93☆移籍してきたんですけど
3週間ぶりのホームグラウンド、オーシャンドーム。
潮風と人工芝特有の香りが入り混じる独特の空気感は、遠征続きで疲弊していた体と心を静かに落ち着かせてくれる。
チヒロを見送った後、るなは早出練習に励んでいた。ぽつりぽつりとチームメイトも姿を現し、グラウンドは少しずつ賑やかになっていく。そろそろ全体練習の時間だ。
「全員、ミーティングルーム集合ー!」
ヘッドコーチのよく通る声が響いた。汗を拭いながらグラウンドをあとにしたるなは、指定されたミーティングルームへと向かった。
トレーニングウェアの者もいれば、まだ来たばかりでそうでない者もいる。ミーティングルームには、明日先発予定の真鈴を除くチームメイト全員が集まっていた。
そして、部屋の奥にたたずむ見慣れない人物の姿に、誰もがどこかソワソワとした視線を注いでいた。
「新加入選手を紹介する」
ヘッドコーチの声が室内に響くと、それまでのざわめきが一瞬で静まり返った。その横に並んでいたチヒロが一歩前へ踏み出す。
「ナイトシャークスから移籍しました、宇田川チヒロです! よろしくお願いします!」
快活な声が、広いミーティングルームの壁に反響した。
るなは胸の奥で、懐かしさと高揚感が交差するのを感じていた。高校時代、泥だらけになりながら共に白球を追いかけたかつての相棒が、今また自分と同じユニフォームを着ようとしている。
チヒロは持ち前の物怖じしない度胸で、英語での自己紹介を朗らかに始めた。それだけに留まらず、一生懸命なスペイン語でも言葉を繋いでいく。慣れない発音に悪戦苦闘しながらも、身振り手振りを交えて笑顔を振りまく姿に、緊張気味だったチームメイトたちの表情が和らいでいくのが分かった。
大きな拍手が沸き起こる。挨拶を終えたチヒロは、一人ひとりとしっかりと目を合わせながら固い握手を交わしていく。そして一番端にいたるなの元へと、意気揚々とやってきた。
「改めて、よろしくね! るなぁ!」
「わっ……!」
チヒロは満面の笑みを浮かべると、手加減を知らない力でるなをむぎゅーっと抱きしめた。
「苦しい、苦しいってー! チヒロ、力が強いってば!」
逃れようともがくるなだったが、久々に伝わってくる相棒の熱い体温と力強い抱擁に、口元が緩んでしまうのを止められなかった。
周囲のチームメイトたちもそんな2人のコミカルな再会劇に、温かな笑い声を上げながら微笑ましく見守っている。新加入選手の破天荒な明るさは、一瞬にしてチーム全体の空気を陽気なものへと塗り替えた。
「やーん、るなってば私の先輩になるわけよねー? お手柔らかに頼むねー、るなせんぱーい!」
「苦しいー! マジでギブーっ。放して、放して後輩ー!」
「えへへっ。しょうがないなぁ」
やっと開放され、ぜぇぜぇと息切れするるな。「加減してよねー!」と抗議する。笑ってごまかすだけのチヒロの肩越しに強い視線を感じた。
ブルペンで一汗流してきたばかりの真鈴が、遅れて入室してきた。真鈴の首には汗を吸ったタオルがかけられており、額には微かな汗の粒が浮かんでいる。
クールな瞳がぱちぱちと瞬きをした。首を傾げてこちらを観察している。真鈴の顔には、はっきりと『……誰?』と書いてある。
じゃれ合う2人を温かく見守っていたチームメイトたちの視線が、遅れてきたカリスマに移っていく。つられたチヒロもそちらに向いた。
「うわぁ! 本物の神月真鈴ー!」
チヒロの口から奇声に近い甲高い歓声が上がった。今まで散々構っていたるなをあっけなく放り出し、ものすごい素早さで真鈴の元へと駆け寄っていく。
真鈴は突然のことに目を見開いたが、避ける暇すらなかった。チヒロは、真鈴が首にかけていたタオルの端を握っていたその両手を、上からガシッと力任せに掴み取った。
「Nice to meet you! I'm Chihiro Udagawa! Oh my god, I’m a big fan of yours!」
興奮のあまり、チヒロは両手をぶんぶん。折らんばかりの勢いで、真鈴の手を上下に振り回し始めた。
真鈴が日本語を流暢に喋れることなど知らないらしく、チヒロは知っている限りの英語を機関銃のように浴びせかけていく。その瞳はまるで夜空の花火のようにキラキラと輝いており、勢いのままに顔をどんどん真鈴の至近距離へと近づけていく。
普段はどんなピンチでもポーカーフェイスを崩さない絶対的エースの真鈴だったが、この想定外すぎる猛攻にはさすがにたじろいでいる。チヒロの圧倒的な熱量に押され、引きつった表情のままジリジリと身体を反らせていく。
「ち、チヒロっ!」
るなはその光景を見て思い出した。チヒロは昔から、何かに興奮したり感動したりすると、相手のパーソナルスペースなどお構いなしにぐいぐいと前のめりになる悪癖があったことを。慌てて2人の間に割って入った。
「チヒロっ、ストップストップ! 落ち着いて!」
「えー?」
るなの制止に、チヒロがはたと動きを止めた。その拍子に手が解放され、真鈴はハァ……と小さく息を吐きながら一歩後退する。
「……るなさん、お知り合いなんですか?」
真鈴がいつもより少し低めの声で問いかけてきた。
その言葉を聞いた瞬間、チヒロの動きが完全にフリーズした。目を見開き、口をぽかんと開けて真鈴を見つめた後、弾かれたようにるなへ振り返る。
「えっ、日本語喋れるんだ!」
「……うん。真鈴は私とはいつも普通に日本語だし、なんなら敬語も完璧だよ……」
「えー! えー! えーっ!」
チヒロの叫び声が再び部屋中に響き渡った。
「るなってば、あの神月真鈴と『いつも』話してんのー? えーっ、めっちゃ羨ましーい! 私なんてテレビの向こうの、超雲の上の神の存在だったのにー! しかも、敬語? 敬語使ってなかった? るなに、敬語使ったよねー!」
「そ、そりゃ真鈴は年下だから、私には敬語……」
「えー!」
チヒロはくるりと真鈴に向き直ると、今度は先ほど以上の勢いでずいっと身体を寄せていった。真鈴の鼻先数十センチの距離まで顔を近づける。
「あのっ! 私、るなの高校時代の相棒なんです! バッテリー組んでたんです! だから、私とも仲良くしてくださいっ!」
「も、もちろんです……」
百戦錬磨のエースが、完全に圧倒されている。真鈴は引きつった笑みを浮かべながら、後ずさりするように一歩退いた。
そして、背後に立っているるなに向けて、切実極まりない『助けてください』という SOS の視線を送ってきた。マウンド上のクールで鋭い眼光はどこへやら、助けを求める仔犬のような目だ。
どうやら真鈴は、チヒロのようにぐいぐい来られるのが苦手らしい。無理もない。『眩しすぎて近寄りがたい』という人間が大半だから、ここまで積極的な人間に出会ったことがないのだろう。
滅多に見られない姿をもう少し堪能したかったが、捨てられた大型犬のような真鈴を見捨てるのもちょっとかわいそうになり、るなは苦笑しながら、暴走する元相棒を引き剥がしにかかった。
「チヒロ? 初対面であんまりぐいぐいいくと、みんなびっくりしちゃうよ?」
「あー……えへへ。確かにぃ」
るなにぐいっと引っ張られ、ようやくチヒロは自分の暴走に気づいたように頭を掻いた。照れくさそうに「ごめんなさーい」と笑うその顔は、高校時代に監督から大目玉を食らった時と何一つ変わっていない。真鈴はまだ『なんですか、この人……』と言いたげな表情をしている。
そして、るなは思い出した。セシアナの現地語で『キャッチャーミット』は『モトカノ』ということを。
「チヒロだよ。バッテリー組んでたの。高校時代の、私の『モトカノ』」
るながニヤつきながら冗談交じりに言うと、固まっていた真鈴が「えっ!」と目を見開いた。
「る、るなさんの……元カノ! か、彼女がいたなんて聞いてませんよ!」
わなわなと頭を抱える真鈴。遊びまくってた自分のことはどこへやらだ。一方チヒロは呑気に「わぁ、ほんとに日本語ぺらぺらねー」とお目々を輝かせている。本当にショックを受けているようなので、あとでちゃんと訂正してあげることにする。
呆然と立ち尽くす真鈴を、まるで水族館へ来た子供のように見つめるチヒロ。
3週間ぶりのオーシャンドーム。新たな風を巻き起こすかつての相棒の登場に、るなは密かに胸を躍らせるのだった。




