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エースな彼女は変化球が投げられない  作者: 芝井流歌


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89/104

89☆女神なんですけど

 


 3週間ぶりに帰ってきた自宅マンションは、まだどこかのホテルにでも泊まっているかのように他人行儀な空間に感じられた。

 引っ越して間もなく交流戦の長期遠征に突入してしまったため、自分の匂いすら馴染んでいない。荷ほどきも半分しか終わっていない部屋はやけにだだっ広くてよそよそしかった。

 公式戦後半が始まるまでのオフは、たったの2日間。『リフレッシュと自主練』去り際に監督が残した言葉通り、この短い休息をどう過ごすかが、後半戦スタートダッシュの鍵を握るのだろう。

 るなは8時に起床するとぼさぼさのおかっぱ頭を手櫛で適当に梳きながら、重たい窓をうんしょと開けた。湿り気を帯びた潮風が、一気に部屋の中へと流れ込んでくる。 オーシャンビューの広いウッドデッキ。それが、この物件を選んだ一番の決め手だった。

 突っかけたサンダルでデッキに出る。大きく息を吸って空を見上げた。

 いつもの元気いっぱいのセシアナの太陽は、今日はどこかにかくれんぼをしているようだ。視界に広がるコバルトブルーの上には、どんよりとした薄灰色の雲が広がっている。


「えー、降りそうじゃん……」


 昨夜の予報では、確かに晴れだったはずだ。真鈴からの誘いを受けた際、スマホの画面で何度も天気予報を見比べながらOKを出したのだから間違いない。


「まぁ……あくまで『予報』だけどさぁ……」


 口を尖らせながら部屋に戻り、ベッドサイドに置いたスマホを手に取る。1時間ごとの詳細な天気を確かめてみた。夕方の時間帯にはセシアナお決まりのスコールマークが点灯しているが、それ以外は目視の通り、終日どんよりとした曇りマークが並んでいる。

 ちょっぴりがっかりして肩を落とするなだったが、すぐに気を取り直して身支度にかかり始めた。

 いくら空が暗くても、今日は待ちに待った久しぶりの外出なのだ。お天気でないのは実に悔やまれるが、ドライブに行くだけでも心身ともにリフレッシュできるはずだ。


『明日、イルカを見に行きませんか? 大丈夫! イルカだってあたしを一目見たいでしょうから、きっと会えますよ』


 昨夜届いた真鈴のメッセージを思い出して、るなは少しだけ頬を緩めた。

 ひょうたんの形をしたこのセシアナ島。その北島と南島を繋ぐ長いロングビーチには、『一緒に野生のイルカと出会えたカップルは結ばれる』という有名な言い伝えがある。いつか一緒に行こうと約束した、あの観光スポットだ。

 言い伝えはともかくとして、るなは純粋に、透き通った海を悠々と泳ぐ野生のイルカを見てみたかった。天気のいい日ほど遭遇率が高いと聞いていただけに、絶好のウォッチング日和になるはずだと、昨夜は胸を踊らせてベッドに入ったのだった。


『10時にマンションの下にお迎えに行きます。シーサイドコテージを特別に手配したので、誰の目も気にせずウォッチングを楽しめますよ』


 真鈴が誇らしげに語っていた『特別に手配した』というフレーズには、一瞬引っかかるものがあった。けれど、それ以上に自分たちのために動いてくれたことが嬉しくて、素直に喜ぶことにした。

 セシアナ一番の大人気観光スポットとあって、国内外からわんさかカップルが集まってくる。周辺にあるビーチサイドレストランの予約なんて、半年先まで埋まっているのが当たり前だと聞いたこともある。


「真鈴ってば、どんな裏技を使ったんだか……」



 *



「……で、今日は男装なわけね」


 マンションのエントランスを出ると、待ち構えていた車の運転席から顔を出した真鈴が、「乗りなよ、お嬢ちゃん」とニヒルに口端を上げた。

 サングラスに半袖のワイシャツ。そこまではまあ格好がついているのだが、七三分けの黒髪ウィッグがどうにもわざとらしい。明らかに北欧系の血が入っている真鈴の透き通るような白い肌に対して、その真っ黒な髪だけが露骨に浮いて見えるのだ。

 るなが助手席に乗り込むと、心地よい爽風がツバ広ハットを揺らした。早速エンジンをかけようとする真鈴の腕をがっちり掴み、真剣な顔で覗き込む。


「似合わない……って自覚、ある?」

「……そりゃないぜ、ベイビー。君とのデートを楽しみにおめかししてきたんだぜ? こういう時は褒めてくれなきゃ」

「だって、ほんとに似合わないんだもん。それに、そのキモいキャラもキモい」

「き、キモ……。ヒドいなぁ、るなさんてば」


 真鈴はむんずとウィッグを掴み、無造作に後部座席へぽいっと放り投げた。代りに黒いキャップを被り、「これでいいですか?」と不満げに向く。


「うん。でも、うちらって試合中はずっとキャップだから、ファンって逆にキャップ姿のほうが見慣れてるのよね。どうせウィッグにするんなら、前に被ってたロングウィッグでよかったんじゃない?」

「分かってないですねぇ。ゲイやビアンも当然いますけど、男女に変装したほうが、あの辺には擬態しやすいでしょう?」

「いや、だとしても『変装してます!』って格好のほうが人目につくでしょーが。あなた、どんな格好してもオーラとフェロモンがにじみ出てるんだから」


 シートベルトをカチリと締めながらそうツッコむと、真鈴は帽子を目深に被り直し、「褒めてんだか貶してんだか……」と呟いた。


「褒めてんの、褒めてんの! まあ、真鈴がいろいろ考えてくれたのは伝わったから、ありがと」


 にこっと微笑んでみせる。それを見て真鈴は満足そうに「じゃ、行きますか」とエンジンをかけた。同時にご機嫌な音楽が流れ出す。


「それよりさっき言ってた裏技って何? シーサイドコテージなんて、個人でそう簡単に押さえられるような場所じゃないでしょ」

「ふふん、あたしの顔パス……と言いたいところですが、ちょっとしたコネですよ。SNSで探していたら、オーナーがあたしの大ファンってとこを見つけましてね。『勝利の女神が来てくれるなら』って、特別に一棟貸し切らせてくれたんです。不本意ながら、『チームメイトと数人で』と予約しました」

「……やっぱり職権乱用じゃん」

「人聞き悪いですねぇ。ファンサービスですよ、ファンサービス」


 サングラスの弦の隙間から、真鈴がウィンクをよこしてきた。はぁ、そうですか……と呆れ笑いし、るなは車窓に向いた。

 サイドミラーに映るマンションの影が小さくなっていく。どんよりとした薄灰色の雲は依然として空を低く覆う。

 だが、沿道に並ぶヤシの木が潮風に揺れる景色を眺めていると、遠征続きでカチコチに凝り固まっていた肩の力が、じんわりと解けていく気がした。

 3週間ぶりのオフ。自分の家すらよそよそしく感じていた緊張感が、真鈴の他愛もないお喋りとドライブの振動によって、少しずつ心地よい解放感へと塗り替えられていく。天気がどうあれ、やっぱり外に出てきて正解だった。


「ねえ、本当にイルカ見られるかな」


 車は昨日通ったばかりのハイウェイに乗り、加速していく。島のくびれまでは1時間くらいだっただろうか。雲の隙間から差し込む光と、波間を跳ねる野生のイルカの姿を期待している自分がいた。


「任せてください。あたしを誰だと思ってるんですか? 勝利の女神は晴れの女神。ビーチに着く頃には、雲なんて吹き飛びますよ」

「晴れの女神? そんなの初めて聞いたけど……。予報、さっき見たらずっと曇りだったよ?」

「予報なんて過去のデータの集積に過ぎません。晴れの日に多く見られるってだけで、曇りの日には現れないわけじゃないでしょうし、なにより、イルカだってカリスマエースの姿を一目見たいでしょう」


 根拠のない自信を堂々と語る真鈴の横顔に、るなは耐えきれず吹き出した。

 いつだってこの強引でまっすぐなポジティブさに、チームも自分も救われてきた。信憑性はないけれど、なぜだか安心感はある。

 車はセシアナの美しい海岸線に沿って、北島と南島を繋ぐ長いハイウェイをまっすぐ突き進んでいく。


「あ……」


 重く垂れこめた灰色の空から、ぽつりぽつりと望まぬ雨粒が落ちてきた。フロントガラスに弾ける小さな水の波紋が、ひとつ、またひとつと増えていく。

 真鈴が「あれ?」と間抜けな声を上げてワイパーを動かした。水滴は拭っても拭っても後を絶たない。


「……晴れの女神様? 雨の女神様に負けちゃったの?」

「お、おかしいですねぇ。これは雨ではなく、祝福の聖水です」

「苦しすぎるでしょ、それ」


 るなは腹を抱えて笑った。ガラス越しに見える海は雨を受け、どんどん透明度をなくしていく。

 お目当てのイルカに会える確率は更に下がってしまったかもしれないが、ワイパーの規則正しい効果音を聞きながら、隣で焦る真鈴を眺めていると、不思議と失望感は湧いてこなかった。



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