90☆雨なんですけど
2人がシーサイドコテージへ到着しても、セシアナの空を覆う暗雲から太陽が覗くことはなかった。
「……なかなか止みませんねぇ」
コテージの広いバルコニーにしつらえられたウッドチェアに腰を下ろし、真鈴は手にしたセシアンコーヒーを揺らしながら、恨めしそうに海を仰ぎ見た。
晴れていればセシアナ特有のコバルトブルーがどこまでも広がっているはずの海は、いまや鉛色に染まり、降り続く雨粒を受け止めて微かな波紋を無数に散らす。
ひさしの深いバルコニーのおかげで濡れずに済んではいるものの、潮風がその雨粒の冷たさとひんやりした空気を感じさせる。
「だからさっきも言ったじゃん。ずっと雨マークばっかだもん」
すでにごちそうさまを済ませた真鈴の向かいのチェアで、るなはその三倍もの量のランチを手を止めることなくパクついている。コテージのオーナーが『神月真鈴さんとドルフィンズの勝利のために』と腕を振るって用意してくれた創作料理の数々は、見た目も鮮やかで、芳醇なスパイスの香りが食欲を刺激する。
本来なら青い海と太陽の下で、爽やかなトロピカルジュースと共に頬張りたくなるようなごちそうなのだが……。
「でもまぁ、予報は予報だし。晴れだって言っといて雨もあるんだから、雨と言っといて晴れもあるかもよ? 待ってればそのうち止むかも」
「ですねー。この機会を逃したらシーズン終わるまで来れないかもしれないから、セシアナの海の女神に願いましょう」
「女神同士でケンカしないといいんだけど……」
苦笑し、2人は他愛もない野球の話や、遠征先のホテルでの出来事、チームメイトの裏話などを肴に、ゆっくりとした時間を楽しんだ。
会話が途切れると、雨がひさしを叩くトントンという一定のリズムと、遠くで響く波の音だけが周囲を支配した。その静けさすらも、多忙な日々を過ごしてきた二人にとっては心地よい癒やしだった。
だが時計の針が午後2時を回り、さらに3時を過ぎても、天候が回復する兆しは一向に見られなかった。
「もうデザートも食べちゃったし、お腹もちゃぽちゃぽ……」
「るなさんともあろう方が、もうお腹いっぱいとでも? 次は山盛りフルーツが届くはずですよ」
「フルーツ? 食べる食べる!」
不規則に強くなったり弱くなったりを繰り返す雨は、まるでこのシーサイドコテージと海を切り離すかのようにしとしとと降り続いている。海を覆う霧のようなモヤは深まり、視界はむしろ朝方よりも悪くなっているように思えた。
「……ねえ、真鈴。そろそろ……」
るなはスマホの画面で日没の時刻を確認しながら、眉をひそめた。
「あと2時間ちょっとで日が沈むよ。いくらなんでも、この雨じゃイルカなんて出てこないんじゃ……」
「諦めたらそこで試合終了ですよ、るなさん! あたしに任せてください。こうなったら……とっておきの『アレ』をやりましょう」
「え? アレって……何するの?」
真鈴は不敵な笑みを浮かべると、ポケットからスマホを取り出し、素早い手つきで誰かに電話をかけ始めた。通話は英語で、数分と経たずに終わった。したり顔の真鈴が「気になります?」と口角を上げる。
「そりゃ気になるよ……。まさか、水族館に行こうなんて言わないでしょうね?」
「もっと頭を働かせてくださいよ、るなさん。あたしたちは何者ですか?」
「何者?」
「やだなぁ。『プロ野球選手』でしょう? イルカ側から現れてくれないなら、こちらから呼び寄せるまでです」
「は……はぁ?」
ぽかんとするるなをよそに、個室の扉がコンコンとノックされた。真鈴は扉を開けると大きな入れ物を受け取り、届けてくれたタキシードの男性の握手に応じている。扉が閉まると同時に、うきうき顔の真鈴がバルコニーへ戻ってきた。
「おー、これは使うにはもったいないくらいの品! ほら、見てください、るなさん」
真鈴がバルコニーに運んできた青い箱。そこにはツヤツヤと銀色に輝く新鮮な地魚が数匹、氷水に浸けられて入っていた。
「え……まさか……。ちょっと真鈴、本気?」
「やっと気付きましたか。もちろん。あたしはいつだって本気です」
「い、いやいやいやいや、いくらなんでも届くわけ……」
「浅瀬には来れないでしょうけど、100メートルもあればそれなりの深さになりますからね」
「100メートルぅっ?」
ご機嫌な鼻歌を交え、「お、この大きい子からいきましょうかねぇ」と、1番大きな魚をむんずと掴み上げる真鈴。雨に濡れるからか気分的なものか、キャップを被り直し、バルコニーの手すりギリギリまで歩み寄って行く。
「待って待って! 発想はおもしろいし冗談は分かったから、戻っておいでよー! そんなとこいたら濡れちゃうってー」
「るなさんはそこで見ててください」
振り返った真鈴の目は、勝負師そのものだった。冗談の欠片もない。ツッコむ言葉も見つからなくなったるなは、ひさしのギリギリまで行き、見慣れた白球ではなくコミカルに銀色の魚を握りしめたカリスマの背を見守るしかできなかった。
ゆったりとしたフォームで肩を回すその姿は、紛れもなくプロ野球のマウンドで無数の打者から空振りを奪ってきたカリスマエース。
野球のボールと魚では、空気抵抗も重さも全く異なる。どうなることやら……とるなは静かに見守った。
セットポジションから左足を大きく後ろに引き、右膝を胸元まで引き上げる。撓る肩と上腕がマウンドでオーラを放つ、神月真鈴の美しくダイナミックなワインドアップ。
ユニフォームでもマウンドでもないが、その姿は誰も真似できない唯一無二の女神だ……。
やっぱりかっこいい。左手にしているのが白球ではなく、滑り気のある銀色の地魚でなければ、だが。
「えっ! 嘘でしょー!」
真鈴の左腕から放たれた地魚は、雨の中を切り裂くレーザービームのように美しい直線を描いた。
るなはぽかんと口が開きっぱなしになった。魚は雨粒を弾き飛ばしながら、ぐんぐんと飛距離を伸ばしていく。100メートル以上の距離を軽々と越え、沖合の白波が立つポイントへと向かって一直線に落ちていく。
「すご……! さすがの肩だけど……だけどさぁ……」
「ふふん、思ったより飛びましたね。さぁ、どんどん行きますよ!」
「え……」
せっかくの高級鮮魚のキャッチアンドリリースにしかなっていないのでは……と呆れるるな。
2匹目は左側。3匹目は右側、と少しずつポイントを変え次々と投じていく。「今度はもっと右側にしてみましょうかね」と、真鈴が4匹目を選んでいるその時だった。
「え、え、えっ!」
るなは目を疑った。3匹目の魚が着水したはずの沖合で、大きな水柱が上がったのだ。
雨に霞む鉛色の海面から、美しい曲線を描く2つの影が、並んで宙へと躍り出た。
「あれ、あれって……!」
言葉が上手く出て来ない。口をぱくぱくさせていると、屈んでいた真鈴が「どうしました?」と立ち上がった。
あれは確かに、2匹の野生のイルカだった……。
仲睦まじく寄り添うように弧を描いて跳ね上がった2匹。ほんの一瞬だったけれど、息をのむほど美しく、幻想的な光景だった。




