80☆熱いんですけど
翌日、るなはヒカルの声で目が覚めた。
枕元のスマホを手に取る。ディスプレイには7時と表示されていた。のそのそ起き上がる。身体が軽い。ヒカルの香りに包まれたベッドで寝たからだろうか? アロマオイルよりも熟睡効果が感じられる。
寝室の扉を開けると、「怒るよ?」と言いながら笑うヒカルの横顔が見えた。すでに髪も整え、私服に着替えている。
「壊れてるんだってば、その体温計。それとも、自分のチームがレッドミネルバズに連敗したからって、あたしを投げさせないつもりとか? 『ドルフィンズも連敗しちゃえ』って思ってんでしょ」
「ぜーんぜんっ。むしろ、妹の活躍は見たいくらいよ? でも、活躍以前に、元気にならないと投げられないでしょう?」
「だから、熱なんかないって。パパに言ったら、一生ヒカルのこと許さないから」
「もう……お父さんに嘘ついたって、そのリンゴみたいな顔見たらバレちゃうからね」
そんな姉妹のやりとりの中、るなはそろりそろりとリビングへ近付いて行く。
見ると、真鈴はソファベッドの上で座っていた。会話の通り、白い肌は真っ赤だ。そんな妹を、体温計片手に寝かせようとするヒカル。
「いい子だから寝てて? 私は夜には北島まで戻らなきゃだけど、お婆ちゃんのお迎えは私が責任持ってお父さんと行ってくるから。明日、熱が下がったらお父さんと合流して?」
「だからぁ、明日は登板なの! 今日のうちにお婆ちゃんに会っておかないと、もうお婆ちゃんの顔見れないんだよ? あたしはプロなんだ。セシアナ中の神月真鈴ファンが、あたしのピッチングを待ってる。代わりはいないんだよ!」
真鈴が腕を振りほどくと、ヒカルの手の中の体温計が吹っ飛んだ。それが忍び足のるなの足元まで転がってくる。拾い上げたるなは、思わず口を挟んでしまった。
「38度! 真鈴……ヒカル先輩はね、あなたのことを思って言ってんだよ?」
姉妹が振り向いた。るなの存在を忘れていたのか、真鈴は「る、るなさん?」と目を丸くした。
ずんずん詰め寄る。ヒカルが真鈴の背後で『言っちゃえ言っちゃえー』と言いたげに、にこにこしている。
「ヒカル先輩。真鈴の看病は私がします。監督にも任されてますし。もし夜までに真鈴が帰れる状態じゃなかったら、もう一晩だけここに泊めてもらってもいいですか?」
「もちろん! 合鍵渡しておくよ。よかったねぇ、真鈴。大好きなるなが一緒にいてくれるって。……あっ、でもお父さんはどこに泊まるかな? もしここに泊まりたいって言い出したら、私がホテルを予約しておかなきゃね」
すかさず反論しようとした真鈴に背を向け、ヒカルは「あっ、朝ご飯買ってくるねー」と真鈴の車のキーを片手にいそいそ出て行った。
玄関扉が閉じる音と同時に、一瞬の静寂が訪れた。ヒカルがいなくなった瞬間、しょんぼり俯く真鈴。タオルケットを腹までたくし上げ、「はー……」とため息をついている。
るなもソファベッドへ腰かける。祖母への愛とプロとしての意地の狭間で葛藤するチームメイト。『真鈴の代わりはいない』という監督の言葉を思い出した。
「ねぇ、真鈴……? 監督も『真鈴の代わりはいない』って言ってた。だけど、お婆ちゃんのために泣いてあげられる真鈴も、代わりはいないんだよね……」
「……そうです。分かってくれているなら、なんで止めるんですか。お姉ちゃんぶって寝かせようとするヒカルを説得してやってくださいよ。あたしの熱は知恵熱みたいなもんなんです。病気じゃないんだから平気だってのに……」
「お姉ちゃんぶってる、っていうか……正真正銘のお姉ちゃんでしょうが。あなたは覚えてないかもしれないけど、放心状態のあなたを病院まで送ってくれたのも、手続きしてくれたのも、ご飯食べさせてくれたのも、お風呂入れてくれたのも、全部ヒカル先輩なんだよ? 少しは感謝して、言い方気を付けなさい」
「……るなさんまで……」
真鈴はもう一度わざとらしいため息をつき、こてんと横になった。るなに背を向け、ネコのように丸くなる。
大好きな祖母を失い悲しみに暮れているのに、喪に服す暇もなく、『エース・神月真鈴』の仮面を被り直そうとする真鈴……。
ヒカルだって、そのプライドと責任を分かってないわけがない。『一ファン』ではなく『姉』の立場だからこそ、自分にしか言えないことを言わなければならないのだ。
「お父さん、何時頃着くって?」
「……」
「こら、真鈴! 無視するな」
布団越しにぼふっと背中を叩くが、真鈴は布団を頭まですっぽり被ってしまった。断固無視の姿勢だ。
「ねぇ、お父さん来るまでに熱下がったら、一緒にお婆ちゃんのお迎え行ってもいいんじゃない? 私もヒカル先輩に交渉してあげる。愛とプライドで下げてみたら?」
「……なんですか、愛とプライドって……」
不機嫌な口調だが、もぞりと寝返りをうってこちらを見上げてきた。るなは立ち上がり、ラックにあった真鈴の写真集を手に取る。ピッチングモーションはもちろん、勝利のハイタッチの笑顔や私服姿など。るなが肉眼で見たことのない神月真鈴の写真がずらりと並んでいる。
るなはそれをぺらぺらめくり、ぽつりと話し始める。
「……うちのお母さんさ、試合終わって駆けつけたお兄ちゃんの顔見て、そのあとすぐに息を引き取ったんだよね……。お兄ちゃん、もっと早く来ればよかったってギャン泣きしてたけど、次の日にはもういつものプロの顔になってた。『葬儀は俺のスケジュールに合わせてくれ』って、一日も試合休まなかった。『母さんは、俺が野球やってないと心配するから』とかかっこつけちゃってさ……。ガラじゃないってのにね……。当時はお兄ちゃん強いなって思ってたけど、野球やってないといつまでも塞ぎ込んじゃいそうだから、逃げてただけかもね……」
あははっ、とるなが笑うと、真鈴は潤んだ瞳で「かっこいいじゃないですか……」と呟いた。
「かっこよくなんかないよ。うちのお兄ちゃんはマザコンでヘタレなだけ。代えのきく中継ぎだったし、真鈴とは違う。だからさ……」
るなは写真集を枕元に置き、薄茶色の前髪をかき上げた。
「早く元気になって、かっこいいピッチング見せてよ……」
そっと、額に口付ける。熱い体温が、唇を通して伝わってきた。
「るなさん……。不謹慎ですよ……」
「……ごめん。そうだよね。真鈴に元気になってほしくて、つい……」
唇を離すと急に照れくさくなり、るなは慌てて顔を逸らした。
だが、真鈴の両手が頬を包んできた。熱い。
「るなさん、顔真っ赤」
「……ばか。移さないでよ」
「風邪じゃないから移りませんよ。だから、あたしに元気をください……」
抱き寄せられ、るなは上体を崩す。覆い被さるような体勢になり、そのまま唇が重なった。
……イズミに奪われたファーストキスとは全く違う、熱くて優しいキスだった。吸い寄せられるように、真鈴に身を委ねる。長いような、短いような時が流れた。
やがてるなから唇を離すと、真鈴が恨めしそうな目で見上げてきた。
「……不謹慎ですってば、るなさん」
「……そ、そっちがしてきたんでしょー!」
「パパは昼過ぎ頃に着くって言ってました。ママの着替えやら入院に必要な物を届けてから来るって。あと5時間はあるし、もう1回キスしてくれたら、それまでには治りそうです」
「調子にのるなっ」
写真集の角で、額を軽く叩く。るなが立ち上がると、「けちっ」と笑顔を見せた。
「てか、なんですかそれ。ヒカルってば、あたしの写真集なんか買ってたんですか? シスコンじゃないですか。いや、シスオタです」
「恩知らずな妹だこと! それくらい減らず口たたけるなら、すぐ元気になりそうね。そのシスオタお姉ちゃんが買ってきてくれる朝ご飯、全部食べないとここから出さないからね? お婆ちゃんのとこにも、試合にも行かせないんだから」
「ひどっ。病人になんてこと言うんですか」
「病気じゃないって言ったの、そっちでしょ?」
抗議の目を向けてくるが、るなは知らんぷりで写真集を戻しに行く。ダイニングチェアに腰かけ、メッセージアプリを開いた。
『おはようございます。真鈴はちょっと熱が出ています。心身疲労の一過性のものかと思います。本人は投げたいようですが、昨夜はろくに食事も取れなかったので、昼過ぎまで様子を見させてください』
監督に送信する。すぐに既読がついた。
『おはよう。念のため、リホには前倒し登板を伝えてある。やっぱりるなに任せてよかったよ。ありがとう。また連絡してくれ』
「任せてよかった、か……」
呟き、『了解です』とだけ返信する。背後に気配を感じて振り返ると、まだ赤い顔のままの真鈴が覗き込んでいた。
「前倒し登板? そんなのさせませんよ。明日はあたしが投げます」
「だからぁ、体調整えて……」
「冷たいシャワーでも浴びて、整えてきます。じゃなきゃ、グランマもファンも泣きますからね」
そう言い捨て、真鈴は大股でバスルームへ向かう。バたんっと、勢いよく扉が締まった。強いんだか弱いんだか……と、るなは苦笑する。
……でも、捧げた唇の効果が少しでもあったのなら、それこそ自分の代わりはいなかったのかもしれない……。
「だったら、いいんだけどね……」
少なくとも、バスルームへ消えて行ったあの凜とした後ろ姿は、昨日の悲しみに暮れる少女の姿ではなかった。
熱く柔らかい感触の残る唇に触れる。くすぐったい感情に、また顔が火照っていった。




