87☆切らせてほしいんですけど
その日のうちに、サエの処分が決まった。1軍登録は抹消。しばらくの間、自宅謹慎を言い渡された。
下手に尾ひれがついた噂が飛び交わないよう、選手全体に最小限の事情が伝えられた。球団外部の人間やマスコミに漏れないよう、厳重な口止めも徹底されている。
ほとんどの選手が、驚愕と動揺を隠せずにいた。無理もない。面倒見のよい人柄で後輩からも親しまれ、正捕手としての信頼も厚かったサエだ。長年チームを支えてきた存在が去るショックは、あまりにも大きかった。安堵と同時に、サエを追い詰めてしまった後悔が、るなの胸を締め付けた。
同時に、るなの1軍登録抹消も白紙となった。犯人が判明したとはいえ、まだ完全には恐怖を拭いきれない。だが今となっては、自分の軽率な言動に巻き込んでしまったリホへの申し訳なさのほうがずっと大きかった。
試合後に行われた全体ミーティングが終わり、試合の疲労と事件の衝撃に口数の減ったチームメイトたちは、重い足取りでホテルへ帰って行った。別室で球団関係者からの聞き取りを終えたリホが、何事もなかったかのように静かに帰り支度を始める。
大きなスポーツバッグを担いだリホに、るなは大事に丸めたタオルを差し出した。無口でクールなリホが、るなを守るために犠牲にしてしまった大切な髪が入っている。リホはそれを受け取り開くと、レモン型の大きな目をぱちくりさせた。
「……捨てておいていただいてよかったのに」
「奇麗だったから……。もったいないじゃん? でも、リホがいらないなら捨てて?」
「……それより、るなさん。ネックレス……」
「うん、返ってきた。サエさんのバッグに入ってたらしい。他には何も取られたりしてないし、私へのいやがらせは全部白状してくれたって……」
「戻ってきたんですね。よかったです」
リホの口元が、ふっと柔らかく綻んだ。自分にはもう戻ってこないものがあるというのに……。
「ねぇ、リホ。私が奇麗に切り揃えてあげる。これから部屋行っていい?」
「え……るなさんが、ですか? ……いえ、結構です」
「なんでよぉ! 私、小学生まではずっとお母さんに切ってもらってたんだよ? 切り方は分かってるんだってー」
「切ってもらってた、んですよね? 大丈夫です。ランニングがてら、美容院に行って来ますんで」
キッパリ断り、そそくさと退散しようとするので、るなは慌ててバッグのヒモを掴んだ。表情こそポーカーフェイスのままだが、小さなるなを引きずるほどの力で逃げようとしているのが明白だ。
「ねーぇ、遠慮しないで、お詫びさせてよーぉ」
「遠慮はしてませんし、お詫びもいらないです。るなさんもお疲れでしょうから、ご自分の部屋でゆっくり休んでください」
圧倒的な脚力で、ずんずん進んでいくリホ。るなはおもしろいようにずるずる引きずられていく。「待って待って」とバッグを叩くが、リホは聞こえないふりを決め込んでいる。
「ずいぶん楽しそうですねぇ、るなさん」
ロッカールームから出たところで、壁にもたれたまま睨み下ろしてくる真鈴と目が合った。先発後日なので、試合前にはホテルへ帰っていたはず。声を低く落とし、不機嫌さ丸出しである。
リホがピタリと足を止めた。急停止できなかったるなは勢い余ってつんのめり、リホのバッグにぼふっと顔を埋めた。
「いったぁ……! 急に止まんないでよぉ」
鼻を摩りながらリホを見上げる。リホは無言でるなの両肩を掴むと、クルッと向きを変え「どうぞ」と真鈴の前へ押し出した。無防備になっていたるなは、「わわっ!」と不格好によたつく。
真鈴は短くなったリホの首元をしばし見つめ、それから鋭い目つきでるなに向き直った。
「食事会場に誰も来ないと思ったら、緊急ミーティング? あたしだけ呼ばれないなんて、どういうことですか! るなさんもるなさんです。どうしてあたしに相談してくれなかったんですか! あたしを遠ざけようと下手くそな演技までしてくれちゃって、大人ぶってるつもりですか? 悲劇のヒロイン様ですか? 独りで抱え込むにもほどがあります!」
「そ、そこまで言わなくてもいいでしょー! 言えるわけないじゃん……。真鈴に言ったとこで、こうやって暴れて余計にややこしくしそうだし……」
「暴れるぅ? あぁ、暴れますとも! るなさんを傷付けるようなやつは、誰であれあたしが……」
廊下中に怒号を響かせる真鈴に、「そーゆーとこー!」と指を差す。
「そーゆーとこって、どーゆーとこですか! あたしが守らなきゃ、誰がるなさんを守るんですか!」
ふと視界の端に、そっと立ち去ろうとするリホの姿が入った。るなはすかさずバッグのヒモを掴む。リホが『なんでしょう?』といわんばかりの表情で振り返った。
キャップを被っていない今、リホの襟足は雑に切り刻まれた痛々しい不揃いさが露わになっている。主張の続きを述べようと口を開きかけた真鈴だったが、見慣れぬ姿になっても毅然としているリホを見て、唇を噛んで俯いた。
「……あたしは何も知らなかった。るなさんが追いつめられてたことも、サエさんがそんなことしてたことも……。何も気づけなかったあたしが、偉そうなこと言えないですね……」
自責の念に押し潰されそうな真鈴の顔を見て、るなは胸がキュッと締め付けられる思いだった。真鈴を巻き込みたくなかったのは本当だ。でも、頼ってもらえなかったことが彼女のプライドをどれほど傷つけたか……。
「ごめんね、真鈴……。真鈴を信じてなかったわけじゃないの。私自身もどうしたらいいか分からなくなってて……」
「いえ、悪いのはるなさんじゃないです。るなさんの言動が急におかしくなった時点で、何かできることがあったかもしれないのに……。ごめんなさい」
「ううん。私こそごめん。色々ヒドいこと言っちゃったし……」
空気がしんみりしたところで、再びそーっとリホが動き出した。るなはヒモが掌から抜ける間一髪で、ギュッと握り直す。
「……るなさん? 美容院は勝手に行きますので、お構いなく」
「だから、遠慮しないでってばぁ。もう遅いし、どこもやってないって」
「やってなければ明日行きます。お気持ちだけ頂戴しておきます」
「いいからいいからぁ。あっ、そうだ! 私より真鈴のほうが上手かもよ? お料理上手いからきっと器用だし、髪もショートだし。ねっ、真鈴?」
しょんぼり肩を落としていた真鈴が急に振られ「はい?」と切れ長の目を丸くした。それ以上に、リホのレモン型の大きな目がぎょっと見開かれる。
「あの……お料理とヘアカットは比例しません。本当に、本当に結構なので、その手を放してください、るなさん」
「……ヘアカットですか? リホさんの髪をあたしが? 任せてください! やったことはありませんが、この神月真鈴、るなさんにやれと言われてできないことなど何もありませんよ!」
水を得た魚のように息を吹き返した真鈴が「じゃ、早速切りましょう!」とリホの肩を掴んだ。前には真鈴、後ろにはるな。身動きの取れなくなったリホは「け、結構ですって」と首を振る。
「真鈴! るな! 何をしてるの!」
その時、廊下の角からトウコの姿が現れた。何やら鬼のような形相で、ずんずん近付いてくる。あっという間に合流したかと思えば、硬直中のリホの身体を抱き寄せ、「手を放しなさい!」と一喝した。
「今度はリホをいじめてるのねっ! あなたたち、自分がされて嫌なことは他人にしないよう習わなかったの? るな、あなたはリホに助けられたって言ってたじゃない! なのに、これはどういうことなの! ……リホ、大丈夫?」
「え……いじめ?」
鼻息の荒いトウコ以外の3人はキョトンとなった。信じがたい事実があった直後なので、トウコは敏感になりすぎているのだろう。キョトンとなった中で、1番に口を開いたのはリホだった。
「トウコさん、助けてください。サエさんに切られた時よりも怖かったです」
その顔のどこに恐怖を感じているのかとツッコみたくなるほどの真顔なリホ。るなと真鈴は口を揃えて「えーっ!」とうろたえる。
「やっぱり……! もう大丈夫よ? まだ何もされてない?」
「されていませんが、丸刈りにされるところでした。怖いので部屋まで送っていただけませんか?」
「もちろんよ! ……あなたたち? 次にリホに手を出したら……分かってるでしょうね? さっ、行きましょう」
ぽかんと口を開ける2人を残し、トウコはリホを連れて大股で去って行く。角を曲がる直前、リホが一瞬チラッとこちらに向いた。ぺこっと少しだけ頭を下げ、口をぱくつかせた。『ごめんなさい』、そう動いたように見えた。
「……ピリついてますね、トウコさん……。あたしとるなさんがいじめるわけないのに」
「ねー……。まぁでも、管理者だから。しばらくはみんなも落ち着かないよ……」
自分だってそうだ。無理矢理どこかに意識を持っていかねば、このままサエの消えた暗闇に飲まれそうで……。
当事者の自分が明るく努めていなければ、周りまでも引きずり込んでしまう。この2日間の出来事が夢ならばどんなにいいことか。悪夢なら早く覚めてほしい。サエも、リホの髪も返してほしい……。
「るなさん……。あたしは、るなさんの隣にいないほうがいいんですかね……」
見上げると、真鈴は廊下の奥に視線を向けたまま真剣な顔をしていた。るなは、その整った顔をまじまじ見つめる。
「……らしくないよ。真鈴」
「だって……付きまとっているのはあたしのほうなのに、狙われたのはるなさんだったんですもん。るなさんは何も悪くないのに……」
孤独なエースが、唇をぎゅっと噛みしめた。『眩しすぎて近付きがたいカリスマ』に戻れば、真鈴はまた独りになる。
「真鈴から、もっとみんなに近付けばいいんじゃないかな? そしたらみんなも嬉しいと思うし、私が独占してるみたいな見方をする人もいなくなるかもよ?」
「……そうですかねぇ……」
無論、それが真鈴に容易くないことはるなも承知だ。『カリスマ・神月真鈴』を作り上げたのは、真鈴本人ではなく、それを取り囲むファンやメディアなのだから。真鈴自身が変われたとしても、カリスマと馴れ馴れしくできるチームメイトはそうそうできないだろう。
るなもまた、孤独になるのが怖いのだ。ずっと面倒をみてくれていたサエが去った今、日本語しか話せないるなにはコミュニケーションを取れるチームメイトが限られてくる。
巻き込まれ、髪を切り落とされてしまったリホ。存在だけで嫉妬を生む真鈴。るなの側にいれば、それこそ被害が増えるかもしれない。
だが、これ以上誰かを失うのが怖いのだ。この先、もう狙われることがないとは限らないからこそ、チーム内の風通しをよくする以外に考えられない。
「そうだ! 今度、みんなで『後半も頑張ろう会』するのはどう? 交流戦終わったら2日間お休みあるし、歓迎会もしてもらってないんだもん。決起集会して真鈴からどんどん話しかければ、少しずつ壁も薄くなるかもよ?」
「……アイディアは嬉しいですけど、みんながそんな気分じゃないでしょうね。それに、今それを実行したとしても、みんなの動揺が治まるとも思えません」
「……だよね……」
学生時代、投球成績を妬まれたことならしょっちゅうあった。先輩に『生意気だ』と呼び出されたこともある。
でも、それは野球の実力で黙らせた。圧倒的な投球で認めざるを得ない状況にした。『夕海るながいるから試合に勝てた』という現実が、自分を守ってくれた。
しかし、今回は不可抗力だ。真鈴からるなが離れるか、真鈴の周りにみんなが入りやすくするか以外に、今は何も思いつかない。
遠くを見つめるカリスマの横顔が、酷く寂しく見える。
「一緒に考えよ? 私、もう誰もいなくなってほしくないから……」
きゅっと、真鈴の小指を握る。真鈴がゆっくり振り返った。頷き、るなのマメだらけの小さな手を、大きく温かい手が包み返す。
他人を変えることは難しい。だから、自分たちを守るために変わらなければならない。
野球に集中したい。野球を1日でも長くプレイし続けたい。きっとみんなも同じはずだ。
このマメだらけの手に、野球以外に何ができるか分からない。けれど、失いたくないものを繋ぎ止めることならきっと……。




