92☆お母さんなんですけど
小さな奇跡に出会えた、昨日のシーサイドコテージ。
昨日は練習もトレーニングも一切せず、リフレッシュに1日を費やしてしまったるな。明日からの公式戦後半に向け、今日は気合いを入れて練習に打ち込むつもりだった。
「……はぁ……? 誰よ、こんな早くから……」
ピンポーン! と鳴り響く自宅マンション。ベッドで夢心地だったるなは、7時にセットしたはずの目覚ましよりも早く起こされてしまった。
ベッドから這い出そうともぞもぞしていると、呼び鈴はピンポーンピンポーンと連続で鳴る。るなはイラッとしながら「はいはーい!」とぶっきらぼうに答えた。
オートロックのマンション前。屋外モニターを覗く。どうせ真鈴だろう……と顔を蹙めていると、そこに立っていたのは、懐かしい顔だった。
「ち、チヒロっ?」
『ハロー! るな。開けてー』
小麦色に焼けた肌から、白い歯がこぼれる。愛嬌のある大きな黒目が、モニター越しに手を振ってきた。
まさしくチヒロだ。大好きだった息の合う相棒を見間違えるわけがない。るなの脳が一瞬で目覚めた。
「ま、待って! 今開けるからちょっと待ってて!」
オッケー! と言ったのだろうか、チヒロの口が『オ』の形になったところで、早口でモニターを切った。
愛用のぶたさんパジャマを脱ぎ、洗顔も歯磨きも慌ただしく済ます。途中、時計をチラッと確認するとまだ6時を回ったところだった。
早いよー! と心の中でツッコミながらも、頭はフル回転。それにしても早すぎる。
そして、聞きたいことがありすぎる……!
「お待たせ! どうぞ」
数分後、再びモニターに呼びかけた。入り口から少し離れたところにいたチヒロは『お待たされー』と、けらけら笑った。
エレベーターが到着するのも待ちきれず、るなは玄関扉を開けたまま廊下でそわそわしていた。4年ぶりの再会に、胸が高鳴る。
「るなーぁ! おひさー!」
「チヒロー! 久しぶりーぃ!」
チヒロはエレベーターが開くや否や、ごろごろ引いていたトランクを放り出し、るなに駆け寄った。るなも両手を広げてダイビングハグをする。2人して「ひゃーぁ!」という言葉にならないかん高い奇声を発する。
「るなぁ、全然変わらないねぇ。身長も伸びてないし、顔も高校ん時のまんま!」
「そんなわけないでしょー! チヒロはちょっとお姉さんになったね。でもこのチヒロの匂い、変わんなくて懐かしいー!」
「あははっ。お姉さんどころか、お母さんだからね、私」
すらっと背の高いチヒロの胸に埋めていた顔を上げ、るなは「そっか!」と笑う。
トランクを回収したチヒロを部屋に通すと、るなはお客さん用のお茶やカップすらもないことに気付いた。ホテル暮らしが長かったのと遠征帰り直後で、冷蔵庫もほぼ空っぽ。
「いいよいいよ。私が買ってくる。ここに来る時にコンビニみたいの見かけたから。それに、るなはどうせまだ英語苦手でしょ?」
「……お察しの通り。ごめん、じゃあお願いしてもいい?」
「もちろん! こっちの商品がどんなものかも見たいし。どうせるなもいるだろうから、色々買ってくるよ。すぐ戻るね」
言って財布とスマホだけ握り、チヒロは元気よく飛び出して行った。たった今着いたばかりだろうに、相変わらずタフで行動的だ。
いつだって頼もしい相棒だった。1年からレギュラーのるなとは違い、チヒロは3年でやっと正捕手になった。だが、入部してからずっと投球練習に付き合ってくれたのは、他でもないチヒロだった。
苦しい時も辛い時も、切磋琢磨してお互い励まし合った相棒。たまには意見が割れてケンカをしたこともあったけれど、明るくさばさばした性格のチヒロは引きずったりせず、いつも納得するまで話し合えた。それだけ、腹を割って話せる相手だった。
母になっても自分の前では、まだあの頃と同じチヒロのままでいてくれる。るなはそれが嬉しくて、胸が熱くなるのを感じていた。
どうせなので荷ほどき途中になっていた段ボールもせっせと片付け、チヒロの帰りをうきうきで待つ。30分ほどして、呼び鈴が鳴った。
「おかえりー。迷わなかった?」
「あははっ。るなじゃあるまいし。いっぱい買ってきたよー。るなも朝食まだでしょ?」
両手の大きなビニール袋をテーブルにドサッと乗せるチヒロ。覗くと、大量のペットボトルと食料が入っていた。るなは子供のように「わーい、ありがと!」とはしゃぎ、冷蔵庫にしまい込んでいく。
それから2人は4年間のブランクを埋めるように、朝食を取りながらお互いの近況を話し続けた。興奮でつい早口になる。
るなは日本のプロでは思うように成績が上がらず、引き抜かれたドルフィンズで野手にコンバートしたこと。交流戦でイズミと戦ったこと。チヒロは「そんなやついたねー!」と、自分は来年の交流戦まで対決できないことを残念がった。
チヒロは大学時代、コーチの子を妊娠して退学したこと。だが、社会人野球を初めてすぐに離婚し、親権も子供も取られてしまったこと。ヤケクソで受けたセシアナリーグのプロ試験にギリギリ合格し、春からセシアナに来ていたこと。
「マジかぁ……。でも『桜井』に戻してないんだね」
「うん! ころころ選手名鑑の名字が変わるのもなぁ、と思って。それに、理解のない元旦那のことは大嫌いだけど、名字まで戻しちゃったら娘とほんとに縁が切れちゃう気がしてさ」
けろっと笑顔で語るチヒロだが、当時の苦しみは想像を絶するものだっただろう。自分のことに精一杯で相談にも乗ってあげられなかった自分が歯がゆい。
「実はさ、るながセシアナに来たの、その日のうちに会見で知ってたんだよ。めっちゃ嬉しくってさぁ。次の日にはもう移籍願い出したくらい!」
「い、移籍願いーぃ?」
「そう! 拾ってもらってまだ数ヶ月で。生意気だよねぇ。でも、それはあくまで『移籍希望』ってだけだし、それが受理されるかどうかはチーム同士での話し合いだから。いやぁ、まさかこんなに早く叶うなんて! あれなんでしょ? 正捕手の佐伯さんがコンディション不良で」
「あー……うん。そうそう」
移籍したてのチヒロにも、そのうちサエの降格理由が伝わってしまうのだろうか……。るなはかろうじて笑顔を保ってはいたが、この底抜けに明るいチヒロにドルフィンズの影を知られたくないな……と思った。
「ねぇ、るなはさ……」
「うん?」
「もう、ほんとにピッチャーやんないの?」
るなの心臓がドクンと跳ねた。チヒロは笑顔を消し、真剣な眼差しで覗き込んでくる。
「私がマスク被れば、またるならしいピッチングできるよ。るなの才能は、私が一番よく知ってる。野手にしとくのはもったいなさすぎるよ」
……言葉が出て来なかった。チヒロはるなの開口を、身を乗り出し待っている。
るなは俯いた。チヒロの期待する答えは出せない。
日本のプロ野球界で通用しなかった自分が、日本よりレベルの高いセシアナで通用するわけがないのだ……。
「チヒロ、私は……」
「えっ、やばっ!」
チヒロが突然、スマホ片手に立ち上がった。ばたばたと荷物をまとめ出す。
「私、9時に本社で契約なんだった! ごめん、夜に取りに来るからトランク置いてってもいい?」
内心、ホッとしたるな。「あ……うん。もちろん」と頷く。
「ありがと! またあとでー!」
大きなリュックだけ担ぎ、チヒロは慌ただしく靴を履く。玄関扉を閉じる際、もう一度「あとでねー!」と高速で手を振り走り去った。
嵐のように去った元相棒。だが、また同じユニフォームに袖を通しても、今度はバッテリーとしてではなく、ただのチームメイトだ……。
深いため息をつき、チヒロの置いていったトランクに視線を向ける。高校3年の春、修学旅行で買った、お揃いのフクロウのキーホルダーがぶら下がっていた。一度ヒモが切れてしまったのか、不自然な結び目がある。
『るなと同じ物が欲しいの。そしたら、私もるなみたいに強くなれる気がするから』
お土産売り場で手にした時のチヒロの笑顔は、キラキラと眩しかったのを覚えている……。
「私は強くなんかないよ、チヒロ……」
連敗続き、正捕手を欠かした暗いムードのチームに、新たな風が吹く。
うーんと伸びをし、るなは支度に取りかかった。野手として加入した以上、自分はその名を全うするだけだ。
もう、迷いはない……。




