84☆なくなったんですけど
翌日も、るなは真鈴を避け続けた。
自分が真鈴から離れれば、犯人の気も収まり、チームの平穏が保たれるはず……。そう信じていた。
だが、現実はどこまでも残酷だった……。
部屋に籠もるより汗を流していたほうが気が紛れる、と全体練習前に球場入りしたるな。数人の選手が早出でいたが、昨日、捨て忘れてロッカーの上に置きっぱなしにしてしまった安全ピンがなくなっていた。
誰かが回収した。それが犯人だとすれば、またどこかに仕込まれているかもしれない。るなはロッカー内の荷物をひとつひとつ、手汗をかきながらそっと摘まみ上げ、異変がないか確認していった。
今日はなさそうだ……。構えすぎだったかもしれない……と、ホッとしたのもつかの間。ロッカーの奥底に、監督に送られたシャワー写真が貼り付けてあった。
るなはぞっと鳥肌が立った。写真は同じだが、るなの後ろ姿のその写真に、黒いマジックでいたずら書きがされていたのだ。
頭には黒い触角。背中には黒い羽根。今度はスペイン語で何か殴り書きされていた。
犯人は複数いるのだろうか……。いや、英語とスペイン語の両方を話せる選手も少なくはない。もしくは、バレないように両方使っているのか……。
どれも有り得る。るなは周りに見られていないのを確認し、それを剥がし、手の中でくしゃくしゃに丸めた。
ユニフォームも入念にチェックした。特に汚されたり切り刻まれてはいないようだ。針なども刺さっていない。一安心し、壁面にかけたキャップを手に取った瞬間、中からロジンバッグが出てきた。
キャップの内側はロジンで真っ白になっていた。気付かず被っていたら、髪は粉だらけになっていただろう。大方ははたき落とし、取り切れない分は濡れタオルで拭き取った。
そっと、周りを見渡す。他の選手はお喋りに夢中になっていたり、タブレットで相手チームの研究をしていたり。誰1人としてるなに着目している者はない。
いやがらせならば、るなの困った顔を見て楽しがるものではないのか。分からない。犯人の心情が分からない。
グラウンドで練習に打ち込んでいる間も、るなの脳裏には次のいやがらせの恐怖でいっぱいだった。視線が気になる。笑顔の人が怖い。でも、いつも通りにも見える。大きなかけ声にビクッと身体が反応してしまう。
集中できない……。こんなことではケガさせられる前に、自らケガしてしまいそうだ。アップもそこそこに、るなはベンチでチームメイトたちの練習風景を、どこか別の場所から眺めているような気分で見つめていた。
……案の定、スタメンは外された。コンディション不良という名目で落とされる予定なのだから、そこまでは想定内だ。監督も気にかけてはくれたが、話は何一つ入って来なかった。
試合直前、置いておいたスポーツドリンクを口に含んだ瞬間、激しい違和感に襲われ吐き出した。針で舌を刺されたような痛みが走る。中身を嗅いでみると、鼻にツンとくるエタノールの刺激臭がした。
「汚いなぁ。るな、どうしたの? 思い出し笑い?」
「あ、あははは……すいません。ちょっと、そう、思い出し笑いしちゃって……」
チームメイトに作り笑顔を見せ、雑巾で床を拭きながら、るなは練習の汗とは違う汗を感じていた。監督やマネージャーも目を光らせておくとは言ってくれたものの、早速いやがらせはエスカレートしている。中身を全てトイレに流し、仕方なく2本目を開けた。
しかし、安易に口にすることはできなかった。匂いを嗅いでも、今度は無臭の何かを混入されているかもしれない。まじまじと中を観察する。ただの白濁したスポーツドリンクにしか見えないが、無色の何かが混入しているかもしれない……。
放置はできない。ドリンクも、バットもグラブも。また細工されるかもしれない。疑心暗鬼が、るなの精神をゆっくりと蝕んでいく。ベンチにいる全員が怪しく見え、誰の笑顔も信じられない……。
「るな。顔色が悪い。何かあったか?」
監督が隣に座ってきた。周りを警戒し、小声で問いかけられたが、るなは「ちょっと、体調が……」としか言えなかった。
疑わしげな監督だったが、コーチに呼ばれすぐに席を立った。「何かあったらすぐ言いなさい」と耳打ちされたが、明らかに『ただの偶然』とは言えない出来事に、るなは恐怖に震えていた。
視線が怖い。独りになるのも怖い。でも、助けを求める先が分からない……。
「るなさん。昨日、どうして電話出てくれなかったんですか? 食事会場にも来なかったって聞きました。体調悪いんですか? スタメン表にも名前なかったし……」
頭を冷やそうと洗面所へ向かう際、ベンチ外で待ち伏せていた真鈴に捕まった。一番会いたくない人物だ。なんて間の悪い。るなは視線も合わさず、真鈴の横を素通りしようとした。
「るなさん、待ってください! 昨日からおかしいです。あたし、何か嫌われるようなことしちゃいましたか? そうじゃないならちゃんと言ってください! 体調悪いなら悪いで、何か差し入れでも……」
「やめてよっ!」
廊下中に響き渡った。るなの腕を掴もうとしていた真鈴の手が止まる。
「るな、さん……?」
「付きまとわないで! 私のことは放っておいて! 話したくないのが分からないのっ?」
絶句した真鈴の顔を見る勇気などなかった。駆け出す自分を追ってくることもなく、真鈴は廊下に立ち尽くしていた。場内スピーカーからは、もうすぐスタメン発表だというアナウンスが流れてきた。
観客の沸き立つ声も聞こえてくる。この中に、自分のスタメン落ちにがっかりするファンが何人いるだろう。そのファンたちからの期待も裏切ることになる。
悔しくて虚しくて、自分は何をしているのだとバカバカしくなってくる。真鈴が悪いわけじゃない。なのに不器用に突っぱねて、傷付けて、もう元には戻れないかもしれないというのに……。
頭がおかしくなりそうだ。やっぱり冷水で顔を洗おう。このままじゃ、とてもじゃないがベンチになんかいられない。
「……そうだ……」
誰に話せなくとも、母なら自分を守ってくれる。落ち着かない試合の前や落ち込んだ時には、いつも母に守ってもらった……。
るなはロッカールームに方向転換し、母の形見のネックレスを取りに行った。あれを身に付けると、自然と母に守られているような安心感が湧いてくるのだ。
駆け足でロッカールームに飛び込む。試合直前で灯りも消されていた。扉近くのスイッチを入れ、自分のロッカーがある2つ目の角を曲がった。
バタン、と勢いよく扉が閉められた。それはるなのロッカーの扉だ。
るなは固まった。るなのロッカーを閉じた人物もまた、扉の窪みに手を付けたまま固まっている。
「……なに……してるんですか……?」
すくんだ足が動かない。踏み出したいのに、詰め寄りたいのに、身体がそれを拒否する。
違う。この人は犯人じゃない。単に同じ背番号のユニフォームを身につけている、赤の他人だ。
「びっくりしたぁ……。脅かさないでよ、るなぁ」
そう笑うサエは、額にうっすら汗をかいていた。
「サエさん……? 今、私のロッカーを……」
「……え、るなの? 違うよぉ。るなは隣でしょ?」
サエが扉を叩き、バンバンと金属音を立てる。
……確かに、サエのロッカーは隣だ。疑心暗鬼ゆえに、見間違えてしまったのか……。サエは額の汗を腕で拭い、「んじゃ、先行ってるよ!」と走って出て行った。
安堵で、るなの足の硬直も解けた。当たり前だ。サエが犯人なわけがない。自分は嫌なやつだ。かわいがってくれている先輩をも疑うなんて……。
「最低だ……」
悪いのは自分だ……。真鈴でも、監督でもない。こうなった発端は、自分の甘さから来た自業自得だ。
なのに、誰のことも信用できなくなっている……。
「最低だよ……」
こんな自分がいなくなれば、本当にチームの平穏に繋がるのかもしれない。調子に乗っていたのかもしれない。今更気付いても遅い。腹が立ってきた。忍び寄る脅威にも気付かず、今の今までのうのうと過ごしてきた自分に……。
とぼとぼとロッカーに近付き、扉を開く。最後に閉じたままの状態だった。しかし、バッグの内ポケットに入れてあるはずの、母のネックレスが見当たらない……。
「嘘……でしょ……?」
鼓動が加速していく。バッグを逆さまにし、中身を全てぶちまけた。別のポケットにも、ポーチにも、タオルの隙間にも……。
「お願い……あれだけは返して……。あれはお母さんの、お母さんの……」
震える手で、何度も確認する。ない。ない。ない。どこにもない……。るなはその場にへたり込んだ。
なぜ自分がこんな目に合わなければならないのか……。怒りと恐怖で狂いそうになる。
もう監督に打ち明けようか。いや、あと数分で試合が始まる。今は言えない。ならば、トウコに打ち明けようか。今日は姿を見ていない。次のホテルの手配や打ち合わせで外出中なのかもしれない。
「誰か……。お母さん……」
床に散乱した私物の中で、るなはへたれ込んだまま動けず呆然としていた。
どうしたらいい? どうしたら返してもらえる……? 自分は傷ついてもいい。あれは、母のネックレスだけは……。
「返して……」
るなの呟きは、がらんとした部屋の中に、虚しく溶けていった。




