88☆トレードなんですけど
正捕手であるサエが突如1軍を去ってからというもの、ドルフィンズの歯車は音を立てて狂い始めた。
翌日から10連敗。記録的な大失速である。戦いの舞台となった交流戦は、ノースリーグ・サザンリーグ合わせても最下位という最低の結果で幕を閉じた。
敗因を分析すれば、打率上位のサエを失ったことによるチーム打率の顕著な低下が真っ先に挙げられる。打線の軸であり、投手陣の精神的支柱でもあった彼女の不在は、数値上の打撃力低下以上に深刻な影を落としていた。
遠征先のホテルの廊下には、気まずい静寂が漂っている。すれ違う選手やスタッフからも、明るい会話や笑顔は消え失せていた。
3日後に迫った公式戦の再開。本拠地である南島へと帰り支度を整えていたるなもまた、自身の部屋で1人、スーツケースを開いたままのろのろと荷造りをしていた。
胸の奥にぽっかりと開いた穴は、どれだけ時間を置いても埋まる気配がない。サエという存在を失った恐怖と喪失感。信頼していたはずの先輩から嫌がらせを受け、追い詰められていたという惨劇は、今なお現実味を帯びない悪夢のようだ。
ふとした瞬間に、マスク越しの頼もしい笑顔や、ベンチでかけてくれた温かい声が脳裏をよぎり、そのたびに、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。憧れと尊敬、そして裏切られた戸惑いが混ざり合う。公式戦に戻ってもサエはいないという現実が、嘘であってほしい……。
同じことを何度考えただろう。畳みかけたユニフォームの手を止め、るなは深く息を吐き出した。
「何時……?」
今日は11時に遠征バスが出発する。スマホで時刻を確認した。9時を過ぎたところだった。あと2時間はある。
「ちょっと休憩するか……」
その時、手の中のスマホがブブッと短く震えた。画面に表示されたのは兄からのメッセージだった。
『るにゃ、連敗続きでベソかいてないか? バッティングフォーム改善したいなら、お兄ちゃんが相談に乗ってやってもいいぞ』
思わず、はぁと小さな溜め息が漏れた。荷造りの手を止め、返信する。
『泣いてないし。お兄ちゃんの打率、調べるまでもなく私より低いからね?』
画面をタップする指先に、少しだけ余計な力が入る。るなの煽り文句に対し、返信は数秒もたたずに返ってきた。
『うっせーわ。しゃーねーじゃん。俺ピッチャーだもん』
続けて送ってきたのは、兄が所属する球団の公式スタンプ。爽やかな笑顔を浮かべた兄の画像に『切り替えていこう!』という文字が添えられている。るなの前では絶対に見せない、営業用の取ってつけた笑顔に歯が浮きそうだ。
「意味分かんない。自爆やめてよね……」
画面を見つめたまま、ぽつりと呟く。既読だけ付け、スマホを閉じた。
外部の人間に対しては、サエの電撃的な2軍降格の理由は『コンディション不良』としか公表されていない。兄がチームの惨状をただの連敗だと受け止め、いつもの調子で茶化してくるのも無理はない話だった。裏でどんなドロドロとした事件が起きていたかなど、知る由もないのだから。
いつもなら、この適当でのうのうとしたやり取りに呆れつつも苦笑いの一つくらいは返せただろう。しかし今のるなには、兄の不器用な配慮を受け止めるだけの心の余白すら残されていなかった。
冷めた心地のままスマホを放り出す。すると間髪を入れず、今度はデスクに置かれたタブレットから、重厚な通知音が響いた。
画面を開くと、差出人はヘッドコーチ。件名は『緊急ミーティングの招集』と打たれていた。 1時間後、ホテル1階の会議室に全員集合とのこと。
何かが動き出しそうな予感に不安を覚える。頭の中は次々に浮かぶ嫌な想像でいっぱいだ。るなは既読代りのリアクションボタンをタップすると、端末を置いて、いそいそと中断していた荷造りに戻った。
*
1時間後。ホテルの1階にある大会議室は、異様な緊張感に包まれていた。 パイプ椅子に腰掛けた選手たちは、誰一人として口を開こうとしない。上座に並ぶ監督とヘッドコーチの硬い表情が、ことの重大さを物語っていた。
ミーティングが始まり、最初に発表されたのは2軍との選手入れ替え、そして、他球団とのトレードによる新戦力の獲得だった。
「ナイトシャークスより、キャッチャーを補強した」
監督のその一言が告げられた瞬間、るなの心臓が凍りついた。
他球団に移籍……。るなの最悪のシナリオが頭をよぎり、指先が凍りつく。
もしサエがトレードに出されたのだとすれば、もう二度とこのチームで一緒にプレイすることはできない。ドルフィンズに戻ってくる道すら完全に断たれてしまうのかと、胸が押し潰されそうになった。
しかし、続いた発表はるなの予想とは異なるものだった。
トレード相手であるナイトシャークスは外野手の補強を切望している球団であり、ドルフィンズ側から放出されることになったのは、外野手のステラだった。サエが移籍するわけではないという事実に一瞬胸を撫で下ろしたものの、共に戦ってきた仲間が去るという事実は心にずしりと響いた。
「ミーティングは以上。各自、リフレッシュと自主練はしっかり行うように」
監督の声と共に、緊張の糸が切れた会議室内にガタガタと椅子を引く音が広がっていく。選手たちが思い思いの表情で立ち上がる中、るなはまだ座席から立ち上がれずにいた。
自分との一件がなければ、サエは2軍に行くこともなかったし、チームが10連敗することもなかった。ステラの移籍もなかっただろう。動き出した歯車は元に戻せない。トレード対象となってしまったステラと目が合わないよう、るなは全員が退室するまで俯いていた。
「るな」
声をかけられハッと顔を上げると、ベテランのナルミがすぐそばに立っていた。いつもの落ち着いた眼差しで、るなを見下ろしている。
「宇田川チヒロって、るなの元相棒でしょ? 全然嬉しそうじゃないけど、もしかして仲悪かったの?」
「え……宇田川チヒロ……ですか?」
ナルミが隣に座ってきた。大方の選手は退室している。どこかで聞いたような……と、口の中で「宇田川チヒロ……」と繰り返してみた。
……元相棒とも言った?
チヒロ……?
るなの記憶が一瞬で早戻しされた。
「チヒロ……! そっか、今は宇田川チヒロだ……!」
旧姓は桜井千裕。るなの同級生であり、高校3年の時にバッテリーを組んだ元相棒だ。
高校卒業後、チヒロは推薦でるなとは別の大学へ進学した。お互い忙しいながらもしばらくは連絡を取っていたが、2年生に進級して間もなく『赤ちゃんできたから、大学も野球も辞めるの』という衝撃的な報告がきたのだ。
高校の卒業式で『いつかまた一緒のチームデバッテリー組みたいね』と抱き合った涙の約束はもう果たされない……。妊娠祝福の言葉の奥で、るなは寂しさを隠しきれずにいた。
「チヒロっ? チヒロが来るんですか?」
「ちょっとぉ、大事なミーティングだったのに寝てたの? そう。るな世代だからもしかしてって調べたら、高校選抜で優勝したと時の相棒じゃん」
「そう、そうですけど……チヒロは結婚して、野球は……」
「一度は、そうみたいね」
ナルミが「ほら」とスマホを差し出してきた。ナイトシャークスの公式ホームページだった。受け取り、震える指先でスクロールしていく。
経歴は大学中退後、2年後に社会人野球で復帰。翌年にはセシアナのプロテストを受け、ナイトシャークスへ入団、となっていた。
最後に会ったのは、るなが大学3年の夏。チヒロが中退した大学との試合に応援に来てくれた時だった。6ヶ月になった子供を抱っこさせてもらった。落としたらいけないからいい、と断るるなの顔を見て、子供はチヒロそっくりの笑顔できゃっきゃと笑った。
すっかりママの顔になったチヒロに会って、当にもう一緒に野球はできないんだと寂しくなった反面、その分も幸せになってほしいと願った……。
それ以来、なんとなくチヒロとは疎遠になっていた。母親になったチヒロと、何も変わらず野球一筋な自分。それぞれの道を選んだ相棒が今……。
「全然知らなかった……」
るなが呟くと、ナルミがひょいとスマホを取り上げた。スクロールし、せっせと成績を調べ出す。
「ふーん。まぁ打撃成績はそこそこいいし、データと計算でリードも上手い。あっちのチームはキャッチャー充実してるとはいえ、よく出したわよねぇ。公式戦再開が楽しみね」
ナルミはそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。暗闇の中に差し込んだ僅かな光を探すような、そんな強さがナルミの言葉には宿っていた。
スマホを閉じ、今度はるなの目をじっと見つめる。未だトレードの話に現実味を感じられないるなは、放心状態でナルミに向いた。
「でも、今度何かあったら、ちゃんと私にも相談しなさいよ? それと、るなもこっちの生活長くなるかもなんだから、少しは英語喋れるようになりなさい。サエはいつ戻ってくるか分からないし、私だっていつ引退するか分からない。神月真鈴や元相棒にべったりじゃ、いなくなった瞬間は孤独になるし、1人でも多くのチームメイトとコミュニケーション取れるほうがいいでしょ?」
るなは「ごもっともです……」と苦笑する。チヒロとの再会に胸が高鳴り出した。頷き、ようやく立ち上がった。
サエが残していった大きな穴、連敗の闇に落ちているチーム、そして新しくやってくる元相棒。
混迷を極めるドルフィンズは影の中で光を見出し、暗闇から少しずつ這い出そうとしている。
るなもまた、公式戦再開に向けて切り替えないと、と前を向いた。そして、爽やかスマイルの『切り替えていこう!』という兄のスタンプを思い出し、今度こそ吹き出したのだった。




