉ……。明日から試合始まるんだよ?」
「そ……そっちこそ……おとなしくそれを……げほっ」
同時にへなへなへたり込み、同時にあははっと笑い出す。こんなに子供っぽくて馬鹿げたことが、どうしてこんなにもおかしいのだろう。まるで高校時代に戻ったかのようで、るなはチヒロとの時間が嬉しくて楽しくて、愛おしかった。
「ねぇ、るな」
「うん? なにぃ?」
「……部屋決まるまで、ここに住んでもいい?」




