91☆一緒に見たいんですけど
「いた……っ! いたいたーっ!」
「え? どこが痛いんですか? 食べすぎちゃったかなぁ。お手洗い、行って来ます?」
「違う、違ーう!」
るなはわたわたと海面を指さすが、その先には雨粒が作る寂しげな波紋が広がっているだけで、海の住人たちの気配はすでに消え去っている。
「も、もしかして……」
「そう! いたのっ! いたのっ! 2匹、ざばーって!」
「えー……!」
真鈴はデッキの端まで駆け、手すりから大きく身を乗り出す。微動だにしないその背は、後ろから見ても呆然としているのが分かる。
雨に抗うことなく力なく立ち尽くす真鈴。ついさっきまでのオーラはどこへやら、捨て犬のように肩を落とした。
そんな真鈴の背を見つめていたるなも、ひさしから出て隣へ歩み寄る。魚料理は苦手だが、今度はるなが振りかぶる。
「あ……あれ?」
ぽちゃっ……と控えめな水音を立てた、るなの放った地魚。大きく左に曲線を描きながらくるくる回って水面に落ちていった。
「……るなさん、もっと遠くに飛ばさないと……」
「お、おかしいなぁ……。振りかぶったら、つい変化球になっちゃった。えへ、えへへ……」
間髪入れずに2匹目を投じる。……が、今度は真っ直ぐ飛んだ後、カクッと斜めに落ちて行く軌道。推定飛距離、30メートル。
「ルナイダー……ですか?」
「あ、あれ? 指引っかけたつもりないんだけど……今度こそ、今度こそ!」
「お魚、あと1匹しか……」
「分かってるって。任せて!」
ずぶ濡れになった2人は、最後の魚に願いを託す。深呼吸し、るなはセットポジションに入った。
「行っけーぇ!」
サイドスローから高々と舞い上がるラストフィッシュ。るなの叫びも虚しく、大きな虹のような放物線を描き、2匹目とほぼ同じ白波の合間にぽちゃりと落水……。
「……あ……」
真鈴はラストフィッシュが消えたポイントから、ゆっくりと視線をるなへ向けた。おずおず見上げると目が合い、しばし見つめ合う。真鈴が何か言おうと口を開きかけたので、るなはすかさず両手をバタつかせた。
「だだだ、だってお魚だよっ? ボールじゃないんだよ? 真鈴みたいな人間離れしたピッチャーならともかく、普通は飛ばない、普通は飛ばないの! 真鈴がおかしいのー!」
「……ですよね」
真鈴はしょんぼり項垂れた。『一緒に見られると』という言い伝えなのに、目撃したのはるなだけだ。がっかりしないわけがない……。
「ごめん……。お魚、もうちょっともらえないか聞いてくるよ」
個室へ戻ろうと踏み出した瞬間、がっしりと腕を掴まれた。
「真鈴?」
振り返り、雨に濡れて俯いたままの真鈴の顔を覗き込む。水滴が滴る前髪の隙間から見えた口元は、少し緩んでいるように見える。
「いいんです」
「え? でも……」
「また来ましょう。今度はシーズンオフにゆっくりと」
言い切り、真鈴は顔を上げた。『我慢』という言葉が似合わないくせに、作り笑顔は『あたしは我慢しています』と物語っている。いくら勝利の女神でも、さすがに自然の力には抗えないらしい。びしょびしょの前髪をかき上げると、「よしっ」と大股でずんずん踵を返していく。
「また今度のお楽しみですね。さーさ、風邪ひいたら困るし、シャワーを浴びましょう。コテージなんだから乾燥機くらい……」
「ま、待って! 真鈴」
「るなさん入らないなら、あたしがお先に入らせてもらいますよ? あーぁ、すっかり冷えちゃったなぁ」
「待ってってば!」
呼び止める声も虚しく、『我慢』を決めた真鈴はひさしの中まで戻って行った。るなは海面を見つめたまま、目が離せなかった。
なぜなら……。
「イル……」
鉛色の波間から、1匹のイルカがひょっこり顔を出していたのだ。あちらもつぶらな瞳で、じっとるなを見つめている。口角が上がっているので、まるでるなに笑いかけているようだった。
「るなさーぁん? もう諦めて入らないと、ほんとに風邪ひきますよー?」
室内から、何も知らない真鈴の声が響く。もう一度デッキに呼び寄せようと口を開きかけたところで、イルカはちゃぷんと潜ってしまった。
最後に『バイバイ』とでも言うかのように、一瞬だけ尾ヒレを水面に見せて……。
「もうっ、るなさんてばぁ」
「あ……うん。そうだね」
るなは黙っておくことにした。言えば真鈴は余計にがっかりするだろう。
ひさしの下で、もう一度海へ振り返る。海面には何も見えなかった。日没の近付いた海原が広がっているだけだ。もしかしたら、都合のいい幻だったのかもしれない。
もしそうだとしてもそうでなかったとしても……。
「はい、バスタオル。やっぱり、るなさんが先に入ってください。るなさんが風邪ひいたら大変ですからね」
ふかふかのタオルを手渡してくれる、この温かい存在と……。
「ありがと。ねぇ、真鈴」
「はい? なんですか?」
今度こそ、一緒に見たいから……。




