86☆犠牲になったんですけど
「言うんじゃないよ? 監督にも、誰にも……。万が一私だとバレたとしても、『ちょっといたずらされただけで、和解済みです』って言ってよ?」
「そ、そんなの……今更通用しませんよ……。サエさんのしてることは、監督への脅迫でもあるんですから……」
「うるさいっ! バレたら、って言ってんでしょ? あんたがバラさなきゃいいだけの話なの!」
球場全体を震わすような大歓声が、背後の壁を伝ってきた。今はドルフィンズの攻撃のはずだ。誰かが打ったのだろうか。それとも、ファインプレーに阻まれたのだろうか。
サエがイラただしげに舌打ちをする。
「時間がないんだよ。今までどれだけ面倒みてやったと思ってんの? 言わないって約束して!」
「……い、言わなくても……」
「しつこい! あんたが言わなきゃいいだけの話だっつってんでしょ!」
そう叫び、サエはるなの後ろ髪を掴み上げた。同時に、脇のテーブルに置いてあったペン立てから、ハサミを抜き取る。頭皮を引っ張られる強い衝撃に、るなは顔を歪めた。
「痛い!」
「……身体に傷を付けるのはさすがに勘弁してあげる。約束、する?」
冷たい刃先が首筋に触れる。ハサミを持つサエの手が小刻みに震えだし、顔色も徐々に青ざめていくのが分かる。息も荒々しくなっていった。
サエは本気だ……。もう戻れない、とヤケクソなのだろう。るなの全身が恐怖で凍りついた。息を吸うことすらも許されぬような張り詰めた空気の中、カシャっという電子音が聞こえた。
るなとサエは、同時に音源に向いた。ロッカーの角から、スマホを翳す人影が現れた。
その人物は無表情でスマホをいじりながら、すたすた近付いてくる。髪を引っ張るサエの力がグイッと強まった。
「リホ……! そ、その写真、どうするつもりよ!」
「サエさん、ツーアウトです。戻りましょう」
先発のリホだった。リホはポーカーフェイスのまま、撮影仕立ての画像をこちらに向ける。
憎悪で顔を歪めるサエと、髪を鷲づかみにされ悲痛な表情のるなの横顔が、遠目ではあるが鮮明に写されていた。サエはるなの髪から手を放し、今度はリホに掴みかかった。
「今すぐ消せ!」
「肩を温めたいので、構えてくれませんか?」
「聞いてんのっ? その写真消せって言ってんの!」
スマホを取り上げようとしたサエの手が空を切る。舌打ちしたサエは、リホのポニーテールを捕らえた。
「早く! 早く消せ! でないと……」
「……その前に、るなさんに謝罪してください。ツーアウトです。もう戻らないと」
「う、うるさいっ!」
ジャキッという音と共に、リホの艶やかな黒髪が、バサリと落ちていった。恐怖で足がすくんでいたるなも、思わず息を飲んだ。トレードマークであったポニーテールを失ったリホは一瞬口を引き結んだが、すぐにいつも通りの冷静な表情でサエを見据えた。
「……戻りましょう。今は試合中です。私のボールを受けてください」
「……リホ……あんた、あんた狂ってるよ! おかしいんじゃないのっ? バカなのっ?」
「落ち着いてください。今、私のボールを受けてくれるのはサエさんしかいません。どうか冷静になって、試合に集中してください」
「うるさいうるさいうるさいっ! 私だって……私だって、なれるもんならなりたいよ!」
真っ青になったサエはハサミを床に叩きつけ乱雑に額の汗を拭うと、散らばったリホの黒髪を踏みつけながら、逃げるようにロッカールームを飛び出していった。パタンと重いドアの音が響き、静寂が室内を包み込む。
るなは糸の切れた操り人形のように、壁にもたれたままずるずると尻もちをついた。恐怖と犯人がサエであった悲しみで、震えが止まらない。首筋に残るハサミの冷たさと、髪を強く引っ張られた痛みがじんじんと残っている。
「るなさん……大丈夫ですか?」
ポニーテールを結び目からばっさり切られてしまったリホが駆け寄り、るなの背を優しく撫でた。肩越しに、るなの代りに犠牲になってしまった黒髪が横たわっている。主人から切り離されてもなお、蛍光灯に反射し輝き続けている……。
「リホ……リホ、ごめん……。私のせいで、リホの髪が……」
「……髪はまた伸びます。るなさんは、ケガはないですか?」
「ない……。ケガはないけど……お母さんのネックレスが……」
潤みだしたるなの瞳の理由を察したらしく、「あとで、一緒に探します」と言い、リホは立ち上がった。見上げるリホの眼差しはりりしく、脅威にも屈しない強さがあった。
「ごめんなさい。私は投げてきます。るなさんは?」
「行って? 私は大丈夫だから……。ありがとう。ごめんね……。ほんとにありがとう、リホ……」
リホは黙って頷き、キャップを被り直した。走り去る後ろ姿には、見慣れたトレードマークはない。足音が遠ざかる。るなはのろのろと立ち上がり、背番号の一部を隠していたほどの長さのリホの髪を、一本残らず拾い上げた。
2回表の開始を告げるアナウンスをかき消すほどの、地鳴りのようなどよめきが響いた。無理もない。先程まで当たり前に存在した、美しい黒髪を失っていたのだから……。
サエは、サエはどうしただろう……。冷静になり、試合に戻れただろうか。引き返せなくなり、髪を切り落としてしまったチームメイトのボールを、どんな顔で受け止めているのだろう……。
「るなっ!」
拾い集めたリホの髪をタオルで丁寧にくるんでいると、血相を変えたトウコが室内に飛び込んできた。るなと目が合うなり、ヒールを鳴らしながら駆け寄り、強く抱きしめる。
「トウコさん……」
「ごめん、ごめんね! やっぱり、独りにさせるべきじゃなかった……! まさか……まさかサエが……?」
るなは唇を噛みしめ、こくりと頷いた。入団初日からるなの面倒をサエがよくみていたのを知っているトウコは絶句し、より強くるなを抱きしめた。
聞くと、トウコは警備室で防犯カメラを早急に設置してくれないかと交渉していたらしい。マウンドに現れたリホの姿をモニターで見て仰天し、交渉そっちのけでるなを探しに来たという。
「ここに来る途中、バッテリーコーチに付き添われたサエとすれ違ったの。半狂乱でほとんど何を言っているか分からなかったけど、頻りに『ごめんなさい、ごめんなさい』って謝ってたわ……。リホまでいやがらせされていたなんて……。気付いてあげられなくてマネージャー失格ね……」
首を振り、るなはゆっくりトウコから身を離す。
「リホは私のせいで切られちゃったんです……。試合は……?」
「そうだったのね……。リホは相変わらずよ。いつも通り頑張って投げてくれてる。ベンチとお客さんのほうが動揺してるくらい。サエは……試合に出せる状態じゃないわ」
るなはトウコに連れられ、昨日と同じ会議室で待機させられた。大型モニターには、ポーカーフェイスで通常運転のリホのアップが映し出されている。急遽交代のキャッチャーのサインに頷き、力強いシュートを投げ入れた。いつもと違うのは、その不揃いな後ろ髪だけ……。




